8.1 結婚できない男
さて、零央から離れた培南では、俄然やる気の出た空斗のもとに吉報が届いていた。芯国人と思われる男が逗留する宿が見つかったのだ。
この調査に献身的に尽くしてくれた小都の人間をねぎらい、仁威と空斗はさっそくその宿の正面に位置する妓楼に出向いた。もちろん女遊びをするためではない。任務のためだ。廂軍の武官という身元をあかし、金を払えば、向かいの宿に出入りする人間をばっちり観察できる最高の部屋を確保することは容易だった。
「くさっ……」
室内に入るや、空斗の顔がおもむろに歪んだ。今朝まで通常通り客をとるのに使われていただけあって、こういう場特有の香り、たとえばおしろいや香、人間の体臭が天井からふすまに至るまでしみついている。
逆に表情を和らげたのは仁威だ。
「……最近は不思議と妓楼に縁があるな」
こういう場はどちらかというと嫌悪していた仁威であるが、零央に来てからはなんとも思わなくなっている。芙蓉に桔梗、その他にも環屋で同じ時を過ごしてきた幾人もの存在が、妓楼に対する印象を変えたのだ。
仁威の呟きに荷を解き始めた空斗がふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば噂を聞いたことがある。近衛軍第一隊の隊長は女の扱いがうまいと」
空斗が何に合点したのかは察しがついたので仁威は即座に否定した。
「それは誤解だ」
「誤解?」
「ああ。実は俺は女が苦手なんだ」
以前部下にそうしたように、言葉を選びつつ説明していく。
「女に不足しないからこういう店に縁がなかったわけではなく、純粋に女が苦手なんだ」
空斗の表情が微妙なものになったのは、仁威の妻への愛情のほどを熟知しているせいだ。女に苦手だなんてどの口が言うのか、と。
「ああいや。もともと色恋には興味がなかったんだ。いや、他人に必要以上に近づきたくないと言った方が正しいな」
「あなたが?」
思わずといった感じで空斗が仁威の頭の上から足の先まで眺めた。こんな立派な男が、女に、恋に興味がないだなんてあり得ないと。
とはいえ人間の内面、嗜好を、外見やこれまでの言動のみで判断しようとするのは浅慮だ。だから空斗は自分の先入観をひとまず脇に置くことにした。本人がそう言うのだから、それが事実なのだろう。それでいい。言葉の裏に別の意味を探るような真似はしたくないし、する必要もない。
「ではいい出会いだったんだな」
「ん?」
「珪亥とのことさ」
いくら近衛軍第一隊の隊長であろうとも、枢密使の娘を妻にするなど普通は無理だ。どれほど乞おうとも決してかなわない願いである。文官の頂点たる枢密使の娘が嫁ぐ相手としてふさわしいのは、やはり文官、または貴族といったところだ。それどころか皇族にだって輿入れできる。
「よかったな。いい妻を娶れて」
「……ああ。そうだな」
窓の欄干に座り、板の隙間から問題の宿屋を眺めていた仁威だったが、空斗の言葉に笑みを浮かべた。手中の幸福を味わうように、離れた地で暮らす妻を思い出すように。それはまさに完璧な姿だった。嫌な香りの漂う薄暗い部屋の中にいるというのに、至上の幸福をその身にまとう姿はとてもまぶしくて……空斗は思わす目を細めた。
男二人、こんな場所に昼間から籠っているせいか、目前に芯国の王子に繋がる人物が潜んでいる可能性があるからか。それとも仁威の前職を知ったばかりだからか。空斗は少年に戻ったかのような心持ちで本音を語っていた。「あなたのことが率直に言ってうらやましい」と。
これに仁威は照れることなく、逆に意外な言葉を聞いたかのように軽く目を見開いた。
「俺はお前達兄弟のような関係もうらやましいと思うがな」
「そう、か?」
空斗も仁威のような表情になった。
「いや。これでも損得勘定はあるんだ」
苦笑いを浮かべる空斗は謙遜で言っているわけではない。
「あいつのそばにいる時間が一番幸せなんだ。手段がどうであれ、つまるところはそれ一つで俺はあいつを弟にしているのさ。他にこの特等席に座るための名目がないというだけで」
「そう卑下するな。恋人や夫婦といった関係を保つのも、自分にとって居心地いい人間を繋ぎとめておくためのものであることには変わりないじゃないか」
「でも俺と空也の関係はあなた方夫婦に比べたら」
そこでふいに空斗が言葉を切った。
「……俺も打ち明けてもいいか」
仁威がうなずく。
「俺は結婚できないんだ」
「できない?」
しない、ではなく。
「ああ。昔高熱にかかったことがあって、子種ができない体になってしまったらしい」
「それでも結婚する男はいくらでもいるぞ」
仁威の言葉は気休めでも慰めでもない。そうでなくても今の時代、子供を作らないことを選択する夫婦は昔ほどには責められなくなっている。確かに、田舎であればあるほどそういう夫婦は肩身が狭い思いをする。しかし空斗は禁軍所属の現役の武官だ。芯国の王子に関する一件が解決すれば大手を振って開陽に戻ることができる。つまり、将来は安泰というわけだ。ならばそこまで悲観的になることはない。
だが仁威の予想に反して空斗は首を振った。
「俺は女を抱くこともできないんだ」
それは弟の空也も知らない秘密だった。
昔、空斗は年の近い近所の女を一度抱いたことがある。そこまでは空也にも話している。だがそれは実際には未遂だった。腕の中にくるむことを抱くといえば、確かに空斗はこの日知人の女を抱いたことになる。だが肌と肌を触れ合わせた二人の間に生じたものは快感でも達成感でも高揚でもなく、ひたすら気まずい空気だけだった。
空斗はその女に淡い好意を抱いていた。過去の高熱のせいで子を成せないかもしれないと親から告げられてはいたものの、そういう女相手であれば必ず事は成せる――そんなふうに奇跡を信じていたがゆえの決行だったのだ。いや、それが当然だと思っていたのだ。そうでなくてはならないと、無邪気に奇跡を信じていたのだ。なのに――。
俺には女を幸せにすることはできない――そう悟った瞬間、空斗は打ちのめされた。もちろん、女を抱くことと女を幸せにすることが等価でないことくらい分かっていた。だが頭で分かっていても心がついていかなかったのである。
そしてこの世の半数を占める人間がふいに自分の世界から消えてなくなったかのような強い喪失感も覚えた。自分というものの価値が急速にしぼんでしまったようにも感じた。これから子を成すことのない自分、ただ一人老いていくしかない自分にいったい何の価値があるのか――と。
だから空斗は武官になった。
自分を知る人間が誰一人いない土地に行きたい、そう願った田舎の少年が取るべき道はあまり多くはなく、その一つが武官となることだったのである。
幸い、武挙の推薦状を得るために武芸の稽古に励んだ結果、武官の最高峰である禁軍に所属することを命じられるまでに腕をあげることができたというわけだ。
「……いつか空也を俺から解放してやらなくてはならないとは思っているんだ」
いつか――いつか過去から解放され、自分というものの価値を心から信じられる日が来たならば。
それはもろ手をあげて歓迎すべき未来だが、果たしてそんな日が来るかどうか。それは本人にも分かっていない。
しかしその日が来なければ……空也は?
空也にも空也にふさわしい未来を進む権利があるわけで。その最有力候補には『普通の成人男性』が『当たり前』に掴む未来があるわけで。
「……いや、あいつに嫌われるくらいならその前に姿を消したいんだな。はは、臆病だと笑ってくれ」
そう言った空斗の表情がやや泣きそうに見えたのは――錯覚か。
「笑わないさ」
窓の外を見やる姿勢を崩すことなく仁威がつぶやいた。
「大切な存在の前には人はいくらでも臆病になるものだ。そういう自分を恥じることなんてない」
それは空斗に語るようでいて自分自身に掛ける励ましのようでもあった。
「ただ……後悔だけはしないようにな」
それ以上のことは言わなかった。
*




