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8.3 行ってくれるか

 この時代の遠出といえば、よほど厳しい天候や路程でない限り、船と馬ならば船の方が速い。


 ではなぜ仁威と空斗が培南まで馬でやって来たのか。そこには幾多の理由がある。馬の方が隠密行動に適しているというのが最大の理由だが、現地での機動性も考慮してのことだった。


 さて、あれから二人は妓楼の一室へと戻り、色濃い匂いが漂う中で膝を突き合わせていた。


「……どうする?」


 ここは妓楼だから、賑わう男女の嬌声が絶え間なく聞こえる。耳障りなほどに。……これほどまでに浮かれている人々と同じ屋根の下にいること自体に強い違和感をおぼえるほどに。実際、二人の顔には笑みの類は一切見られなかった。


「明日……いや、もう今日か。あいつらが船に乗る前に捕まえるのが手っ取り早いし確実じゃないか?」


 先程から空斗は同じ問いを繰り返している。いや、問いに見せかけた確認か。他に解はない。だが仁威はこれに反応しなかった。それどころかずっと黙りこんでいる。


 何度か同じことが続き、とうとう空斗がしびれを切らした。


「あなたは何をそんなに気にしているんだ? 人数差か?」


 実は――仁威と空斗がここ培南で見かけた芯国人は先程の二人だけだった。二人のうちどちらか一方、または両方で出かけていく姿しか確認していなかったのである。だが実際にはもう一人いるらしいことを二人は先ほど知った。早朝の船に乗る人間は三人だと、舟屋の男は確かに言ったのだ。いや、その三人目が芯国人とは限らないのだが。


 だがこうも言える。相手は『少なくとも三名』なのではないかと。


 船に乗る者以外に、たとえば身辺を警護する者を従えている可能性は無きにしも非ずだ。……その正体不明の人物があの王子であるならば。そうなると多勢に無勢という言葉が現実味を帯びてくる。人数差というものはそう簡単に覆せるものではない。少しの油断が命取りになる。……命を懸ける場面では可能な限り勝機をあげておくべきなのだが。


 仁威は今も腕を組んで黙したままだ。時折口元に手をやったり視線をいずこかへ動かす様から、仁威が様々なことを考えている最中であることは明白だった。それは空斗にも分かっている。だが今後の方針が定まらなくては安心できないし眠ることもできない。いや、仁威がそこまで気にしている以上、空斗とて己の不安から目を背けることができるわけもなく。


「……最悪だ」


 両手で頭を抱えた空斗がうめいた。


 最初ちっぽけだった不安はむくむくと育ち、気づけば空斗の思考を完全に奪ってしまっている。もう『最悪』の二文字で表せる未来しか想像できなくなってしまっている。


 我慢しきれずこぼれた言葉は、実際には取り越し苦労かもしれない。三人目の人物は芯国人ではないかもしれないし、もしも芯国人だとしても、あの王子やその関係者とは限らない。


 では彼らの目的地が零央だという奇妙な偶然に驚いているのか。いや、たとえそうだとしても彼らが零央にいる珪己や空也に害をなすことはないだろう。あの街は培南よりも大きいし、二人の行動範囲は非常に限られているのだから。


 だが空斗は己の内に芽生えた不安を飲み込む方法をいまだ見いだせずにいた。確率論で論破することも、楽観的思考で無視することもできないのは、圧倒的絶望に打ちのめされたことがあるからだ。一度でも苦い水を味わえば、二度と味わいたくないと思うのは人としての道理で――。


 顔を覆う両手の指の隙間から、空斗はそっと仁威を見やった。この妄想を一刀両断してくれないかと願いながら。自分で自分を御すことのできる段階はとうに過ぎてしまった。自分よりも優れたこの男に、どうか……。


 するとこの部屋に戻ってからずっと口を閉ざしていた仁威がつぶやいた。


「二手に分かれるか」


 それは想定外の提案だった。


「……二手?」

「ああ。俺はここに残る。空斗、お前は今すぐ零央に戻れ」

「いや。それは逆だろう」


 思いもよらない提案だが空斗はとっさに反論していた。


「この街で芯国人の探索を請け負っているのは俺だから、俺がここに残るべきだ」


 仁威のことは禁軍に雇われている助手程度のものとしてこの街の人間に認識されている。だが実際はと言えば、仁威はこの仕事においてなんの権利も責任も有していないのだ。


 たとえば。


「あなたでは芯国人を捕えることも尋問することもできないじゃないか」


 だから残るべきは空斗なのだ。


 これで会話は終わる――はずだった。だが仁威はこれに「できる」と言った。


「逆に問うがお前一人でそれを『できる』のか?」


 最初、問われた意味を空斗は掴めなかった。だがやがてその意味を完全に理解し――空斗の顔が一瞬紅潮し、続けてさらに耳まで赤く染まった。初めは怒りで、その次にいら立ちを覚えた自分を恥じて。自分には『それ』をする責務がある。だが『それ』を達成する武力はない。


 仁威には空斗を傷つける意図はなかった。どちらかといえばそういった面への配慮には事欠かない男だ。でなければ多くの屈強な部下を従えることなどできなかった。しかし今は言葉を選ぶ時間的、精神的余裕がなくなっている。


「俺とお前の目的は芯国人を捕えることではない。そうだな?」


 二人にとってそれはあくまで手段だ。もしくは副目的でしかない。なぜ二人がこの街にやって来たのか――それは大切に想う人間を護りたいからだ。大切な者に永遠の平穏を与えたくて、それゆえこの街にやって来たのである。


「ならば早急に零央に知らせに行くべきではないか? 零央に向かう船に芯国人が乗ることを知らせ、警戒を促すべきだ」


 確かに、それこそが最優先事項だ。自分達二人にとっては。


「だがあの王子に繋がる可能性のある糸をみすみす見逃すわけにもいかない」


 それもまた二人にとって重要なことだ。


「だから俺はここに残る」


 もしも乗船者に王子の姿があったなら――それは王子が珪己のことを諦めていない証となる。


 ならば。


 捕縛できるのならば、捕縛する。


 それが無理なら――。


(殺す)


 あのような危険な男をこの地に野放しにしておいてはならない。


 捕縛も殺害もかないそうになくとも、王子の居場所を認知することは非常に重要だ。むやみに怯えて暮らすことなど永久にできないと仁威は思っている。人間はそれほど強くはない。


 ただ、いずれにせよ――。


「すぐにでもあいつらを零央から脱出させてくれ」


 もしも、だが、万が一――そんな仮定に生死や運命を委ねるのは愚者のすることだ。もっとも安全だと思われる策を常に選びとること、闘いの場を避け続けること、それこそが安寧を護るための最善策だと仁威は考えている。


 語る仁威は鬼気迫る表情をしており、つられて空斗の緊張が否応なく増していった。そして新たな知見を前に目の醒める心地となっていった。


 恐れること、すなわち悪ではないのだ。

 恐れること、すなわち日和ることではないのだ。


 なぜ恐れるのか――その理由を知る必要があって、その先に具体的な策を見出すこと。そこまでして初めて恐怖を自分自身の糧とすることができるのだ。


 この荒ぶる感情もまた、自分が自分であるゆえのものなのだから――。


「行ってくれるか?」


 仁威の一言に空斗がうなずいた。


「ここはあなたに任せる。だから零央のことは俺に任せてくれ」




 天は空斗と仁威に味方していないのか、その夜はこの冬随一の吹雪となった。



 *


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