6.4 人は不完全だからこそ
「君は慕っていた誰かに捨てられたことってある?」
緩く首を振った珪己に、「だったらその点だけでも君は俺よりも幸せだよ」と晃飛が小さく吐き捨てるように言った。
「子供にとっての母親って愛の象徴みたいなもんだろう? 神や仏は信じていなくても母親の慈愛とか温もりは信じられるだろう? それをある日突然失うっていう経験はさ……うん、相当しんどいものだから」
相当しんどい――語彙を失ったかのようにただそれだけを言うと、晃飛は完全に口を閉ざした。
沈黙の中、珪己は流れるように自分の母へと想いを馳せていった。
珪己の母は九年前に殺された。『殺された』ということは娘である珪己にとっては『母を奪われた』ということと同義だ。そこには母の意志は一切介入しない。他者が勝手に実行したことである。だが、もしも母自らに捨てられたとしたら――?
「慕っていた人間をある日突如として憎まなくてはいけなくなるんだよ」
沈黙を持て余したかのように、またもや晃飛が語りだした。
「そうしなければどこまでも落ちていきそうな絶望に耐えられないら……だから憎むしかなくなるんだよ」
最低最悪の女だと断じないと心の平衡を保てなかったから――。
「あの女が消えて、俺の親父は酒におぼれて体を悪くした。兄弟はいつもいらいらして、なのに時折思い出したように隠れてしくしく泣いていた。だけど俺はあんな女のために自分の価値を下げたくなんてなかったんだ。だってさ、俺が頼れるものはもう俺自身しかなかったんだよ? 母親ですら裏切るんだ。それでどうやって他人に寄り掛かれるっていうの?」
これまで随分ため込んでいたのだろう、堰を切ったように言葉が、想いが溢れていく。
「ね。無理だと思わない?」
問われ、ようやく珪己が口を開いた。
「でも晃飛さんは真白や仁威さんのことは慕っていたんですよね?」
「それは」若干口ごもったものの「真白と仁兄は特別だから」と早口で晃飛が答えた。
「真白は犬だし、仁兄は透威のことで縛ることができたから……そうじゃなかったら無理だったと思う。俺、自分でも自分が欠陥品だって分かってるから」
「欠陥……品?」
「うん」
薄く晃飛が笑った。
「でも自分がダメな奴だって思いが頭にちらつくと眠れなくなるんだよね。自分には捨てられるべき欠陥があって、だから愛される資格がないのかもしれない、親ですら俺を愛さないんだから……そんなふうに思うとさ、どうしようもない気分になってのたうち回りたくなるんだ」
話していたら、晃飛はこれまで気づかなかった本音の核にようやく思い至った。そうか、俺は誰かに愛されたかったのか、と。
でも誰も愛せない。今までも、これからも。愛せなくなってしまったことには理由があるから。たとえ愛されても見返りを与えられない負い目もある。
(……だから『理由』を求めてしまうのか)
だからあの女に対して冷酷にふるまってしまうのだろうか。
「……本当は俺を捨てたことじゃなくて、こんな俺にしてしまったことに対してあの女に腹を立てているのかもしれない」
口に出すつもりはなかったことまで呟いていた。
「ああ、ごめん。忘れていいから」
気まずさゆえに立ち上がりかけた晃飛に、
「待ってください……!」
突如珪己が強い制止をかけた。
「ちょ、ちょっと。声大きいから。起きちゃうから」
晃飛の思考がまず眠る赤子の方に動いたのは、血のつながりなどなくても赤子を慈しんでいるがゆえだ。だが毛布に頬をすり寄せている赤子は深く寝入っているし、珪己も自分の大声を気にもしていなかった。
「晃飛さんはどこも欠けていない人だなんて、そんなことを軽々しく言うつもりはありません」切々と訴えてくる。「私も欠点だらけの人間ですから」
でも、と珪己が声を抑えつつも勢いのままに続けた。
「でも人は不完全だからこそ誰かを、何かを求めてしまうものじゃないんですか? だったらそれをちゃんと言葉と態度に出さないと」
「……言葉と、態度に?」
「そうです」
珪己が力強くうなずいた。
「ほしいものをほしいと言うことは恥ずかしいことじゃないです。同じようなこと、以前、晃飛さんも私に言いましたよね?」
「……ああ。あれね」
それは珪己が仁威への恋心に気づき始めていた頃のことだ。もやもやとした気持ちを持て余しつつも、そのもやもやに真正面から取り組む勇気もなく、誰にも相談することもできずにいた珪己に晃飛が言ったのである。『自分のことを他人がいつでも察してくれると思ったら大間違いだよ』と。
『世の中そんなに甘いもんじゃないから。なんでも言ったもん勝ち、やったもん勝ちだよ。じゃないと、世界は自分が望むものからどんどんかけ離れていくものなんだって知らないの?』
これをきっかけに珪己は自らの心と対峙する勇気を得たのだった。
珪己がぐっと上半身を晃飛に近づけた。
「それに言葉に出すことで運気が巡りやすくなるように思うんです。ね、晃飛さん。私が仁威さんのことを好きだってこと、私が言うよりも先に仁威さんに言っちゃいましたよね」
「……あ。仁兄に聞いたんだ」
ばつの悪そうな顔になった晃飛に「別に怒っていませんよ」と珪己がほほ笑んだ。
この話は仁威が培南に出立する前夜に聞いたものだった。
「仁威さん、言ってましたから。私の想いには前から気づいていたって」
「うん。だろうね」
「でも晃飛さんがそう明言したことで不思議なくらい力が湧いてきたそうです」
「……力が?」
「はい。その、仁威さんも私と同じで想いを通じ合わせようだなんてことは一切思っていなかったそうなんです。この街に帰ってきたのも私に一目会いたくなっただけだったそうで……」
若干頬を染めた珪己が口ごもった。会いたくて戻ってきただなんて、恋愛初心者の珪己にとっては照れずに言うのは難しいことなのだ。
「つまり! そういうことなんです!」
鼻息荒く断言する珪己に「はあ」と晃飛は曖昧に相づちを打った。
正直、なにが『そういうこと』なのかはさておき、自分が暴露したことによって仁威と珪己が幸せを掴んだのは事実らしい。それは暗く陰った晃飛の顔を上げさせるには十分な理由となった。
「だから晃飛さんはもっと素直になった方がいいんです」
まだ話は続いているらしい。
「言葉には力があるんですよ。前に晃飛さんが私に言ったことと同じです。芙蓉さんにもっと言ってやりたいことがあるんじゃないですか? だから芙蓉さんへの怒りが収まらないんじゃないですか?」
もっと言ってやりたい……こと。
「本当にどうでもいい人には感情なんて沸きません」
そうかも……しれない。
「もっとたくさん言葉を、気持ちをぶつけてすっきりしましょうよ。その結果、芙蓉さんをゆるせるのか無関心になるのかは分かりませんけど」
「勝手だなあ」
晃飛は思わず声を上げていた。確かにその二つは究極的な結末ではあるが。
「でも今のように憎み続けるわけにはいかないですよね?」
確かに……憎悪や怒りの感情を維持するのはひどく疲れる。かといって相手にぶつけるだけですっきりするものでもない。
そういった感情を有するにふさわしい理屈を自分で常に抱えていなくてはいけないのも正直しんどい。こんな感情をこれからも有し、制御し続けなくてはいけないのかと思うと……。
「……うん。考えただけでうんざりするね」
晃飛のつぶやきに「ですよね」と珪己が深くうなずいた。
「だったら変わらないと」
「それは俺が……ってことだよね」
「分かってるじゃないですか」
珪己が再度うなずいた。
「……なんで被害者の俺が」
当然の文句にも珪己はすぱっと答えた。
「晃飛さんの人生は晃飛さんのものだからですよ」
これ以上の解はないと言わんばかりに。
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