7.1 お前さんはもう子を産むことはない
琵琶の弦が、切れた。
「いたっ……」
ゆるゆるとした曲を奏でていたから、切れた弦が跳ねても指を痛めるほどではなかった。だが痛いものは痛い。珪己はそっと指を口に含んだ。
「困ったなあ……」
思わず眉をしかめたのは、舌が血の味をとらえたことだけが理由ではない。
この琵琶は珪己の亡き母が遺した唯一のものであり、開陽の自宅から持ち出した数少ない宝物だった。そして琵琶の腕を保つことにも同等の意味、価値が珪己にはあった。最近は一日に半刻弾く程度だが、弦が一本切れれば完璧な演奏はできなくなる。それは珪己にとっては非常に困ることだった。
珪己はさっそく晃飛に相談した。
「弦を買いに行きたいんです」
「弦?」
「ほら、以前行ったことのあるあの店に」
珪己が促すと、「あそこねえ」と晃飛が渋い顔をした。
晃飛の煮え切らない態度には二つの理由がある。
一つは、以前同様のことがあったことを思い出したからだ。珪己が「弦がほしい」とねだるから、仁威に内緒で二人で買いに出かけ、ばれた直後に烈火のごとく怒られた――あの夏のことである。あの頃は今よりも珪己が外出することに対して皆が神経をとがらせていた時期だった。
そしてもう一つの理由、それは弦を売る店がいわゆる繁華街にあるからだ。普段珪己が通う市と比べてあのあたりは人通りが多い。旅行者も多く見かける区域だ。つまり、隠匿生活を送る人間が避けるべき場所ともいえる。
「前も言ったけどさ、俺が適当に買ってきたらダメなの?」
「それはちょっと……。相性のいい弦がほしいので」
それは自分で見て触ってみないと分からないのだと、珪己もまた以前と同じように訴える。
珪己が頑固なことも、琵琶が母の形見であることも知っているから、晃飛は結局「いいよ」と許可を出した。珪己がこういうおねだりをすることはめったにないし、いつ戻ってくるか定かではない仁威を待って琵琶を弾けずにいるのも酷な話だ。
ただ、問題は。
「でもさすがに君だけで行かせるわけにはいかないし、赤ん坊を連れていくわけにもいかないしねえ」
赤子はまだ一度もこの家を出たことがなかった。
理由は簡単、ここ零央は西門州の州都だからだ。
特に州城付近では開陽から訪れた高官がうろつく姿をたびたび目撃する。つまり、皇帝の顔を知る人間と遭遇する恐れがあるというわけだ。万に一つも素性がばれる恐れがある場所に赤子を連れ出すわけにはいかないのである――絶対に。
しかし珪己だけで外出させるわけにもいかない。
唯一の頼みの綱である空也は……今日も明日もあさっても仕事だ。というか、空也一人の時に『なにか』が起こっても対処できないだろう。武芸の腕は、まあそれなりにある。足も速い。数人の武人に家に押しかけられても、赤子を連れて逃げるくらいはできるはずだ。というか、昼間にそんなきな臭いことが起こることは考えられない。
「でもなあ……」
しかし、昨年のような怪奇現象が起こったら空也にはどうしようもないだろう。
「何か言いました?」
「ううん、なんでもない」
いや、晃飛にも珪己にも怪奇を相手に勝てる見込みはなく、それは二人とも痛いほど身に染みているのだが……そこは晃飛、この世で一番信じている自分がいれば今度こそはどうにかなると半ば本気で思っていた。
「もう。何一人でぶつぶつ言ってるんですか」
あきれ顔の珪己の前で、突然晃飛がぽんと手を打った。
「そうだ。そうしよう」
「もう! びっくりさせないでください!」
怪奇現象といえば――あの老婆しかいない。
*
というわけで、空也が非番となった日に晃飛は豪雨渓を家に呼びよせた。
「悪いね。無理させてないかな?」
自分達の都合で強引に呼び寄せたとはいえ、晃飛にしては配慮のある問いかけだ。これに雨渓は「うんにゃ」としわくちゃの口をもごもごさせた。
「儂はもう産婆は引退したんだよお。そこの赤ん坊を取り上げたのを最後にしたんだあ」
これに驚いたのは珪己だ。
「えっ! そうなんですか?」
確かに動きは遅いし反応はにぶいし背は極限まで曲がっているが、まだまだ現役で働くに足る気力、活力を発する雨渓には生涯現役の言葉こそがふさわしいと思っていたのだ。
「なんだあ? もう次の赤ん坊が欲しくなったのかあ?」
「いえっ。そういうことではっ」
赤面する珪己、それと同じくらい顔を真っ赤にした空也に、雨渓が年老いた者特有の豪快な笑い声をあげた。
「かかかっ。まあお前さんには無理だわなあ」
「え?」
きょとんとした珪己のことを雨渓がやや憐れむように見上げた。
「お前さんはもう子を産むことはないよ。おそらくなあ」
「え……」
「おい」
言葉を失ったのは珪己、顔色を変えたのは晃飛だ。
この老婆に不思議な力があることは百も承知だ。邪悪なるものを追い払い、未来を予知する力があることを、珪己も晃飛も実体験から理解している。空也も、ここにはいない空斗も仁威も、話を聞いて知っている。しかし今の雨渓の発言はいくらなんでも非情だった。好いた男と夫婦になったばかりだというのに、その男との間には子を成せないなどと言われたら……。
「……視えるものをなんでも口にすればいいってもんじゃないよね?」
晃飛の声の低さにはわかりやすいいら立ちが含まれている。
だが雨渓は常のごとく飄々としている。
「しょうがないじゃないかあ。龍神となる子を産んだんだからなあ」
龍神――この国でその意味するところは一つしかない。
「……それも分かってたの?」
ぎらりとした視線を向けてくる晃飛に「儂を殺したくなったかあ?」と雨渓が向かい直った。
かちりと視線が交わる。
その瞬間、晃飛の右腕が何の予兆もなく動いた。
「晃飛さんっ?」
珪己がとっさにその腕をつかんだ。
珪己のその感覚はあながち間違ってはいない。実際、その手に剣を握っていたら晃飛は本能に従って無抵抗な老婆を斬り捨てていたかもしれなかった。だが今は何もその手に掴んでいない。だからその手を肩の高さまで上げただけで済んだのである。殴ろうとしたわけでもない。本当に、ただ純粋に腕を上げただけだ。
固く結んだ晃飛の唇の隙間からふーふーと荒い呼吸が漏れだした。
絶対に誰にも漏らしてはいけない究極の秘密――それをこの老婆も知っている。それはどう考えてもまずい。
だから自然と腕が動いた。
まだ誰も殺したことのない晃飛が、初めて他人に殺意を向けた瞬間だった。
「晃飛さん……っ!」
抑えきれない殺気で晃飛の肩が上下しだした。これもよくない兆候だ。懸命に、全力で腕を押さえ込んでくる珪己の存在を認知できなくなりつつある。今目の前にいる老婆をどうすべきか、これ一つに神経が集中している有様だ。初めての感覚ゆえにうまく制御できずにいる。
破裂寸前のような晃飛を雨渓は他人事のように静観している。無防備でか弱い老人のはずが、一切の恐れも見せず晃飛を見上げている様はどこか異様だった。
「晃飛さん……! 落ち着いてください……っ!」
珪己は全力で晃飛の腕にしがみついている。今後子を産めないと予言されたことも忘れて、突然の殺意に支配された晃飛をどうにかしたいと奮闘している。
「梁さん、どうしたんだよお……」
まだ最大の秘密を知りえない空也は一人おろおろとしている。
「ひゃあっはっはっはっ」
雨渓が豪快に笑いだした。自分の発言によってもたらされた、重く、不穏な空気をものともせずに。
「さ、出かけてきなあ。早くしないとみぞれになるよお」
*
なんとなく腑に落ちない気持ちを抱えながらも珪己は晃飛と家を出た。連れ出された晃飛は怒りをそがれ、半ば放心している。そして二人を見送る空也の目は死んだようで、「早く帰ってきてくれ」と言わんばかりだった。
今日はここ最近では珍しく気温が高めで、雲一つない空に太陽がさんさんと輝いている。風も吹いていない。歩いているとすぐに体がぽかぽかとしてきた。まさに散歩日和だ。これで本当にみぞれが降るのだろうか?
二人、横に並んで歩いていたら、どちらからともなくぽつぽつと会話が始まった。
「……驚いたね」
「……はい。まさか雨渓さんがそこまで知っているなんて」
「……皇帝が神だっていう話、俺はずっと眉唾だと思ってたんだけどなあ」
誰にも聞かれないように声を絞ってはいるものの、本来であれば歩きながら堂々と話せる話題ではない。だが話が壮大すぎて意見を交わさずにはいられなかった。
まあでも、と珪己がほっと肩の力をぬいた。
「雨渓さんのおかげで赤ちゃんを産めたのは事実ですしね」
妊娠初期で死にそうな思いをしたことがある身としては、死と隣り合わせの出産であったことを自覚すると、珪己は雨渓には感謝しかなかった。今後、子を産めないと言われてしまったことには驚いている。だが驚きすぎてまだ実感も悲しみもわかないというのが正直なところだ。それに、たとえそれが事実だとしても雨渓に非はないわけで。
「いやいや。そうじゃないでしょ」
晃飛が反論の声をあげた。だがすぐあきらめたようにため息をついた。
「君ってほんと前向きというか、のんきだね。……まあいいや。さ、早く弦を買って帰ろう。さすがにあの婆さんが赤ん坊を連れ去るようなことはないと思うけど、やっぱりちょっと落ち着かないから」
「……そうですね」
これまで雨渓に全面的な信頼をおいていた珪己ですら、先程の話を聞いた後だとなんとなく胸がざわつくのを抑えられないでいるのは否定できなかった。
仁威と想いを通じ合い、晃飛や氾兄弟といった味方もでき――波乱万丈かつ先が見えない生活ながらも日々幸せを味わえていたのというのに、たった一人の発言でこれほどまでに心がざわついている。
もしかしたら今まで気づいていなかっただけで、自分は常に砂上の楼閣に居座っていただけなのかもしれない。そう思った。そう思った瞬間、地面についた足の裏が不規則に揺れた気がした。
「帰ったらこれからについてちゃんと考えようね」
晃飛の硬い声音に、珪己がはっと顔をあげた。
「それって……つまり」
「うん。最悪、あの二人の帰還を前に俺達だけで家を出た方がいいかもしれないし」
そう言う時だけ晃飛が正面を向いたのは、言った瞬間の珪己の表情を視界に入れたくなかったからだ。
「あ、店はあそこだよ。覚えてた?」
おどけた調子で前方を指さした晃飛に「もちろん覚えてます」と珪己は困ったように笑った。……笑うしかなかったのだ。珪己にも晃飛の心中は察せられていたから。
*




