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7.5 雨渓の過去

 儂は金家に使える巫女だったんだあ、と、自我を取り戻した雨渓がたどたどしく語りだした。


 まだ活力が戻らない雨渓だが、その面前には「全部喋るんだ」と腕を組んだ晃飛が圧をかけている。その隣には雨渓の体調を心配しつつも身を乗り出す珪己が座っている。赤子は……今度は庭で虫を探し始めていた。


「お前さんは宝山ほうざんの金家のことは知っておるかあ?」

「いいえ」


 戸惑いながらも首を振った珪己に「だよなあ」と雨渓が青白い顔で薄く笑った。


「しかしお前さんは遅かれ早かれ知ることになるよお。この街の西には人が容易に踏み込めない、針のような山が密集した神域があってなあ。その中でもひときわ神聖な山を太古の昔から宝山と呼んでおるんだあ」


 寒くもないのに珪己の体がぶるっと震えた。それは強い予感、いや、確信だった。これから語られる話は自分にとても関係することだ――と。


 それでも、言い知れない不安を覚えながらも話に耳を傾けずにはいられないのは、知らないということが無力になることを痛みとともに覚えてきたからだ。


 そして――自分は独りではない。


 隣には晃飛がいる。すぐそこには赤ん坊がいる。そして――仁威もいる。今はそばにいなくても、これから続く長い時を仁威とともに紡いでいける。そう信じられることが珪己にとって確かな力となっていた。


「宝山には神力者が住んでいるんだよお」

「神力者……。それは雨渓さんのような方のことですか?」

「そうさあ。湖国以前から脈々と続く稀有なる血筋よお。宝山の金家といえばその神力者の家系のことを指すんだあ。そして宝山の金家は趙家の、つまり湖国皇帝の家を守護する存在なんだよお。もっとも能力の強い者は皇帝に侍るために後宮に入るがなあ、それ以外の者は宝山で日々祈りと修行の日々を送るんだなあ」

「……そんな話これまで聞いたことがありません」


 この国では神や仏を信じることは咎められることではない。それどころか創生の神、現皇帝へと続く趙家の先祖のことは国が公的に保護し神事を執り行っている。しかしそこにいわゆる能力者が関わっているという話を珪己は一度も聞いたことがなかった。


「そりゃあそうだわあ。これは宝山の人間と趙家、そして華殿の一部の人間しか知らないことだからなあ」


 雨渓のつぶらな瞳が『今やお前さんもその一人なんだよ』と言わんばかりに珪己をじっと見つめている。


「……趙家の男は人間が抱えるには過大な力を有しておってなあ」


 本日最大の暴露は雨渓の重いため息とともに始まった。


「それゆえにこの国を興せたわけだが、しかし子孫を作るという点ではなかなかはた迷惑な性質を有しておるんだよお」


 女に負担がかかるんだよお、と雨渓が続ける。


「趙家直系の子を産んだ女は皆、それ以降、子を成していないんだあ。それほど胎に負担がかかるんだよお。そしてどの女も金家の守護なくして出産を終えることはできないんだなあ」

「……それって」

「ああ、そうさあ。儂がお前さんの赤子を取り上げたのは偶然ではないのさあ。星が告げたのよお」

「星……」


 その単語で思い出すのは、やはり紅い海面に座る白髪の女性のことだった。


「……藍凛という女性のことを教えていただけますか?」

「凛は皇帝の側妃さあ」


 今、皇帝・趙英龍は二人の側妃を有している。一人は英龍の幼馴染でもある胡淑妃だ。そしてもう一人といえば、金昭儀のことだ。


「そういうこと……だったんですね」


 大して珍しくもない金という姓がここに来て重大な意味を帯びてきた。


 珪己は金昭儀には一度も会ったことがない。ちらとも姿を見たこともない。それどころか、後宮に入る前も滞在時も、金昭儀に関する話は一切耳にしたことがない。しかし、今思えばそれ自体どこか不自然だったのかもしれない。


「儂も凛とは、薄いながらも血のつながりがあるんだよお。だが凛は特別な女さあ。生まれながらに体毛のすべてが雪のように白く、眼は見えず、それと引き換えに類まれなる力を有しておったんだあ」

「だからそいつは側妃になれたってわけか」


 これまでの情報を元に晃飛がまとめると、「そういうことだなあ」と雨渓が認めた。


「だが儂は側妃になることが幸せとは到底思えんのだがなあ」

「それって……どういうことですか」


 珪己が訊ねると、雨渓が心底たまらないといった表情になった。


「たとえ昭儀となっても、巫女であることには変わりはないからさあ」

「側妃で巫女ときたらさ、普通はやりたい放題、贅沢し放題じゃないのか?」


 晃飛の言い方が先ほどから一貫して荒っぽいのは、金昭儀のことをすでに敵として認定しているからだ。自分達をここまで追いつめ、翻弄した超犯人が金昭儀なのだ。敵意を抱くのは人として、武芸者として自然の感覚、反応だろう。


 これに雨渓がいよいよもって顔をゆがめた。


「巫女の一生は使命に支配されているんだよお。それに誰彼構わず傷つけているわけじゃあないんだよお。巫女の一挙手一投足は常に使命に拘束されているんだよお。いくら巨大な力を有していても、裕福でも、自分の意志なしで生かされることがどれほどの屈辱か……」


 と、雨渓がゆるゆると頭を振った。


「いんや、お前さん達もそれは身をもって体験しているんだから、今更語る必要はないよなあ」

「どうしてそれに抵抗しないんだ」


 我が身に起こった最悪の事態を振り返ったことで、晃飛は自然とその問いを口にしていた。


「だからそれは言ったとおりさあ。自分の意志がなくなるってことは、そこに自分の意志というものがあったことすら忘れるってことなんだからさあ」


 長い沈黙ののちに晃飛が理解を示すため息を漏らした。それは珪己も同様だった。


 好きも嫌いも、いいも悪いも、自分以外の存在によって自動的にさだめられ続けたあの日々には二度と戻りたくない。幸福そうに見えて決して幸福ではなかったあの日々には――。


「ならあんたはどうしてその宝山ってところから逃げ出せたんだ」

「星だよお。星が儂の目を覚ましたんだあ」

「また星かよ」

「そうさあ。すべては星なんだなあ。それがこの世の摂理なんだからよお。……ある夜、唐突に理解したのさあ。そして儂の内側で爆発が起こったんだなあ」

「……爆発?」

「ああ。ずっと眠っていた自我が星によって封かれたんだよお」


 あの夜の衝撃を雨渓は昨夜のことのように思い出せる。どれほど年を重ねようが、あの夜以上の感動や光悦――そして恐怖を体験したことはない。


「……まるで儂の中に他人が目覚めたかのような感覚だったよお。まるきり赤の他人の、言葉も習慣も違う異人がこの内に住み着いたかのような錯覚が起こったのさあ」


 この内、というところで自身の胸を音がなるほど強く叩いてみせたのは、その夜の衝撃を表現せんとする無意識の行動だった。


「だが星が言うんだなあ。儂こそがずっと眠りについていたのだとなあ。今すぐ下山して身を隠せとなあ」


 雨渓は星に命じられるがままに山を下りた。何の用意も前触れもなく姿を消した雨渓に対して、当然、金家の人間は追っ手を向けた。金家の巫女は老若含めて十名もおらず、一人欠けることは大きな損失だったのだ。それに金家は外部に流出してはらない秘術や秘密を幾多も抱えているから、それらを知る雨渓を放置しておくことは金家の存亡にも関わるのである。


 しかし雨渓は逃げおおせた。それもまた星の守護のおかげだと雨渓は固く信じている。でなければ当時の金昭儀――二代皇帝の側妃――の力で我が身の所在などすぐに見破られていたはずだからだ。


「実際、儂は下山後すぐに特別な女に出会ったんだなあ」


 晃飛や珪己が問い返す間もなく「皇帝の子を胎に宿した女さあ」と雨渓が言った。


「そう、お前さんみたいな女は他にもいたんだよお」と珪己に視線をやる。


「……きっと星はその子を救いたくて儂を下山させたんだろうなあ。だが当時の儂はそれがくやしくてなあ。宝山にいようが地上に降りようが、儂は星の命じられるままに生きるしかないのかと……なあ」


 随分昔の話なのに思い出すだけで胸が苦しくなるのは……どうしようもない。この時の悟りがきっかけで雨渓は星の言葉、意志を至上の物とは思えなくなったのだから。


 とはいえすでに臨月を迎えていた女を放っておくことはできなかった。自分が去ればその女も子も死ぬ他ないからだ。


 しかもその女は胎の子をぞんざいに扱っていた。妊婦らしからぬ振る舞いはもちろん、生まれた子は女ならば里子に出すと言い切るあたり、豪胆を通り越して野蛮な存在に雨渓には映った。


 だから決意したのだ。母が子を慈しもうとしないなら、自分がその子を護るしかいない――と。


「赤ん坊に罪はないからなあ……」


 あの時取り上げた男児はその後現皇帝の異母弟として認知され、今では趙龍崇と名乗っている。そしてその母は今や中書省の頂点に立つ中書令だ。二人の存在は今の皇帝、つまり趙家の栄華を支える代えの効かない存在となっている。それらの情報を雨渓は風のうわさで聞いていた。やはりというべきか、この未来図を描くために自分は下山させられたのだ。


 一瞬、当時の母子の詳細と現状を二人に語りたくなった雨渓だが、結局は口を閉じた。もうあの母子と自分の老い先短い人生が交差することはないし、凰となるべき娘はいずれ自力でその数奇な母子の過去を知ることになるだろう。星がそう言っている。


 そう――星は今も空で光り輝いているのだ。


 うららかな春を思わせる晴天が打って変わって曇天とみぞれが特徴的な冬空になろうとも、星の瞬きや波動を減じることなどできはしないのである。


 人の世は人の意志をはるかに超えた存在に操られており、それは人でしかない雨渓にどうすることもできないものなのだった。


「さあて。儂は言うべきことは言うたぞ」


 引き留めねばこのまま退去するつもりであることを雨渓が暗に匂わせる。だが珪己はもちろん、あれほど雨渓に高圧的になっていた晃飛までも何ら発しようとはしなかった。……混乱しているのだ。今日は予想だにしないことばかりが起きている。


「それじゃあな」


 腰をあげた雨渓に晃飛がとっさに声をかけた。


「さっき街で十番隊の隊長になった男に会ったんだけど」

「ほお。そうかあ」


 しわくちゃの口をもごもごと動かし始めた雨渓に晃飛は重ねて問うた。


「これって偶然? それとも必然? ……それとも強制だったりする?」


 琵琶の弦が切れ、一度しか訪れたことのない店に出向いた結果がこれなのだから、おそらく偶然ということはない。そう晃飛は確信している。本来は現実主義であるのにこんな風に思考してしまうくらいには怪奇現象が身近になってしまっているのだ。……本人の希望など関係なく。とはいえ運命だったとは口が裂けても言いたくないのだが。


 答えを知りたい。だけど知りたくない。そんなどっちつかずの気持ちで返答を待つ晃飛に、雨渓は曖昧な顔でほほ笑んだ。そして何も言わずに二人の前から去っていった。


 金家の巫女の血を嫌悪しながらも絶対的な真理を否定することができない雨渓にとって、星が語る事実を語らないためには無言を貫きとおす他なかったのである。


 そして雨渓が何も言わなかった理由は語らずとも察せられ、晃飛も珪己も黙って見送るほかなかったのであった。


 そこにのんきな調子で空也が声をかけてきた。


「あっれー? 二人ともいつの間に帰ってたの?」

「……一体今までどこにいたの」

「え? 俺? 婆さんが俺の作った麺を食いたいっていうから台所にいたんだけど」


 そこまで言って、空也は己の失態に気づいた。


「もしかして……まずかった?」

「まずいに決まってるだろう!」


 この後、空也は散々怒られた。だが自分がいない間に起こった詳細については知らされなかった。そして晃飛は怒りながらも空也がこの場にいなかったことに安堵した。あのばばあの話を聞かれなくて済んでよかったと。ただ、それもまた運命によって操作された予定調和なのだろうことは察せられ、察すればいよいよもってはらわたが煮えくり返るのだった。



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