6.6 重なる暴露
習凱健という男との出会いについては、帰宅するや、晃飛から珪己と空也に伝えられた。
今、この家には思慮深い人間はいない。いい意味で素直、お互いを頼り合うことを知っている者達ゆえのことだ。このような重大事こそ一人で吟味するべきものではないと信じきってもいる。
ちなみに晃飛が今日一人で屯所に出向いたのは非番の空也が家にいたからだ。
「誰だろう、そいつ。特徴は?」
問う空也の腕には、今日もべっ甲の簪をしゃぶる赤子がおとなしく抱かれている。
「素性は分からない。年は四十歳近いかな。でももうちょっと年上にも年下にも見えた。……うん、目立つけど目立たない奴だったな」
なんだそれ、と空也が無言の批判を視線に込めると、
「実際にそういう奴だったんだって」
晃飛が弁明するように声を上げた。
「背が高いし体格もいいし、強面で威圧的だし。でも声を掛けられるまで存在に気がつかなかった。姿が消えたのも突然でさ。まだ話したいことはあったのに」
そう言ったときだけ、悔しさも相まって晃飛の奥歯が小さく鳴った。
「晃飛さんでもそんなことがあるんですね」
「あいつは間違いなく武に通じているよ」
重々しくうなずいた晃飛が「あ、そうだ」と付け加えた。
「口元に一つ目立つ黒子があったな」
「そんな黒子くらい俺の店の客にもあるさ」
空也が呆れた声を出した。春に蝶が舞うように、冬に雪が降るように、そんなもの人間の容姿において大した特徴とはならない。
「でもどうしてその人は仁威さんのことを知っていたんでしょうね。……もしかして私のことも何か知っているんでしょうか」
怯えたような、細い声を出した珪己に晃飛は正直に自分の推測を伝えた。
「だと思うよ。でも詳しい素性までは知らないと思う」
現皇帝の血を受け継ぐ男児を産んだ枢密使の一人娘――こんなにも高貴な肩書を有する女がここにいることが露見していたら、珪己も赤子も即刻連れだされているはずだ。
確かにここ最近、この家を監視する人間の気配をたまに感じることがあるが――それは仁威と空斗が不在となった翌日からのことで、そこに緊急性や重大性は感じられていない。
「多分、君のことは仁兄の奥さんくらいにしか認識していないんじゃないかな。多分というか、きっとそう」
と、晃飛は一つのことを思い出した。
「ね。今『あれ』について空也に話してもいい?」
目配りされ、合点のいった珪己が「はい」とうなずいた。
「ん? 俺がなに?」
「あのさ。実はね……妹は枢密使の一人娘なんだ」
たっぷりの間をおき――。
まるで操り人形の糸が切れるかのように、立ったままで話を聞いていた空也の腰がすとんと背後の椅子に収まった。
「……え?」
そのたった一言が出てくるまでに実に長い時間を要した。
「すみません」
珪己が申し訳なさそうに身を縮めた。
「驚きましたよね」
「……お、お」
「お?」
「……驚いたなんてもんじゃないよっ!」
一度大声が出れば、あとは止まらない。
「あの枢密使の娘? 珪亥が? 本当に?!」
「はい……」
おずおずと珪己がうなずいた。
これに空也が腕の中の赤子を抱えてうめき声を発した。
「うわー……。じゃあ俺と兄貴が護ろうとしていたのって珪亥だったんだ? 嘘だろ? そんな偶然みたいなことが本当にあってたまるか? てか、本当に枢密使の娘なの? あの枢密使の? うわーっ。マジかよ!」
きっといい家の娘だろうと、兄と常々言っていた。だがまさか、あの枢密使の娘だとは。兄と二人して護衛に当たることになっていたあの娘だとは――。
「あとね。仁兄は近衛軍の第一隊隊長だったんだ」
さらなる暴露に空也はとうとう言葉を失った。
今なら天が割れて神がその姿を現してもそれほど驚かずにいられる自信がある。
*
「……なんだって?」
夕餉を済ませ宿に戻り、部屋の扉を閉めたところで。
「それは本当のことなのか?」
急に思いがけない発言をした仁威のことを空斗がまじまじと見つめた。
今目の前にいるこの男は元近衛軍第一隊隊長で、妻であるあの娘は枢密使の一人娘だというのだ。驚かないわけにはいかないだろう。
「今まで黙っていて済まなかった」
しばらく無言で見つめ合い、「そうだったのか」と空斗が苦笑いを浮かべた。
この男はつまらない冗談を言う男ではない。それは短くもない時を共有していれば分かることで――。なのに条件反射のように問い返してしまったのは、仁威の発言があまりにも突拍子なかったからだ。
「どうして急に身元を打ち明けようと思ったんだ?」
そうだ。
今はその理由をこそ訊ねるべきことだ。
「元々お前達兄弟にはいつか打ち明けようとは思っていたんだ」
雪で湿り気を帯びた外套を脱ぎつつ語る仁威には何の気負いも後ろめたさもない。その様子はまさに仁威の言葉を体現するものだった。
「知る必要のないことを伝えればお前達を危険にさらすからな」
その言葉を聞いた瞬間、空斗は先程まで肌身で感じていた外気の冷たさを思い出した。ふるり、と条件反射のように体が震えた。零央ほどではないが、ここ培南もそれなりに寒い。夜ともなれば呼吸するだけで体の内部から凍りついてしまいそうなほどに。
危険――その言葉は空斗にとって呪いの一種となっている。
未遂であろうが推測であろうが、空斗を簡単に恐怖の谷底へと突き落とすことができる言葉が『危険』の一語だ。弟を愛する空斗のことを、永久凍土の地に封じることだって、業火の中に投げ込むことだって、なんだってできてしまう。それほどまでに恐ろしい言葉なのである。
急に表情を硬くした空斗に仁威が言った。
「安心しろ」
はっとした表情になった空斗に仁威が重ねて「大丈夫だ」と言った。
「お前達兄弟を危険な目には合わせない」
「あ、ああ……」
無意識で握り込んでいたのだろう、空斗の手のひらには爪が食い込んだ痕ができていた。うつむいた空斗はその痕に気づくと情けない表情になり、すかさず両手で顔を乱暴にこすった。
「すまない。俺は本当に弱くてダメな奴だ。武官だというのにどうしてこうも……」
何度も顔をこするものだから顔がどんどん赤くなっていく。
「誰かに護られたいわけじゃないんだ。俺も空也も、やりたいと思ったことをやりたいだけなんだ。正しいと思ったことを選びたいだけなんだ。その結果も自分のこととして引き受けたいだけなんだ。たとえ過去にどんなことがあったって、それで未来を、自分の生き方を曲げたくなんかないんだ……」
背中を丸めてうずくまった空斗の肩に仁威がそっと手を載せた。
「お前の気持ちは分かる。だが誰だってそういつも強くはいられないさ。いいじゃないか、そういう自分がいても」
「……え?」
両手を覆う手のひら、指の隙間から空斗がまじまじと見つめるものだから、仁威が自嘲気味に笑った。
「俺がこんなことを言ったらおかしいか?」
「いや。そうじゃない。ただ……あなたはいつだって強くてぶれない人だと思っていたから」
完璧という言葉がこれほどふさわしい人物を空斗は知らない。あの毛を打ち倒した事実もそうだが、零央での共同生活においても、仁威から欠点や不得手の類は一つも見つけられなかった。ここ培南に来てからも、小都の人間をどう使えばいいのか的確な助言をしてくれたりと、調査を円滑に進めるための助勢を仁威が惜しむことはなかった。
空斗の雄弁すぎる視線の前に「俺だってただの人間だ」と仁威が困ったように視線をずらした。そして視線の先にあった寝台になんとなくといった感じで腰を下ろした。だが次の瞬間、謙遜するような雰囲気が一切かき消えた。
「だがこれだけは忘れるなよ。ここぞという時にはその弱気は封じろ。絶対に屈するな」
空斗を見上げる双眸は刃のごとく研ぎ澄まされたものに変貌している。
たまらず空斗の喉がごくりと鳴った。
「長い人生、普通はいざという時なんて数えるほどしか起こらない。だがその特異点ともいうべき瞬間にこそ自分に負けるようなことがあってはならない。違うか?」
「……そうです」
自然と敬語になってしまったことにも空斗は気づいていない。
元近衛軍第一隊隊長を前にして、武芸者のはしくれとしての当然の変化であった。
「いいか。失敗はただの恥でも痛みでもない。苦しみでもない」
「では……なんですか」
口内の乾きで喉の奥にひっかかりを覚えながら問うと、「経験だ」と仁威は端的に答えた。
「経験であり、事実。それだけだ」
こうやってなんてことのないように結論を述べた仁威だが、その実、この解に行きつくまでに様々な思索を重ねている。楊武襲撃事変からの九年間、その後の半年間の孤独な放浪も含めて。それこそ自我を失うほどに思いつめたこともあった。
だが今は――。
「過去は変えられない。そして人生はこれからも続く。ならばどうする? その失敗を負の遺産として抱え続けるだけでいいのか? 生涯泣いて過ごすのか? 違うだろう」
真摯なまなざしを前に空斗は厳粛な気持ちで続きを待った。
「大切なものがあるなら、それを護りたいのならば――自分が変わるしかないんだ。そして、そうすることでしか人間は過去を、過ちを乗り越えることができないと俺は思っている」
いったん口をつぐんだ仁威だったが、ややあって頭を軽くかきむしった。
「本当はこういったことは言わないほうがいいんだがな」
育成すべき者には基本的に自分で考えさせるべき――そのような方針を掲げてこれまでやってきた仁威だが、空斗は自分の部下ではないせいか、ついつい口にしてしまった。
(いや……それだけではないな)
自分を甘やかしかけたことに気づき一人自戒する。
(どうやら俺はあの王子との対決を前に気が急いているようだ)
勝率をあげるために我が事ながら浅ましい無意識が働いてしまったようである。
そう――空斗の心が折れやすい欠点を克服させることで、対イムル戦において空斗をより有効に使えるようにしたくて。
氾兄弟に自分と珪己の素性を打ち明けておくことは、出立前に珪己と決め、晃飛にも伝えてあった。二人ともこの暴露について全面的に賛成していたが――実は三人そろって氾兄弟にもっと頼りたいと思っていただけなのかもしれない。
(……もしかしたらまだ知らせない方がよかったか?)
だが空斗は仁威のほの暗い想いには気づかず、逆にしみじみとした表情になった。
「ああ……あなたの言うとおりだ」
今仁威が述べたことは産婆の豪雨渓から諭されたこととほぼ同じである。あの時の空斗も雨渓の言葉で強く心を動かされたが、人物と言葉を変えてあらためて伝えられると、あの日の衝撃、感動を違う角度から追体験するようだった。
『お前さん方はお前さん方次第で変わることができるんだよお。こんなおかしな世界でもなあ、それだけはお前さん自身でなせることなんだよお』
『その傷で失ったものもあるだろうが、得たものもあるんじゃないかあ?』
『その痛みは『本当に』痛いのかあ?』
固い殻を一枚一枚剥いでいくかのように、あの開陽の古寺で纏ってしまった強固な負の感情、弱腰、怯え、恐れ、痛み……そういったものの力が弱まっていくのが実感できるのだ。
『変わるんだよ、お前さんも』
『変わると決めるんだよお。ほんとはそうしたいんだろお?』
(この地で自分は真から解放されるかもしれない――)
期待で空斗の胸が膨らむ。いや、能動的に解放されるのを待っていては駄目なのだろう。自ら過去から解き放たれなくては。そのためには自分自身を強く信じることが必要で、仁威が己が素性を明かしてくれたのも自分にそれだけの価値があるからで――。
紅潮し静かに己を高めていく空斗のことを仁威は黙って見守っている。
空斗の内面の変化は本人にとっても仁威にとっても喜ばしいことで、ならばこれ以上何も言うべきことはなかったのだ。
だから――たとえ一抹の不安、後悔を抱いていたとしても『それは無理かもしれない』などとは口が裂けても言えなかったのである。
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