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7.2 弦を選ぶ

 店に入るや晃飛は店主に紙と墨、筆を用意させた。


「連れが琵琶の弦を見繕っている間、ちょっと書かせてもらうよ」

「へえ」


 愛想よくうなずいた店主だが、その実ちょっと迷惑そうだ。紙も墨も無料ではないし、変に長居をされても困ると思っているのだろう。


 倉庫から弦を出すために店主が奥の方へと引っ込んでいった。


「俺はここで文を書きたいからゆっくり弦を選んでくれない?」


 晃飛が珪己の耳元でひそひそとつぶやいた。誰にどんな文をしたためようとしているのか、説明されなくても珪己にはぴんときた。今すぐこの事態を伝えたい相手など、あの二人しかいない。


「すぐに書き終わるから適当に時間をかせいでほしいんだ」

「わかりました」


 そこに店主がいくつかの箱を重ねて戻ってきた。


「これがうちで扱っている弦のすべてですわ」


 大きめの机の上に蓋を開けた箱がずらりと並べられる。その品ぞろえの豊富さに珪己は素直に感嘆の声をあげた。


「こんなにたくさんの種類を扱っているんですね」


 店主一人で切り盛りする、決して広くはない店。その割には品数が多いと思ったら、店主がふんと胸を張ってみせた。


「西門州で琵琶といえばうちの店ですからね」


 開陽の専門店ならばこの倍は扱っているが、それは需要があるからで、この土地ならば十分すぎる量。店主が自慢したくなるのも当然だ。


「前に来たときはこれをいただいたんですけど、ちょっと柔らかすぎる感じがしたんですよね」


 珪己が一つの箱を指さした。


 一年前は急いでいたのと金銭面の事情で安価なものを買ってしまったが、今回はもう少しいいものがほしいと思っている。それに悩む時間をとることで晃飛のために時間をかせぎたいという思惑もあった。


「あ、これがいいです。これを全部出してもらっていいですか」


 別の箱を指すと、「お嬢さん、分かってるねえ」と店主がにやりと笑った。


 珪己が選んだものは上等な割には手ごろな品だ。そして同じ種類の弦同士で吟味する必要があることを知っているのは玄人ゆえである。素材や加工の仕方にはどうしてもムラがあるから、そういった大なり小なり生じる違いを見極め、最良のものを選び取る必要があるというわけだ。


 箱から取り出された弦は七十本ほど。その中から珪己はぱっと見で候補を十本に絞った。傷がなく、長さ方向に均質に作られたもの――この違いを見抜けない限りこの等級の弦を使ってはいけない。


 とはいえ、すぐには選び取らない。腕を組んだ珪己は並べられた弦をじっくりと見比べ始めた。


「これがいいかなあ。それもとこっちかなあ」


 声に出し、ちょっとわざとらしいしゃべり方になってしまったことに珪己は気がついた。もともとこういったことは得意ではないが、口を開くのはやめておいた方がいいのかもしれない。だから次は眉をしかめて無言でじっと眺めてみた。特に気になる十本については念入りに。


 しばらく珪己についていた店主だったが、やがて「ご自由に」と珪己のそばから離れていった。この客には助言は不要だし明らかに不審者ではない、そう判断したのだ。玄人相手に下手な接客は命取りであることを店主は熟知していた。


「そちらのお客様はどうでしょう?」


 店主は珪己達がやって来る前から店内にいる客にあらためて近づいていった。こちらは素人寄りの客だから、買うべきかどうか悩ませる時間を故意に与えていたのである。次にすべきことは迷っている背中をそっと押すことだ。その時期を見誤ってはならない。だがその客はしばらく悩みつつも結局は何も買わずに店を出て行った。


 店主が落胆のため息をついた。


 これで店内の客は晃飛と珪己だけになってしまった。


(うわ。まずいかも)


 ちょうどいい時間稼ぎになってくれていると思っていたのに、と珪己の中に焦りが生じた。


 その時、晃飛がおもむろに挙げた右手で背中をかいた。そちらに注意をやると、遠目でも文は完成していなかった。


(……まだ時間がかかるの?)


 暑くもないのに汗ばんできた気がする。


 店主がこちらに近づいてくる気配を感じながら珪己がさらに焦りを覚えた――その時。


「すまない。ここに笛はあるか」


 扉がひらき、男のややかすれた低い声が発せられた。


「ええもちろん。ございますとも」


 店主がさっそくその声の主、男へと近づいていくのを珪己はほっとした思いで見送った。だが視界の隅に入った男の姿を見て、あやうく声が出そうになった。


(あの人……!)


 簡単にいえば、その男は仁威に近い性質、武芸者の気質を有していた。おそらく二十代、しかし筋骨たくましい隆々とした体格には本人の比類なき努力のあとが見て取れる。そして特筆すべきは男の発する雰囲気だった。見ている者にひりひりとした感覚を呼び覚ます隠し切れない強者の気配――そう、それはまさしく強者特有の気だった。


 この街にふさわしくない強者が、なぜかその対極ともいえるこの店に現れたこと自体、異様だ。


 向こうで文を書く晃飛の体が一瞬硬くなったのを珪己は見過ごさなかった。きっと条件反射だ。同じ空間に武芸者同士が集えば神経が尖るのも道理である。だが晃飛はすぐに意図して体を弛緩させ、筆を動かす速度をあげた。これ以上厄介事はご免、長居は無用ということらしい。


 珪己も弦に向き直ると急いで目を走らせた。さっさと購入する弦を決めてしまおう、と。狙っていた十本を取り出すや、順に指の腹でこすり、持ち上げて眺め、軽く引っ張る。結論はすぐに出た。


「あの。すみません」


 珪己が声をかけると新たな客に対応していた店主が「はい、ただいま」と珪己のもとに戻ってきた。


「これをいただけますか」

「ほお。さすがはお目が高い。あなたはどこに勤める奏者ですかな? それともどこかいいところのお嬢さんですかな?」


 ずばずばと言い当てられ、珪己は笑って話を濁した。


「あの。お代は」

「あ、それは俺が払うから」


 書いたばかりの文を折って別の紙に包んだものを懐に入れつつ、晃飛が横から声だけで割り込んできた。「はいはい」と店主が珪己から離れていく。これに珪己が安堵のため息をついたところで。


「お嬢さん」


 なぜか珪己は武芸者然とした客に声を掛けられた。


「はいっ?」


 驚きすぎて声がひっくり返ってしまった。


 視線がかち合う。


 客の男は純粋に驚いた顔をしていたが、やがて「すまない」と困ったように薄く笑った。


「いや。お嬢さんは楽器に詳しそうだから教えてもらえたら嬉しいんだが」

「ええっと」

「初心者向けの笛が欲しいんだ。だがどれがいいのかてんで分からなくてな」


 心底困ったように眉を下げた男に、珪己は内心どきまぎしながらも近づいていった。


「笛を吹くのはあなた……ですか?」


 無視をするのは簡単だ。気位の高いお嬢様のふりをしてつんと顎を上げてみせれば、それで済む。いや、武人というだけで女に嫌われやすいこの時代、怖がるふりをして晃飛の元に逃げてしまってもいいだろう。しかし珪己は自ら男に近づいていた。この客の醸し出す空気感、仁威に近しい男に抗いきれない懐かしさを覚えながら。


「ああ。俺が吹く」


 相手をしてもらえることに男があからさまにほっとした顔になった。


「前からちゃんと吹いてみたかったんだ。こっちに来てまだ日が浅くて知り合いもいないし、時間つぶしというか、気分転換になるかなと。吹いてみたい曲もあって」


 と、男が自分の顎を薄汚れた太い指でなでた。


「俺がこんなことを言ったら変かな?」


 また目が合った。無作法なくらいによく目が合うなと思った珪己だったが、それは自分が男の顔を見つめているからだと気がついた。羞恥で珪己の顔がほんのりと赤く染まった。


「い、いえ。そんなことは」


 若干視線を下に向け、「なにか吹ける曲はありますか」と珪己が問うと、「羊のための曲なら吹ける」と男が言った。その回答が珍妙すぎて、せっかくほてった顔を見られないようにしていたというのに、珪己はまたも男を真正面から見つめてしまった。


「羊のための曲、ですか?」


 人間のため、ではなく。


「ああ。こう見えて実家は羊飼いをしているんだ」

「そうなんですか……。どんな曲なんだろう……」


 思わずといったつぶやきに、男が嬉し気になった。


「曲はいくつもある。羊を呼び寄せるためのものから、散歩中のもの、獣が現れた時に知らせるためのものなんかもある」

「へええ」


 すっかり興味津々だ。



「羊を癒すための曲もある。その曲を聴かせると、どの羊もいい顔をして眠るんだ。肉も美味くなる」

「では笛を吹くこと自体には慣れているんですね。それなら初心者向けの笛はよくないかもしれません」


 枢密使の娘であり楽院に通っていた珪己は楽器全般について一通りの知識があった。いわんや、笛についても。


「だったらこれか、これがいいと思います」


 示した二つの笛はどちらも中級者向けのものだ。


「これは吹き込んでいくと音がまろやかになっていくと言われています。こちらは逆に最初からいい音が出ますが、速い曲を吹こうとすると音が割れやすい傾向があるそうですよ」

「へえ」

「どんな曲を吹きたいかによっても良し悪しが違うんです。あなたが吹きたい曲というのは、やっぱり羊のための曲なんですか?」

「いや。人間のための曲だ」


 男がまじめな顔で受け答えをするものだから、珪己は笑いをこらえるので必死だ。


「ではその人間のための曲について具体的に教えてもらってもいいですか?」

「あ……それが曲名は知らなくて。以前、一度聴いただけの曲で」

「でも覚えているんですよね?」

「ああ。それはもう!」

「だったら今ここで口ずさんでもらえますか?」


 にっこりと笑ってみせる。その方が初対面と思われているであろう自分に対して恥ずかしがらずに口ずさめるはずだ。


 だが男は余計に照れくさそうに身をすくめた。

 

「いや……口ずさむのはちょっと……。ああでも、ほんといい曲なんだ。なんていうか、そう、心が洗われるような……そう、こんな感じで!」


 語彙のなさゆえに身振り手振りもつけて説明しようとした男だったが、すぐにあきらめた。


「うーん、剣を振るう方がよっぽど楽だな」


 と、男が何かに気づいた表情になった。


「あれ?」


 珪己の顔をとっくりと眺める。


「俺、君とどこかで会ったことがあるかな?」


 問われた瞬間、珪己もまた気がついた。

 

(この人……近衛軍の!)


 思い起こすのは、二年前の春。初めて宮城に入り、男装をして武殿に通ったあの頃のことだ。


「俺の知っている少年に似ている。もしかして君、よう珪信けいしんの姉か妹だろうか」


 珪己が男の正体に思い立ったのと、その名を呼ばれたのもほぼ同時だった。


 もはや見つめ合う視線を逸らすこともできず、珪己の喉がごくりと鳴った。


(まさかその名前まで覚えているなんて……!)


 しかし、珪己は上手にごまかすことも嘘をつくこともできなかった。なぜなら楊珪信と名乗った新米のことを快く思っていることが男から伝わってきたからだ。だから、


「その様子だと楊珪信のことは知ってるね」


 そう問われた瞬間、珪己は思わずうなずいていた。いや、うなずきかけたというのが正しいか。


 腕を引かれた――と思ったら。


「人の女房にちょっかいださないでくれる?」


 会計を終えたばかりなのだろう、珪己の視界いっぱいに晃飛の背中が広がった。


「君もだよ。知らない男と話すなんて俺に嫉妬させたいわけ?」


 顔だけで振り向いた晃飛は冷たい笑みを浮かべていた。それは言葉通り、嫉妬にかられた夫の表情のようであるが、正しくは珪己に警戒を促すものであった。


「さ。行くよ」


 晃飛に手を掴まれ、珪己は半ば強引に店から連れ出された。


 ただ、去り際に思わず振り向くと、目が合った男が大きく手を振ってきた。


「俺はりょ冨完ふかん! 楊珪信に会ったらよろしく言っておいてくれ! あいつの度胸があるところや武芸に真摯なところを俺は気に入っていたと!」



 *


楊珪信は少女篇1に出てくる名前です。

楊珪己は当時、後宮の女官としての顔と、武官見習いとしての顔、二つを有していました。

後者では男のふりをしていて、その時の名前が楊珪信です。

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