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8.4 お前は来なくてもいい

 朝餉を終えた時分、何の連絡もなく突然零央に戻ってきた空斗に皆が驚いた。


 玄関に入るなりその場に崩れ落ちた空斗のことを発見したのは、ちょうど道場での掃除を終えたばかりの晃飛だった。


「どうしたのっ?」


 汚れている手を手巾で拭うや、晃飛は空斗に近づいた。


「……うん。大丈夫そうだね」


 ざっと全身を眺め、怪我の類がないことを確かめて一つ安堵する。続けて外の気配を探り、敵の類はいないことにまた一つ安堵した。ただ、隣家の囲いの角にいた男と目が合ったが。きっとこの家を監視しているという御史台の人間だろう。顔ぶれは日や時間によって違うが何度も見かけたことのある顔だ。しかし今は御史台を気にしている場合ではなかった。


「何かあったの?」


 問いかけに答えられない様子からも、空斗がひどく消耗していることがわかった。


「……何かあったんだね」


 確信すると、晃飛は空斗に肩を貸して居間へと連れていった。外は少しの時間だとしても留まるには寒すぎる。


「兄貴っ?」

「……おお」


 晃飛に支えられる空斗は弟の存在を間近に感じたことでようやく笑みを浮かべてみせた。ただし、痛々しい笑みだったが。


「どうしたんだよ! 大丈夫かっ?」

「ああ」


 虚勢ゆえの笑みを浮かべていた空斗だったが、椅子に座らされると、目の前に置かれていた空也の湯飲みの中身を断りもなく一気に飲み干した。


「……ふう」


 白湯が体内に落ちていく感覚は思った以上に心地よく、自分がどれほど乾いていたのか、空斗はあらためて気づかされた。ここまで丸一日、ほぼ休みなく不慣れな馬で駆けてきたが――馬がつぶれるのが先か自分が壊れるのが先か、いい勝負だったのかもしれない。


 珪己が気を利かせて湯飲みに白湯をつぎ足した。


「ああ……すまない」


 心を落ちつかせるための時間を作るために再度湯飲みに手を伸ばす。白湯といえども寒気の中を疾風のごとく駆けてきた空斗にとっては十分すぎるほど温かい。


「どう? 落ち着いた?」

「ああ。なんとか」

「で、どうしたの?」


 せっついてくる晃飛の双眸はいつにもまして鋭利だ。


「……あくまで念のため、なんだが」

「そういうのはいいからさっさと要点を言ってよ」


 ふう、と一息ついた空斗はすべての話をすっ飛ばして、晃飛の求める要点だけを述べた。


「今すぐ荷物をまとめてほしい」


 ここに集う三人――晃飛、空也、そして珪己――の視線を痛いくらいに浴びながら空斗が続けた。


「培南に滞在していた芯国人が零央行きの船に乗った。それが昨日の朝のことだ」


 仁威のはたらきによっては、彼らは乗船しなかったかもしれない。だが今は事細かに説明している場合ではない。


 空斗の言葉に晃飛が瞬時に頭を巡らせた。


「あそこからここまで、この時期なら早くて二日、遅くても三日ってところか。なら今日の夕方までには発っておいた方がいいね」


 これにもっとも驚いたのは空也だ。


「今日っ?」


 素っ頓狂な声が空也の心からの驚きを如実に表している。


「そんなにすぐ?」


 空也の脳裏によぎったのは肉麺屋の店主のことだ。今日もそろそろ仕事に行こうとしていたくらいだし、明日もあさっても当たり前のようにあの店で修行をするつもりでいたのだ。


「お前は来なくてもいい」


 戸惑う空也に空斗が言った。


「え」


 唖然とした空也を無視し、今度は珪己と晃飛に向き直る。


「二人は今すぐ準備にとりかかってくれ。行先はひとまず俺の地元ということであの人とも合意しているから」

「分かった」


 暗黙の了解のように晃飛がうなずき、「さ。行こう」と赤子を抱いた珪己を連れて居間を出て行った。


「……」


 残された兄弟二人の間に気づまりな空気が流れる。どちらも再会に心躍らせているのは事実なのに、それ一つでは説明しがたい感情にもやもやとしている。


「……どうして俺は行ったら駄目なんだよ」


 口火を切ったのは空也だった。


 恨みがましい表情で空斗のことを睨みつけている。


「どうしてだって?」


 急激に襲ってきた睡魔に頭をくらくらさせながらも空斗はなんとか言葉を返した。


「お前がついていく必要はないからだよ。お前は今、この街で新たな人生を始めようとしているじゃないか」

「だったらどうして兄貴は行くんだ。兄貴だって同じだろう?」

「俺は武官だ」


 空斗は額に手を当て、瞼を閉じた。強すぎる眠気で頭痛まで感じ始めている。


「それはそうだけど、兄貴は今はこの街の五番隊所属じゃないか」

「呉枢密院事からの依頼……枢密使の娘御を守護することは今も無効じゃないと俺は思っている」


 なんでそんな昔の話を、と空也が思った直後に空斗が言葉を重ねてきた。


「いや、たとえどの職位にあろうとも、武官ならば枢密使の家族を守護することは当たり前のことじゃないか。違うか?」

「違ってはいないよ。だけどさ」


 言い募ろうとする空也の口はまたも空斗によって塞がれた。


「お前はもうこんなことに関わる必要はないんだ。いや、関わらないでくれ。頼むから」


 そう言った刹那、空斗の顔が痛みによって歪んだ。痛いのは――心だ。言いたくないことを言ってしまったから。弟を傷つけ、自分を傷つけてしまったから。この一言を発端として二人の義兄弟という関係が消滅してもおかしくないから。……今日を限りに今生の別れとなる可能性もあるから。それだけのことを言った自覚が空斗にはあった。


 しかし空斗以上に表情を変えたのは空也の方だった。


「俺がどうするか決めるのは俺自身だ。そう言っただろう……?」


 声を張り上げたわけでも怒りを示したわけでもないのに、この空也の台詞には胸をしめつける何かが含まれていた。


「空也?」


 睡魔に負けて閉じかけていた瞼を無理やりこじ開け、空斗は最愛の弟をそっと見上げた。


 空也はひどく悔し気だった。悲しそうで、泣きそうだった。そして自分がまたも間違えたことに空斗は気づかされた。


「……すまない。俺が決めることじゃなかった」


 自分にとっての最優先事項は弟、空也だ。それは今も変わらない。だがそれは我欲でしかないのだ。自分と空也、二人の間で成立する事柄すべてにおいて、自分一人の願望を貫こうとしてはいけないのだ。己が命を自分が第一に思っていないように、空也にも空也の主義主張があって、それを損なう権利など誰にもないのだ。……たとえ義兄弟の契りを結んだ自分であろうとも。


 率直な謝罪を受け、空也の表情が幾分和らいだ。


「あのさ」

「うん?」

「俺も兄貴の生まれ育った村を見てみたい。そこはもう雪が降っているのか?」


 空斗が戸惑いながらもうなずいた。


「だったら俺も行く」


 にかっと笑った空也の表情はどこまでも天真爛漫だった。



 *


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