7.3 失態すなわち悪ではない
言葉少なに早足で歩く晃飛には、女の珪己だと時折小走りにならないとついていけない。
「待って! 待ってください!」
だが晃飛は振り返ることも速度を緩めることもしない。手を掴む力はかなり強く、振りほどくことは不可能だ。
「もうちょっとゆっくり! じゃないと……きゃっ」
開陽と違ってきちんとならされていない道にはいまだ慣れていない珪己は、轍の痕につま先がひっかかっただけで転んでしまった。
「……ごめんっ!」
地面に座り込んだ珪己を見るや、晃飛の顔から険しさが消えた。
「ごめんね。大丈夫?」
「大丈夫、です。ちょっと手をすりむいただけで」
「ちょっとじゃない! 皮がむけてるし血が出てるじゃないか!」
硬い小石の鋭利な部分に当たったのだろう、手のひらに貨幣の大きさ程度のすり傷ができている。だがこんなもの、子供時代であれば『大したことない』で片づけられる傷だ。
しかし晃飛は焦るばかりで「早く帰って治療しなくちゃ」と青白い顔で珪己を立たせた。
「ごめん。足がちゃんと治っていれば君のことを担いでやれるんだけど」
あまりの心配ぶりにとうとう珪己は笑ってしまった。
「なんですかそれ。手を擦りむいたくらいで担いでもらう必要なんてありませんよ?」
「あ……そっか」
ようやく晃飛が冷静さを取り戻した。先ほどからいろんなことが起こりすぎて混乱してしまっていたのだ。
この短時間で急に世界が一変してしまったかのような錯覚すらあり、晃飛は一瞬強く目を閉じた。こういう時に痛感させられる。永遠というものはどこにもないのだと。白が黒になり、朝が夜になるように……。
珪己を立たせ、晃飛はずっと掴んでいた手をためらいながらも放した。
「あ、ここで文を出すから待ってて」
手続きはすぐに終わり、晃飛が戻ってくる。
「行こっか」
そうして往路と同じように二人肩を並べて歩きだした。
「ところでさっきの男、知ってる人? 楊珪信って誰? 従兄か何か?」
やや早足かつ早口になってしまうのは気が急いているがゆえだ。やはり晃飛の心は完全に凪いではいなかった。
「はい。こんなところで会うなんて思わなかったんですけど」
応える珪己も、晃飛のように早口になっていた。
「あの、私と仁威さんがどうやって出会ったのかについてはまだ話していませんでしたよね」
「は? 今はノロケなんていらないんだけど」
もしも男の存在によって珪己の居場所がばれるようなことがあったらまずいから訊ねているのだ。
「……違います!」
珪己の頬が一瞬で桃色に染まった。
「いいから聞いてください! 仁威さんとの最初の出会いは八……九年前で、でもそれはちょっと特殊なので割愛すると」
「はいはい。で?」
「再会したのは私が後宮で女官として勤めていたときだったんです」
「女官? 君が?」
晃飛の歩みが一瞬遅くなった。そして光の速さで珪己の全身を舐めるように眺めた。しかしそれは珪己にとっては当然の反応だった。自分でもそう思う。女官とは美の極致に到達した女が就く職だからだ。
「とある事情があって一時的に勤めていただけですから」
「あ、そっか。だよね」
今更この程度の反応で腹を立てることもないので珪己は話を続けていった。
「その時に私、後宮を抜け出して近衛軍第一隊で稽古をつけてもらったりもしていたんです。男装して、楊珪信という偽名で。さっきの方にはその時に何度か稽古を見てもらったこともあるんです。あまり話をしたことはないんですけど」
とはいえ、たとえ接した回数が少なくとも、冨完と珪己はいわゆる先輩後輩の仲であったことは間違いない。
「へえー。男装ねえ。で、その時に仁兄と再会したから、仁兄のことを隊長って呼んでいたわけか」
晃飛がひゅうっと口笛を吹いた。いつもの調子が少し戻ってきている。
「いやはや、思い込みや常識って怖いねえ」
枢密使の娘ゆえに高位にある仁威と知り合っていて、それゆえに仁威のことを職位で呼んでいたのかと晃飛は思っていたのだが、その実、一筋縄ではいかない逸話が二人の間にはあったのだ。
「なるほどねえ。だったら仁兄がここに戻ってきたらちょっとまずいんじゃない?」
「……ですよね」
仁威と慮が言葉を交わす場面を珪己は何度か見たことがあった。というより、あの男が上司であった仁威を一目見れば――その先は考えなくても分かる。
「……そういえば。どうして慮さんはこんなところにいるんでしょうね」
珪己の疑問はもっともだ。近衛軍は宮城または皇族に紐づいた活動を担う軍だし、今この街には皇族含む高貴な人物は誰一人として滞在していない。もしそのような予定または事実があれば、廂軍所属の空斗が必ず情報を掴んで文をよこしてくるはずだ。
その解は晃飛が有していた。
「それはさっきの男がアレだからだよ」
「アレ?」
「……ええっ?」
今度は珪己の足が止まる番だった。
「ほら。急ぐよ」
「あ、はい」
歩く速度を緩めない晃飛に珪己が駆け足で追いつくと、晃飛が前を向いたままぼそりとつぶやいたのが聞こえた。「……あいつが噂の新隊長か」と。
確かにガタイの良さも醸し出す空気も常人のものではなかったな、と晃飛はあらためて振り返る。気になって、店に現れてからはずっと視界の片隅で男をとらえていたが、まさかあの男が十番隊の新隊長で、しかも近衛軍第一隊所属のままで地方に飛ばされていたといういわくつきの人物だとは――。名を知ってようやく悟ったというわけだ。
しかし晃飛以上に珪己は動揺していた。今度の十番隊隊長が近衛軍第一隊の武官だということは知っていたが、実際にその新隊長が顔見知りであるとは――。その可能性はあったというのに、この目で見た事実を事実として受け止めきれずにいた。
「……ここに来たということは左遷、なんですよね」
言いにくいことをなんとか言葉にした珪己に、「だろうね」と晃飛があっさりと認めた。
「花形の第一隊や第二隊ならともかく十番隊だなんて、きっと何かやらかしたんじゃないかな」
「でもあの人、仁威さんのことをすごく尊敬していて。そんな人が失態をおかすとは到底思えなくて」
仁威は部下によく慕われた上司だった。それは仁威自身が武官の鏡のような男だったからだ。堅実で、正義感に厚くて、思いやりに溢れていて。そんな上司を尊敬していた人間が悪に手を染めるわけがない――そう珪己は思うのだ。
「あのね。失態すなわち悪じゃないから」
納得がいかない珪己の心理を見透かして晃飛が言った。
「たとえば仁兄が突然第一隊隊長を辞めたことは悪いこと?」
「それは……! そんなことはありません!」
いきり立つ珪己に対して晃飛は冷静だ。
「ある側面では悪だよ。勝手に辞めたんだからね」
「でも!」
「うん。でも君から見たらそれは違うんだよね」
「もちろんそうです!」
「俺もそう思う。第三者から見ても仁兄は間違っていない。なんでも白黒つければいいって話じゃないんだよ」
しばらく無言で歩いていたが、珪己が思わずといった感じでつぶやいた。
「……慮さん、大丈夫でしょうか」
無理していなければいい、と思う。今までも、これからも。
「……笛、ちゃんと選んであげられたらよかったな」
暇つぶしのために笛がほしいと冨完は言っていたが、それだけではないのかもしれない。
この街に知り合いがいないと冨完は言っていた。郷里を思い出せる音を鳴らしたくなる心境、心が洗われる曲を吹きたくなる心境――きっと何もかもが順調ではないのだろう。ああでも、順調だからこその里心かもしれないし、余裕があるからこそ新しいことを始めたくなったのかもしれない。そんなことを珪己は思った。
「……こんな生活や状況じゃなかったら、私達、きっと親しくなれたんでしょうね」
笛を吹いたことのない珪己だが、簡単なことなら教えてやれる。それに帰還した仁威と再会させてやることもできる。だが今の状況ではどれも無理な話だ。
普段なら「君は自分の心配だけしていればいいんだ」と言いそうな晃飛だが、この時は何も言わなかった。考えるべきことが多すぎて脳内が破裂しそうだったからだ。
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