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8.7 どんな人間だって命は一つしかないのに

 駆ける珪己はしばらくして自分の無鉄砲さに気がついた。これでは一年前と同じだ、と。真冬に外套も着ずに、しかも手ぶら。私はいったい何を考えているのだろう、と。


 だが一年前と違い、今は身重ではない。全速力で走ることができている。体が熱い。なのに全然息がきれていない。まだ余裕がある。そしてあの頃よりも武芸の腕が上達している自負もある。体力も相当増している。日頃から優れた指導者の元で稽古を積んできた成果だ。


 それより何より、先日再会したばかりの冨完の笑顔が頭から離れない――。


『俺はりょ冨完ふかん

『楊珪信に会ったらよろしく言っておいてくれ』

『あいつの度胸があるところや武芸に真摯なところを俺は気に入っていたと』


 とてもすがすがしい笑顔を浮かべていたあの人のことを――。


 男装して近衛軍の稽古に参加していた時も、珪己は冨完と直接言葉を交わしたことは数えるほどしかなかった。先日会った時も彼が第一隊の武官だとすぐには気づけなかったくらいだ。


 だが一度素性を知り、既知の人間であることに気づけば、冨完に対する強い同属意識が珪己の中に芽生えてしまっていた。数日間同じ隊に所属していただけなのに、もはや冨完のことをただの知り合いとは思えなくなっている。


 彼が仁威の部下だったことも理由かもしれない。いや、大きな視点で見れば、父・玄徳の部下であるからかもしれない。または、仁威や玄徳のようについふるまってしまっているだけなのかもしれない。このような時、あの二人ならばまず間違いなく冨完の安否を確かめようとするはずだ。


 だがそれらの考えを珪己は自らによってすべて否定した。


(ううん、違う。それだけじゃない)

(あの人は私のことを覚えてくれていたから、だから……!)


 珪己はわき目もふらずに屯所に向かって駆けていく。全速力のさらに上、限界を超える速さで、立ち止まる人々、すれ違う人々を器用にすり抜けながら、街の中心部を駆けていく。


 その珪己が向かう方向には先程から一筋の白い煙が立ち上っている。


「火事だ……!」

「十番隊と他の隊の奴らが争い出したらしいぞ!」

「このままここにいたら巻き添えになるかもしれん!」

「逃げろ逃げろーっ!」


 通りの建屋から一人、また一人と現れ、珪己がやって来た方向へと走っていく。突然のことに動揺しているのか、いで立ちは人それぞれだ。だが何も持たない者はいない。ぱんぱんに膨れ上がった風呂敷を背負う者もいれば、その手に幼児の腕を掴む者もいる。暴れる猫を胸に抱く者もいる。この異常事態において、急いで選び取った何かしらを誰もが引き連れている。目指すのは当然、安全圏だ。文字通り、火の粉がかからない場所まで。


 進めば進むほど混乱の度合いが増していく様子を珪己は肌で感じている。すれ違う人々の焦りや苛立ちがはっきりと伝わってくるのだ。


 しかし、何より気になるのは屯所の方から感じられる異様さだった。火事よりももっと切実で恐ろしい気配があちらから感じられるのだ。


 たなびく煙は気づけばだいぶ太くなってきた。鼻孔に感じる焦げ臭い匂いも無視できなくなってきている。


 と、視界の一部でぱちっと赤い火の粉がはじけた瞬間を珪己はとらえた。煙の源で炎の勢いが増しているのだ。


(急がなくちゃ……!)


 珪己が腹に力を込めたのと、背後から肩をぐっと掴まれたのはほぼ同時だった。


 振り向くと、呼吸困難に陥る直前のような息遣いで晃飛がそこに立っていた。


「君、さ。思ったより足、速い、よ……」


 荒ぶる呼吸の合間をぬうようになんとかそれだけを言うと、晃飛はあらためて珪己の肩を掴む手に力を込めた。


「はあ……。何のために今まで家に引きこもってたの。行ったら駄目だよ」

「でも!」

「でもじゃない。君が一番に考えるべきは仁兄と子供との生活、だろ?」


 晃飛に晃飛の優先順位があるように、珪己にも珪己の優先順位があるべきだ。それは本人にしか分からないことでもある。だが「今から屯所に行く」という行為に優位性があるとは、晃飛には到底思えないでいた。


「それはそう……ですけど」

「ですけど、じゃない」


 正直否定されなくてほっとしつつ、晃飛がぴしゃりと言った。


「さ、帰るよ」


 だが珪己は頑なに動こうとはしなかった。


「ほら」


 再度促しても同様だった。


「晃飛さん」


 硬い声音で名を呼ばれ、晃飛はなんとなく続きが分かった。案の定、「私、やっぱり行きます」と珪己が言うものだから、晃飛はため息をつかざるをえなかった。


「うーん。頑固だなあ。やっぱり君は犬じゃなくて猪だね」


 これに珪己は何も言わない。ただじっと晃飛を見つめている。そうすることで自分の信念、思いが晃飛に伝わると信じているのだ。


 やがて晃飛の表情から笑みが消えた。


「いい加減に」


 いい加減にしろ、そう言いかけたところで。


「護りたいと思った人を護りたいから、だから私は武芸を始めたんです」


 珪己が自分の想いをはっきりと口にした。


「それに自分にとって大切な人だけを護りたいわけではないんです」

「……君」


 晃飛の目が驚きによって見開かれた。


 これほどまでに強い気迫、強い闘気を有する女だったのか、と今更ながら気づかされたからだ。



 *



 随分自分勝手に生きてきた自覚が珪己にはあった。武芸の道に進んだことも、その結果開陽を離れてこの街で子を産み、夫を持ったことも――。


 しかしそれこそが自分自身を大切にすることだと思ってきたのだ。


 人生にはいくつかの節目があるが、その節目にこそ自分が本当にやりたいことを選び取るべきだと思ってきたのだ。


 幸福な人生とは後悔のない人生のことで、後悔のない人生とはつまるところは『そういうこと』なのだ、と。


 しかしこの考えはある一面から見れば正しくても別の一面から見ればそうではないかもしれない。ただ自分自身を甘やかしてきただけ、そう解釈されてもおかしくないのかもしれない。


 だが『この人生は自分のためのもの』――そう思うことを止められないのだ。


 やはり、後悔しないようにすることこそがより良い人生にするための肝だと思うのだ。


 なぜなら珪己は九年前のことを決して忘れていなかった。母を含め多くの知人を一度に失ってしまったあの夏の一夜のことを。


 忘れられない大きな理由の一つは『後悔』にある。


 ただ、あらためて気づいたことがあった。


 それこそが先ほど晃飛に言ったことだ。


「私はただ楽しくて武芸を続けてきたわけではありません。だけど贖罪のためだけに続けてきたわけでもないんです。それはこの街で過ごしたから気づけたことなんです。……晃飛さん、あなたも私の考えを変えた人なんですよ?」


 それは晃飛だけのことではない。氾兄弟も韓も雨渓も、突きつめれば十番隊の面々や毛だってそうだ。


 人と人との関わりが、つながりが、こうして今の自分を形作っている。『世間知らずのお嬢様』でも『凰になるべき娘』でもなく、『災厄に怯えるだけの母』でもない自分で在らせてくれている。


 いい意味でも悪い意味でも、人は人に感化し、感化されるのだ。


 だからこそ人はいつだって変わることができるのだ。本人がそう望もうとも、望まなくとも。不格好な原石がよく磨かれることで艶と美しさを得ていくように、上流から下流にたどり着いた石の表面が滑らかになっていくように。


「もう理屈じゃないんです。誰かを護りたいと思える心があることがこんなにも私を勇気づけてくれるんです」


 自分で自分を卑下したくない。

 価値のない存在だと思いたくない。

 役立たずだと思いたくない。

 この世に存在するに足る人間だと信じたい。


 正直に言えばほとんどの人は自分には直接関係しない。けれどそんな人々の行動の一つ一つがこの世界を動かしているわけで――。


 だから他者を護ることはこの世界に貢献することと同じで、それができる人間でいることは生きる目的として最高の理由になると思うのだ。


 自己肯定によって自己満足し、それがめぐりめぐって至上の幸福へと繋がるはず……そう珪己は確信していた。


「お願いします。私をこのまま行かせてください」


 だがいくら珪己が真剣に語っても肩を掴む晃飛の手の力は緩むことはなかった。


「言いたいことはそれだけ?」


 冷めた口調でそう言うと「さ、帰るよ」と木刀を持つ手で珪己の背に手を添えた。驚きに見開かれていた目は今ではすっかりすわっている。


「晃飛さん……っ」


 抗う珪己のことを晃飛がより一層冷たい視線で見下ろした。


「それと同じ台詞を仁兄と赤ん坊に言えるの?」


 鼻息荒く「もちろんです」と言い切った珪己に晃飛の目が極限まで細められた。


「魂魄になった状態でも同じことを言える? 殺されちゃったけど私は満足しているから気にしないで、二人とは暮らせなくなったけど仕方ないのよって、本当にそんなふうに言える?」


 ぐっと珪己の言葉がつまった。


「……そんなこと言えるわけないじゃないですか」

「でしょ? だったら」

「でもこのままこの街を出たって同じです。『慮さんが危ないことを知っていたけど二人のことを考えて何もせず逃げ出してきた』なんて、そんなこと誇らしげに言えるわけがないじゃないですか……!」

「両極端だなあ」


 呆れたように言う晃飛は子供の癇癪をなだめる親のようだ。


「泣く泣く逃げ出したって言えばいいだけだよ、それ。自分が選んだものに対して常に胸を張れだなんて誰も言ってないのに、どうしてそういう思考回路になるかな。断腸の思いとか苦渋の決断とかいう言葉があるでしょ。そういう選択をしなくちゃいけないときもあるんだよ。そしてそれが今なんじゃないの?」

「……それ、晃飛さんは何回までなら我慢できるんですか。一回ですか。十回ですか」


 珪己の低い声音にも晃飛は挑発されなかった。


「またそうやって変な方向で議論しようとする。だからそういうことじゃないんだって。少し冷静になりなよ。あのね、目の前で起こるすべてのことに君が責任を持つ必要なんてないんだよ? というか、君は自分の命を軽く見過ぎているよ」

「そんなつもりはありません」

「へえ。でも俺にはそう見えるけど?」


 こうして二人が論じ合っている最中にも幾多の人衆がそばをすり抜けていく。時折そういった人々の肩や腕が二人に当たり、そのたびに二人の体がぐらりと揺れる。


「どんな人間だって命は一つしかないのに、君は自分を簡単に危険にさらしすぎる。君がどんな崇高な思想を有していようと、命が一つであることには変わりはないのにさ」

「ちゃんと分かっています……!」

「いいや。分かってないね」


 とうとう二人は口をつぐんだ。だが二人は見つめ合うことをやめようとはしなかった。珪己は言葉にしきれない激しい感情を秘めて、晃飛は表向きはそれを受け流してみせるかのような冷笑を浮かべて。


 ややあって珪己が重い口を開いた。


「……今逃げたら一生後悔します。行っても後悔することになるかもしれないけれど、それは確定ではありません。でも行かなければ絶対に後悔するんです。それでは九年前と同じことの繰り返しになってしまうんです。だから……!」


 振り絞るように発せられた願いも晃飛は容赦なく斬り捨てる。


「君が行けば、君を大切に想う人間が何人も生涯苦しむことになるよ。君も無事では済まないだろうしね。だけど君が行かなければ被害者は慮冨完だけだ。君は傷一つ負うことはない。うん、確かに後者はほぼ確定事項だよ。でも『君』と『大切ではない他人』にしか及ばないことだ。そして君はその小さな胸に刺す刺を抱えて生きていけば済む話でしょ。どちらを選ぶかなんてわかりきったことじゃないの?」


 とうとう珪己は口を閉ざした。


 確かに晃飛の言うことには筋が通っている――。


 狂気に染まった十番隊の面々と真正面からぶつかって無事で済む可能性は……限りなく低い。出産直前に十番隊の三人と闘って勝った経験はあるが、今、大勢とやり合い全勝できるかといえば――それは微妙だ。


 冨完だって実はおとなしく捕縛されていて、軽傷程度で済んでいるかもしれない。


 それ以前に、外野である珪己がわざわざ行く必要はないのかもしれない。本人が自力で逃げ出しているかもしれないし、十番隊以外の人間がすでに救出している可能性だってある。


 珪己のわずかな迷いを見透かすかのように、段違いに手厳しい一言を晃飛が放った。


「それに母性があったら絶対に行かない。行くわけがない。子供を第一に考えない親なんて親失格だと思わないの?」


 珪己は真っ先に罪の意識を感じた。ただしそれは赤子に対してではなく、晃飛に対してだった。


(ああ……こんなことまで晃飛さんに言わせてしまった)


 手のひらに爪が食い込むほどに拳を握りしめ、うつむき、珪己は瞼をきつく閉じた。


(母親との関係に苦しむ晃飛さんにここまで言わせてしまうなんて……)


 たとえどんな信念があろうとも、母に捨てられた過去を今も引きずる晃飛にここまで言わせた自分は人間失格だ。そう珪己は思った。


「ごめん……なさい……」

「分かってくれた?」


 だが次の瞬間、うつむいた珪己の顔がぱっと上がった。


「でも! 今行かなかったら、それこそ私は母にも誰にも顔向けできません……! だから……!」


 大きな動作で晃飛の腕を振り払うや、珪己が超人的な速さで駆け出した。


「あっ、おい……!」


 とっさに追いかけようとした晃飛の前方に逃げ惑う父子が突如現れた。父に強引に引っ張られ、おんおんと泣いていた幼児が勢いあまって晃飛にぶつかりかけたのだ。


「ああ、くそっ! 待て!」


 進路を塞がれ、晃飛は珪己の名をとっさに叫びかけた。だが先日の怪奇現象を思い出しぐっと堪える。


(こんな時に呼べる名がないなんて……!)


 自分達の関係がいびつなものであることを改めて実感しつつ、晃飛はすでに小さくなりつつある珪己の背を再度追いかけ始めた。



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