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7.4 光が

 あれからまた足が速くなり、最後の頃にはほぼ走るように二人は家の門をくぐった。


 息を切らせながら居間に入ると、留守番をしていた雨渓と赤子は床に座って鞠を転がして遊んでいた。なんとも平穏な日常の一場面に、珪己の気が緩みかける。だが、


「どうだったあ?」


 意味ありげな表情、意味ありげな問いかけをしてきた雨渓に晃飛がピンときた。


 ピンときて、それは胸にすくっていた負の感情への着火剤となった。


「何を知ってるんだこのばばあ……!」

「晃飛さんっ?」


 よく言えば素直、悪く言えば猪突猛進な晃飛を制するのは珪己にとって当たり前となりつつある。


「どうしたんですか。やめてください」


 だが出立前と違い、今回ばかりは晃飛の気は収まらなかった。


「どうして止めるの? このばばあが知ってることは全部訊きだすべきだ。違う?」


 晃飛の言うことはもっともだ。確かに珪己も含みのある雨渓の言動に言いようのないもやもやを感じている。しかし――。


「それでも乱暴なことはしたら駄目です」


 武芸者は一般人に暴力をふるってはならない。そんなことは基本中の基本なのである。しかし、きれいごとにもとれる珪己の発言は晃飛を余計に刺激してしまった。


「君、何か勘違いしていない?」


 このところ柔らかかった晃飛の双眸が一瞬にして鋭利に尖った。


「この家にいたら君の安全が保障されるわけじゃないんだよ?」

「そ、それは」

「君は今も昔も瀬戸際で生きているんだ。それを忘れたらだめじゃないか」


 思いのほか強い口調で諭され、珪己は口をつぐんだ。


 話の争点となっている雨渓は平気な顔をしている。今も「そおれ」と鞠を投げ、それを赤子が小さな手をめいっぱい広げて捕まえている。まるで神経を荒立てている晃飛と珪己こそが場の空気を読んでいないかのように。


 ずい、と一歩足を進めた晃飛には年寄りに対する気遣いは微塵もない。


「さあ。知っていることを洗いざらい喋ってもらおうか」


 それでも、珪己はとっさに晃飛の袖を掴んでいた。そして振り返った晃飛にふるふると首を振った。


「晃飛さん。駄目です」

「いいから。手を離して」


 こんな小さな老婆に武力でもって脅しをかけるなんて、してはならないことだ。珪己は祈りをこめて晃飛をじっと見つめた。


「いいから離して」


 何度言われたって離すわけにはいかない。珪己の手にさらに力が込められた。


 いつまでも頑なに手を離そうとしない珪己に――ふいに晃飛がキレた。


「珪己、離せ……!」


 苛立ちゆえに飛び出た名は珪己の本名だった。


 これまで一度も珪己のことを本名で呼んだことがないというのに、こういう時に限ってその名が口から飛び出したのである。


 その瞬間、雨渓の表情が激変した。


「う、あ……?」


 まるで雷に打たれたかのようにおかしな具合に動きを止めたので、晃飛も珪己もぎょっとした。激しい応酬を目の前にして突然発作でも起こしたのではないかと、心配すらした。


「だ、大丈夫……ですか?」


 おそるおそる珪己が問う。


 雨渓は生きている。だが皺だらけの口は半開きになっている。そして戸惑う二人の視線を集めたままでよろよろと立ち上がった。


「あー?」


 赤子が不思議そうに見上げる中、雨渓は顔を斜め上に向け、わなわなと震える両手を空に掲げた。そしてその細い目を限界まで見開くと、


「おおお……!」


 獣の咆哮によく似たうなり声を発した。


「おおおおお……!」


 突然のことに珪己は呆然としている。だが突然こちらに向けられた雨渓の顔に、ひっと声にならない叫びをあげた。


「……その名を口にしたな?」


 それはまさに鬼のごとき恐ろしい表情だった。しかも、その雨渓が地を這うような低い声を発しながら近づいてくるではないか。


「その名を儂の前で口にしたな……?」

「やめろ……っ!」


 すかさず晃飛が雨渓と珪己の間に割って入った。


 これに雨渓が侮蔑の視線を向けた。


「お前に用はない。用があるのはおうとなるべき娘だけだ」


 普段間延びした喋り方をする雨渓だが、今は違う。威厳のある態度も能面のように硬い表情もまるで別人だ。顎を上げ、据わった目で滔々と命じる様は高位の者が低位の者を見下すようだ。


「龍がそなたを望んでいる」


 つかみどころのない台詞回しには……どこか聞き覚えがある。


「楊珪己。そなたは凰となるべき娘だ」


 これに珪己があっと小さく叫んだ。


「あなた、もしかしてあの夢に出てきた人……?」


 そう、今の雨渓は夢で幾度も語り合った白髪の女を彷彿とさせたのだ。深紅に染まった海面上に沈むことなく坐していた、あの不思議な女に。だが珪己は今の今までずっと忘れていた。そんな不思議な夢を見続けていたことすら。半年もの長い間夢うつつの状態でぼんやりと月日を過ごしていたが、まだまだ思い出していなかったことがあったのだ。


 雨渓の醸し出す雰囲気も、超常的な力も、いまやあの夢で逢瀬を重ねていた女に瓜二つだった。晃飛からは雨渓がこの家で成し遂げた奇跡――夢うつつな状態に陥っていた晃飛と珪己の目を覚ましてくれたこと――を珪己は聞いていた。だが、こうして実際に自分の目で見て肌で感じるまで、雨渓という老婆の本質に気づくことができなかったのである。


 そして――。


 龍とは皇帝だ。


 凰とは――皇帝の正妃だ。


 この街に隠れ住んで一年と半年、イムルの一件が片付けばこれからは何の憂いもなく暮らせるものと思っていたのに――まさか今になって『凰になるべき』と言われようとは。


「……安心していいよって言ってくれたじゃないですか」


 珪己のつぶやきには言いようのない悔しさが込められていた。


「あの子を産めば希望を掴めるって言ってくれたじゃないですか……!」


 涙目で訴える珪己にも雨渓は動じなかった。


「偽りではない。それもまた事実だ。この女にも予知能力があるからな」

「この、女……?」


 何を言っているのか理解するまでに五拍は必要だった。


「もしかしてっ……!」


 だが珪己が思い至った推論――誰かが雨渓を操っている――は若干間違っていた。


「この女は今我々が操っている」


 我々――単独形ではなく複数形で言われた瞬間、珪己は察した。


「あの時の人では……ないの?」


 てっきり夢の世界で逢瀬を重ねてきた白髪の女性がここにいるのだと珪己は思っていた。だが、雨渓の口を借りた『我々』はそれを明瞭に否定したのである。


藍凛あいりんはもう力を使えない」


 藍凛とは誰か――そこに思考が回るよりも先に、「この女は三十年ほど消息をくらませていたのだ」と、自らのことを『この女』と称しながら雨渓の話が再開された。


「だがその血潮、運命、時……この女を形作り、この女に付きまとうすべてのものに金家の力は息づいている。ゆえにこの女が逃れるすべはない」


 逃れるすべはない――そう言われた瞬間、珪己は自分自身が責められたかのように身を震わせた。常識から逸脱した未来を選ばんとしている自分を叱咤されたような、そんな錯覚にとらわれたのだ。


「藍凛からそなたという存在があったことは知らされていた。だが身内からと思われる妨害によってそなたの居場所が一切分からなくなっていた」


 だから刻んでおいたのだ、と雨渓を操る者達が言った。


「この地上にいるすべての金家の巫女にそなたの名を。そなたが有する波動を」


 雨渓の見開かれた目から涙が溢れ、頬をつうっと滑り落ちた。


 涙を流す雨渓はごくわずかに残る純な魂をかけて抵抗している。しかしその口は動き続ける。


「さあ。即刻開陽に向かえ。その身と龍の子を龍に献上するのだ」


 これに珪己がぐっと眉を寄せた。


「嫌です」

「そなたに選択肢はない」

「嫌です!」


 頑なに拒む珪己に「では迎えをやるだけだ」と雨渓が言った。


 だったら私はこの街を出るだけ――そう珪己が思った、瞬間。


「我々がそなたの居場所を見失うことは二度とないぞ」


 雨渓を乗っ取る者達がはっきりと言い切った。


「この女にはもう何もできない。空には幾千幾満の星がある。この地上のどこにいても我々はそなたと龍の子を見守っている。分からないのか」


 見守っている――そう言われて背筋が凍る思いをしたのは初めてのことだった。


(光が――)


 すべての光が自分を貫いていく錯覚を珪己は覚えた。


 どんな障壁も突き抜けて、まばゆい光が幾多も体を貫いていく。いくつも、いくつも――。


(……ああ)


 押し寄せてくるのは圧倒的な絶望感だった。


(……もう駄目なのかもしれない)


 これまで気丈に振舞っていた珪己がとうとう両腕を抱えてその場に崩れ落ちた。


(もう、駄目……)


 どこにも逃げ場はない。逃げられない。


(もう……)


 その時だった――強い力で肩を引き寄せられたのは。


「大丈夫だよ」


 珪己が声の主を見上げると、膝をついた晃飛が至近距離にいた。


「いつだって君は一人じゃない。だから大丈夫だ」


 珪己を見下ろす晃飛の目は雨渓に怒りを向けていた時と同じく鋭利だ。しかしそれは運命に打ち勝とうとする者特有の力を秘めているがゆえで、絶望の淵に立ちながらも珪己は自然とうなずいていた。


 これに晃飛が満足気にほほ笑んだ。


「そう。君は君のままでいればいいんだよ」


 と、重量感のあるものが床に落とされた音がした。


 今度は何事かと、とっさに二人が音のした方に視線をやる。そこには雨渓が倒れていた。先程まで朗々と語っていた雨渓であるが、何の前触れもなしに気を失っていたのである。


 これにより雨渓に隠れて見えていなかった赤子が二人の前に姿を現した。


 赤子は黒々とした無垢な瞳で二人のことをじっと見つめると――にこっと笑った。



 *


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