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8.6 無鉄砲

「……ここを出るの、心配? それとも仁兄のことが心配?」


 晃飛に問われ、珪己ははっとした。

 荷造りをする手が完全に止まっていたようだ。


「すみません。今すぐやります」

「いいって。まだ出立まで時間は十分あるし。な?」


 最後の言葉は赤子に向けたものだ。


「ていうかさっきから。この子、なんだかおとなしいんだよね」


 晃飛の腕の中で赤子はじっと珪己を見つめている。


「おーおー。どうした。母ちゃんの腕に抱かれたいのか?」


 からかうような晃飛の問いかけにも赤子は反応しない。眉をひそめ、唇をぎゅっと結び、何か言いたげに珪己をじっと見つめている。しょっちゅう甘噛みしているべっ甲の簪を小さな手できつく握りしめて。


「雰囲気が変わったことに気づいているのかもね。この子、ちょっと聡い感じがするし」


 これに珪己が苦笑した。


「やっぱり晃飛さんって面白いですよね」


 赤子が現皇帝の子だと知っているのにこういうことを平気で言えてしまうあたり、やはり晃飛は他の人とはちょっと違っている。度胸があるというか、図太いというか。空気を読めるくせに敢えて読まないところも。


 表情をやわらげた珪己に晃飛も笑みを浮かべた。


「大丈夫だからね」

「え?」

「住む場所や家が違っても、一緒にいる人間が同じなら犬は落ち着くものだから」


 一瞬、何のことを言っているのか珪己は掴めなかった。


 ややあって気づいた。


「まだ私のことを犬扱いするんですか……」

「実際、君って犬みたいじゃん」

「空也さんは全然似てないって言ってましたけど?」

「あー。そういうこと言いそうだよね、あいつは」


 珪己の表層をとらえれば、まず間違いなく猫を連想するだろう。男とは好みの女には愛嬌と癒しを求めたがる生き物だからだ。だが深層を見つめれば、今も変わらず晃飛にとっての珪己とは犬なのだった。


「あいつの言うことなんて聞く必要ないから」

「……ええっと」


 戸惑う珪己に晃飛が「君は犬だよ」と言い切った。


「だからどこに行っても大丈夫。仁兄ともすぐに合流できるし、そしたら君は無敵だ。犬ってそういうものでしょ」

「晃飛さん……」

「寂しくなんてならないし不安になることも二度とない。そして仁兄も無敵だ。君が知っているとおりにね。すごく強いし、今では君という百人力の存在もいる。違う?」


 晃飛の狐のような目が珪己に向かって柔らかく細められている。その目と見つめ合っていたら、張りつめていた珪己の心がいい具合にほぐれてきた。


「私、どこに行っても大丈夫な気がしてきました」

「そうそう。それでいいの」


 ぽん、と晃飛が珪己の頭に手をのせた――その時だ。


「おおーい!」


 突然の大声は空也のものだ。


 玄関の方から「どこにいる?」と声を発しながら荒々しく近寄ってくる様子には何かがあったとしか思えない。


「なんだあいつ」


 ちっと舌打ちをしながら晃飛が重い腰をあげた。


「ちょっと行ってくるね」


 晃飛がそのまま腕の中の赤子を連れていったから、必然的に珪己は一人となった。


 あらためて自室を見渡す。この一年と半年ちょっと、珪己が自室として使わせてもらってきた部屋には自分のものと赤子のもの、それに仁威のものがぎゅっと詰め込まれていて、今は床の上にそれらすべてを乱雑に並べたところだった。


「さ、やるぞ」


 気持ちを立て直し、珪己は腕まくりをした。こうしてみると思った以上に物が多いから、それでさっきは悩んでしまったのだ。


 だがここから持ち出すべき荷物を再度より分け始めたら――今度は瞬時に終わった。仁威と自分の分は換えの服が一組あれば十分だし、赤子のものについても最低限のものだけを持って行けばいい。それ以外のものは道中や移住先で手に入れることができると気づいたのだ。


 ただ、母の形見の琵琶、開陽から持ち出した金子の残り、この二つは持っていきたい。晃飛に買ってもらった子供用の木刀は――手放すのは惜しいがここに置いていこう。持ち歩いていたら不審に思われる。


 気持ちが決まると選ぶべきものが瞬時に見えるのだと、その違いに珪己は内心驚いた。残していく物への愛着はまだあるが、そういうことにとらわれない心持ちになれたのは晃飛のおかげだった。


「……なんだってっ?」


 その晃飛の大声が向こうの方から聞こえ、やや夢見心地になっていた珪己は現実に引き戻された。剣呑な気配を感じて二人の姿を探しに行くと、当の二人は居間でそろって険しい表情をしていた。


「あの……どうかしました?」

「ああ。珪亥」


 応じた空也は今だ表情を硬くしたままだ。そして珪己が予想したとおりの物騒な話を始めた。


「実は今、街が大変なことになってるんだ。十番隊が反乱をおこして屯所に立てこもっているらしい」

「……まさかそんな!」


 まずはじめに珪己が思ったこと、それは『あの慮冨完がそんな大それたことをするはずがない』ということだった。


 そう、近衛軍第一隊の武官がそんなことをするわけがないのだ。九年前は『そういうこと』も起こったが、仁威によって指導、管理されてきた武官はそんなことをするなんて、あり得ないことなのである。


 珪己の顔色から晃飛がその思考を正確に読みとった。


「そうじゃない。君が思っていることとは違う」

「え?」

「この一件は十番隊の内部でのもめごとが発端らしくて、隊長は十番隊に捕らわれているみたいなんだ」


 あいつら分かってたんだろうな、と晃飛が続ける。


「今この街には一番隊と二番隊がいないから」


 それを聞いた瞬間、珪己は大声を出していた。


「二番隊もですか……!」


 そう、徐夕じょせき(大晦日)まであと七日という今、一番隊は例年通り州知しゅうちとともに開陽に向けて出発してしまっていたのである。しかも運の悪いことに二番隊までいないときたら――。


「山岳での訓練中に雪崩が起こって道が塞がってしまっているらしいんだよね」

「道が使えるようになるまで温泉にでもつかってのんびりしようなんて二番隊の奴らは言ってたらしいぞ」


 それを空也は肉麺屋の親父から聞いていた。


「……もしかしてこれ、最悪の状況?」


 ふとつぶやいた晃飛に「どうして?」と素直な声音で空也が訊ねた。


「確かにこれからこの街は騒がしくなるとは思うよ。でも俺達が出立することには無関係じゃないか」


 空也にしてはやや非情な物言いだが、言っていることに間違いはない。この家の人間は全員、この街を出るとすでに決めている。


 だがこれに晃飛が無言で親指をくいっと動かしてみせた。


 その指し示す人物、珪己はといえば――。


「私、行ってきます! 晃飛さん、赤ん坊のことお願いしますね!」


 思いつめた表情から一転、着の身着のままで家を飛び出したのだった。


 珪己の姿が消えた瞬間、赤子は目をぱちくりとし、それから火がついたように泣きだした。



 *



「ああもう! 予想通りだけどまさかここまで速いなんて、これからはあの子のこと、犬じゃなくて猪って呼ぶからね!」


 男二人が制止する間もなく飛び出していった珪己に悪態をつくと、晃飛が空也にずいっと何かを差し出した。


「ちょっと預かってて」


 強引に押し付けられたのは真っ赤になって泣いている赤子だ。


「え? 俺が?」

「え? 俺が?」

「ほかに誰がいるの? それとお前の兄貴を叩き起こして、俺たちが戻ったら即刻旅立てるように全部準備しておいて」


 晃飛には明確な優先順位があった。一に自分、二に仁威、そして三に珪己という。この三つの前には皇帝の実子も氾兄弟もどうでもいいのだ。


「でも梁さん。あんた、目と足が」


 言いかけた空也を晃飛がきっと睨みつける。


「うるさい」


 その一言で空也を黙らせると、晃飛もまた家を飛び出した。


 その晃飛だが、ほんのわずかだが右足の動きが悪い。以前十番隊にやられた足は歩く分には支障のない程度に回復しているのだが、見送る空也に一抹の不安を抱かせるには十分な動きの悪さだった。


 確かに晃飛は強い。そのことを空也は知っていた。ほぼ一年同じ屋根の下で暮らし、武芸の稽古をつけてもらえば、晃飛の強さを疑う必要はまったくなかった。


(……だけど本当に大丈夫なのか?)


 ふと視線の先、細い煙が立ち上がっていることに空也が気がついた。


 そちらにあるのは――屯所だ。


 よく耳をこらせば遠くで騒がしい気配も感じる。それに心なしか垣根の向こう、往来の人の動きが速くなりつつある。ぎゅっと、赤子を抱く空也の腕に力がこもった。


「あー!」


 赤子が抗議するようにひときわ甲高い声をあげた。


「ああ、ごめんよ。……珪亥、梁さん、無事でいろよ」


 さすがに赤子を連れて追いかけるなんてできないから空也は祈った。何事もなくあの二人が戻ってきますようにと。そしてすぐに踵を返した。この非常事態、次にするべきことは頼れる兄を叩き起こすことだけだ。



 *


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