8.5 誰がゆるさなくとも俺がゆるす
今日を限りで暇がほしいと告げた空也に、肉麺屋の主人はひどく残念がった。
「そうかあ。せっかくいい感じに麺を打てるようになってきたのになあ」
「本当にすみません!」
土下座する勢いで深々と頭を下げる空也に「そんなに謝らなくていいよ」と主人が困ったように笑った。
「なにかのっぴきならない理由があるんだろう? お前がどれだけ真剣に仕事に打ち込んできたか、長い間見てきたから分かるよ。うん、だったらしょうがないじゃないか。長い人生、そういうことはあるもんさ」
それでも空也は何度も頭を下げた。
約一年、素人の自分を半人前くらいには育ててくれた主人に対して、いくら礼を言っても言い足りない。本当ならばあと一年はここで修行したかった。その後は気に入った土地を捜して自分の店を持てたら……と淡い夢も抱いていたのだ。
だが仕方ない。主人の言う通り人生にはいろいろあって、何かを得れば何かを捨てなくてはいけないときがあるのだから。しかもその決断の時は不意打ちでやって来るものなのだ。
だが後悔はしないだろう。大事なのは自分で決めることだからだ。自分でこうと決めた結果ならば、たとえこの先に地獄が待ち受けていたとしても後悔なんてしない。ただ、自分はそれだけの人間だったのだと思うだけだ。いや、それだけの人間なんだから、何を選ぶか選ばないかくらいは自分に決めさせてもらいたい。その権利を放棄した瞬間、自分の人生とは言えなくなるのだから。
すがすがしい面持ちとなった空也に肉麺屋の主人は幸いあれと心から願った。この若者の未来に幸いあれ、と。
だがこの主人の祈りは届かなかった。
いや、即刻打ち捨てられたと言った方が正解か。
まだ昼食には幾分早いその時間、店内には一人の常連客がいたのだが、おもむろに開いた扉から入って来た男がその客の元に真っすぐに駆け寄るとこう言ったのだ。
「習侍御史、大変です! 屯所で十番隊が内乱をおこしました! 隊長の慮冨完は捕えられ生死は定かではないと……!」
*
時を遡る。
十番隊隊長である慮冨完はここ最近屯所内の書庫に朝から晩まで籠っていた。
探し物は自身の上司であった袁仁威の消息に関する情報だ。
仁威の消息を知ることは己が使命であるとまで冨完は思いつめていた。だがそれは冨完だけのことではない。彼と志を同じくする仲間も同様の思いを抱いており、彼のもとには仲間からの書簡が日を置かずに届けられていた。
冨完はこの街に赴任するにあたり、何でもいいから元上司に関する情報を得たいと切望してやって来た。だから冨完にとって今回の人事は不当でも負担でもなかった。新たな土地でそれなりの権力を得て派遣されることは都合がよいとすら思っていたのだ。
ではなぜ日中に書庫に籠っているのかといえば――。
部下の指導を放棄したからだ。
いや、放棄したというと冨完にばかり責任があるように捉えかねられない。確かに冨完は十番隊の隊長となったが、すべての責任を冨完に負わせるのは忍びないだろう。
つまるところ、彼の部下は誰一人として彼が思ったように動かず、いくら心を込めて指導しても変化の吉兆すら見いだせなかったのだ。
武官といえば、打てば響くような高尚な人間しか知らなかった冨完にとって、零央で得た部下はいずれも非人間としか思えなくなっていたのである。
冨完も赴任当初はやる気をみなぎらせていた。暑苦しいほどの理想を抱いていた。「俺の力で過ちを犯してしまった奴らを更生してみせよう」と意気込んでもいた。きっと元上司ならそうするし、それをやり遂げてみせるから。
だがやる気は空回り、理想は理想でしかなかった。部下が自らの更生を望んでいないことを悟った時点で冨完はとうとうあきらめた。……あきらめざるを得なかったのである。
だからさっさと気持ちを切り替えた。自分には他にやるべきことがあるし、俺はこの十番隊との面々とは相性が悪かったのだ、と。
「……これは?」
それは国家機密級の極秘文書すべてに目を通し、次に一段格下の秘文書に手を付けだして三日目のことだった。
その冊子には毛が十番隊隊長を勤めていた頃の出来事が箇条書きでしたためられていた。
実は――冨完は前隊長のことを具体的に知り得ていなかった。犯罪者あがりの十番隊を仕切っていた、同じく元犯罪者の毛は、街で相当に嫌われていたらしい――そのくらいのことは街に出て酒を飲んでいれば自然と耳に入ってきたが、毛がなぜ隊長を辞したのかまでは知らなかった。さりげなく尋ねても誰からも具体的な回答は得られなかったのだ。
だがその冊子を手にとった瞬間、奇妙な胸騒ぎを冨完は感じた。
自分以外には誰もいない書庫は普段からあまり人の出入りがない。今もわずかに開いた窓から冷気を含んだ隙間風と柔らかな陽光が入ってくるものの、軍内とは思えないほどにしんと静まりかえっている。時折舞い上がる埃と、自分が吐く息と、どちらも甲乙つけがたいほど白い。
冨完は埃っぽい床に直に座ると、震える指で冊子を開いた。
上から下へ、そしてまた上へ。下へ。そして頁をめくり、また上から下へ。せわしなく動く冨完の視線がとある一か所で止まった。
『貴青十年、夏。隊内にて不祥事発生』
『怪我人一名。毛麦中』
毛麦中――それは前隊長の名だ。しかし、隊長である毛が怪我をしたというのに、どのような不祥事が起こったのかについては一切書かれていなかった。おそらく毛の矜持が詳細を記すことをゆるさなかったのだろう。
だがその隣の記述に冨完は目を疑った。
『退職者一名。呉隼平』
少しの間をおいて冨完は首を振った。
「……いや。ただの偶然に決まってるよな」
呉という姓も隼平という名も取り立てて珍しくはない。たまたま既知の枢密院事の名前と一致しているだけだ、と。その枢密院事は武官の人事に関わる一人で、庶民派なところに親しみを覚える武官は冨完の他にも数多くいた。
だが。
(……本当にそうか?)
頭の中で小さな警報が鳴った。
(あの李副使の部下の名前と完全に一致するなんて、そんなことがあるか?)
しかもこの男が辞したのは毛が怪我を負った日なのだ。
(……そんな偶然、本当にあるか?)
全身を強い光が貫いた――そんな錯覚を覚えた。
(もしかしたらこれは袁隊長へつながる道なのかもしれない……!)
そう思い至った瞬間、後頭部を硬い物で殴られた。
「ぐ……っ!」
前方に崩れ落ちながらも、冨完はとっさに背後に顔を向けた。
「お前、は……」
そこにいたのは十番隊所属の武官だった。つまりは冨完の部下だ。興奮と歓喜に息を荒げる男の手には振り下ろしたばかりの木刀が握られていた。切っ先を濡らす鮮やかな赤は――血だ。
「なぜ、だ……」
だがそれ以上は言葉にならなかった。
*
そして現在、肉麺屋にて。
「黙れ。ここは公の場だぞ」
第三者のいる場で自分の身元を暴露した部下を凱健が小声で叱咤する。その前には空也が言葉なく立っていた。
青ざめた顔で無言で見つめてくる空也を、凱健はしばし見つめ返した。
「とうとうばれてしまったな」
そう言うや麺をすすった凱健は何ら罪の意識を持ち合わせていないようだった。
「……ずっと俺のことを監視してたのか?」
ほぼ毎日やって来ては肉麺を頼むこの男に対して、空也は一種の愛着のようなものを抱いていた。だが正面から見合った今、なぜか男の口元のほくろに目がいった。まるで今初めて目にしたかのように。それは晃飛が会ったという自分達の素性を知る男の特徴の一つだった。
しかも――見れば見るほどこの客は晃飛が言ったとおりの男だった。背が高く、体格がよく、強面で威圧的。齢は四十近く、しかしそれより年上にも年下にも見える不思議な男。完璧に一致しているではないか。
だが空也の荒ぶる内面など凱健はなんら意に介さない。
「そうだが何か?」
残りの麺をつるっとすするや、懐から悠然と金を取り出した。
「では」
支払いを机に置いて立ち上がった凱健の肩を、空也はとっさに掴んでいた。
「待て! まだ話は終わっちゃいない!」
「私は君に話すことは何もないが?」
あくまで淡々と返され――これが空也の怒りに火をつけた。
だがその怒りはぶつける前に消された。
凱健の冷たい視線によって。
「その手をどけるんだ」
暗闇から鋭利な針を突き立ててきたかのような――息を飲むほどに恐ろしい視線。
幾人もの人間を傷つけ、殺めてきた者しか持ちえないほの暗い殺気を前に、空也は本能でもって凱健から後退した。
熱したばかりの頭が急速に冷えていく。
「さっきの話……。十番隊が内乱をおこしたって……」
「話を聞いたばかりの私が知るわけがないだろう」
「あ、ああ。そりゃそうだよな」
しばらく無言で見つめ合った後、凱健がふっと視線をやわらげた。
「必要だと判断したならここを出ろ」
「……え?」
「ためらうな。誰がゆるさなくとも俺がゆるす」
それだけ言うと凱健は部下を引き連れて店を出て行った。
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