6.2 べっ甲の簪
話の舞台は地方へと戻る。
仁威と空斗が培南に入ったのは雪が降りしきる深夜のことだった。
「ああ。ここだ」
かじかむ指で空斗が指さしたのはこの辺りにいくつも立ち並ぶ宿の一つだった。ただ、その宿だけが入口に椿の花を飾っていた。厚みのある赤い花びらの中央、くぼんだ部分には雪がみっちりと埋まっている。
戸を二回叩くと、心得た店の人間が内側から戸を開けた。
「お疲れ様でございます」
「廂軍の氾と呉だ」
空斗が懐から取り出したのは紅玉――武官の証だ。なお、仁威は何も取り出さすことなく空斗の後ろにひっそりとたたずんでいる。だが二人の予想通り、店の人間は仁威の素性を物的証拠で確認しようとまではしなかった。
「はい。お待ちしておりました。どうぞこちらに」
手続きはあっさりと済み、馬を預けた二人は二階の奥の部屋へと通された。室内は火鉢でほどよく温められており、二人はこれまた用意されていた清潔な衣に袖を通すと無言で寝台に入った。真冬の野宿を経験した後ではこういった心づくしが胸にしみいるほどうれしい。
(ああ……温かい。極楽だ)
目をつむっていても、木板の窓に雪のつぶてがぶつかる音が時折聴こえる。だがうるさくはない。それどころかその音が鳴るたびに一歩ずつ眠りの世界に近づいていく錯覚すらあった。柔らかな布団に包まれながら空斗はそんなことを思った。
(明日からは……頑張ろう)
まずは小都の詰め所に行くことになっている。現況を把握し、調査に助力してくれる人間と顔合わせをして、すべてはそれからだ。
(あとは地図も入手しないとな……)
うつらうつらする頭の中で無意識に作業工程を確認している。
対する仁威はすでに眠っていた。
たった一人で放浪していた半年に比べ、この数日の旅は仁威にとっては楽なものだった。信頼できる相棒がいる――それが何より心強かったのだ。今もこうして早々と眠りにつくことができている。独りではこうはいかない。
イムルがいるかもしれない街に足を踏み入れたこと自体には思うところは当然ある。しかし、さすがに今夜は何も起こらないだろうとも思っている。たとえ何かが起こったとしても、空斗もいるから大丈夫だ。……そう思えること自体、幸せなことなのである。
やがて二人の青年の深い寝息が室内に絶え間なく響くようになった。
吹雪はさらに激しさを増していったが、室内にいる二人にとってはなんら影響はなかった。
*
さて、零央では梁晃飛の家に残された四人は変わらぬ日常を過ごしていた。
晃飛は道場で市井の人間を相手に稽古をつけて禄を稼ぎ、空也は肉麺屋での修行にせわしなく、珪己はまだ名のない赤子の世話をしつつ新春に向けて家中の掃除にあけくれていた。
「どうしてこの家はこんなに広いんでしょうね」
髪や衣についた埃を珪己がうっとおしげに払った。
「使っていない部屋が多くて、しかもそのどれもが埃まみれなんですもの」
「使っていない部屋だからきれいにしなくてもいいのに」
そう言う晃飛は本心からそう思っているようだった。実際、冬だというのに額に汗して動き回る珪己のことを馬鹿にしたように眺めている。そういう目つきをしている。
「あのですね」
たまらず珪己が忠言した。
「家っていうのは使っていないと痛むんですよ」
「それ本当? どうしてお嬢様の君がそんなことを知ってるの?」
疑り深いまなざしで顔を覗き込む晃飛だったが、ややあって自分で納得できる解を見つけた。
「なるほど。お嬢様が住んでいたお屋敷は広いから、だから知ってるんだね。さすが庶民とは違うなあ」
これが珪己の怒りに火をつけた。
「……晃飛さんだってこんなに広い屋敷を持ってるじゃないですかあっ!」
そんなこんなで晃飛も稽古のない時間――つまり一日の大半を掃除するはめになった。とはいえどんなに広い屋敷といえどもここは庶民が所有する物件であるから、二人がかりで掃除をするようになったら七日もかからずに終わった。
「ふー。きれいになるとすっきりしますね」
新陳代謝がいいのか運動量が多いのか、雪が降りしきる日々が続くというのに珪己は今日も額に汗している。その表情はここ最近続く曇天とは対極に晴れ晴れとしていた。
「これで二人が帰ってきた時にきれいな家で迎えられますね」
「そうだね」
うなずく晃飛は縁側にずらりと並べられた珍品にすでに興味をうつしていた。
「さあて。金目になるものはどれくらいあるのかな」
花瓶や壺、硯に筆、掛け軸に本、黄ばんだ衣類や布団と千差万別なこれらは掃除の過程で出てきた物品だ。
実は元の持ち主からこれらの物品を引き取る、つまり処分することも請け負って晃飛はこの家を購入している。しかしそこは晃飛の性格、その時が来るまでは放置しておけばいいやと今日にいたるまでどのような物がこの家に潜んでいるかすら調べていなかったというわけだ。銭になるものは好きだが、面倒ごとは好きではない。
胡坐をかいて巨大な花瓶を眺めだした晃飛の隣に珪己が腰をおろした。
「これ全部売っちゃうんですか?」
その腕には赤子が抱かれている。ぱっちりと開いた目は今も変わらず皇帝やその一人娘を思い出させるが、慣れとは恐ろしいもので最近はあまり気にしていない。いや、そんなことをいちいち気にしていたら赤子を育てることなんてできないし、顔の造形など気にならないほど珪己は赤子のことを愛おしく思っていた。
「そうだね。捨てるにしろお金がかかるし、銅銭一枚でもいいから稼げた方がいいしね」
そう言う晃飛の視線はさっきから一つの花瓶に釘付けだ。何かしら心の琴線にひっかかるものがあるらしい。
「これ。素敵ですね」
その花瓶には二匹の龍が天に駆け上らんとする様が緻密に描かれていた。
「だよね。なんかいいよね。運気が上がりそうっていうか、何かいいことが起こりそうっていうか」
龍は皇族の意匠として認知されている。しかし庶民の間でも縁起物としてよく使われていた。
と、晃飛が「それだ!」とぱっと顔をあげた。
「もしかして君、鑑定みたいなことできる?」
「え?」
「開陽で育った生粋のお嬢様ならさ、価値のある物とそうでない物の区別くらいつくんじゃない?」
「ええと……それはちょっと無理です」
「じゃあ価値があると思える物だけ集めてみてよ。どう?」
「えええ……。それ、さっきの話と何が違うんですか?」
これに晃飛がよどみなく答えた。最初の話は二者択一にきっちり分けることで、次の話は良であると確信がもてるものだけをすくいとる行為だ、と。つまり前者は良し悪しを完璧に理解していなくてはできないが、後者は良いものをいくつか知っていればできる作業だと、そう言いたいのである。残り物に良いものが含まれる可能性があってもゆるす――それが後者の考え方だ。
「とにかく君がピンときたものを教えてよ」
そうまで言われれば断るのも気がひけ、珪己は不承不承うなずいた。
「分かりました。やってみます」
珪己は晃飛に赤子を手渡すと、腰に手をあて、まずは骨とう品を真上からざっと眺めた。
「えーと。これと。それとあれですかね」
はじめに晃飛が気にする花瓶を、次にだいぶ古い短剣のことも指さした。短剣は凝った意匠もついていないしさび付いているけれど、名のある刀鍛冶が打ったもののような気がしないでもない。
「あとの物はちゃんと一つずつ見てみます。……って。え?」
珪己の目が驚きによって見開かれた。
赤子が立ち上がっている。
晃飛の腕に抱かれていたはずの赤子が一人でしっかりと立っているではないか。
「おおー」
晃飛がぱちぱちと手を叩いた。
「すごい。あのばばあの言ったとおりだね」
ばばあとは産婆の豪雨渓のことである。
『この子は床を這うようなことはしないよお』
その言葉どおり、結局一度も床に手や膝をつけることなく立ち上がってしまったのである。
しかも立ったばかりの赤子が歩き出した。初体験の重心移動は見るからにおぼつかないが、両手を広げてつり合いを取りながら着実に前進していく様はあっぱれとしか言いようがない。
そして赤子は珍品の山の中から何やら掴み上げた。
「あー」
珪己に向かって持ち上げてみせたものは薄汚れたべっ甲の簪だった。
「これがほしいの?」
「あー」
「おしゃぶりにでもしたいのかな。でもちょっと汚いよこれ」
貸して、と晃飛が懐から手巾をだして簪を磨く。そうすると曇り空に隠れていた朧月のような色合いだったものが、最終的には雲一つない夜空に輝く満月のように美しく変化した。少し傾けてみるたびに煌びやかな光を放つ。なかなか高級そうな品だ。
「おおー。これもしかしてけっこうな値打ちものじゃない? 大金に化けるかもね」
俄然興奮しだした晃飛だが、珪己の顔色が悪くなっていることに気づき、その顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「あ、いえ。なんでもありません」
「そう?」
「あー!」
二人の会話を邪魔するかのように、赤子が突然大声をあげて手を突き出してきた。
「これがほしいの?」
「あー!」
「はいはい。お前、赤ん坊のくせにいいものが分かるんだな。あ、あげてもよかった?」
親が嫌がるものを与えてはよくなかったかもと、晃飛が確認する。これに珪己は「大丈夫です」とうなずいた。だがその顔色はあまりよくない。
赤子は簪を手にするや躊躇なく口に含んだ。まだ小さな口でくちくちとしゃぶり、生えてきたばかりの歯できりきりと噛み締める。そして満面の笑みで両手を上げた。
「あー!」
「おーおー。喜んでるね」
べっ甲の表面に刻まれていた絵柄が唾液で濡れたことでくっきりと浮かび上がった。
それは大振りの羽根を広げた空想上の鳥――凰だった。
(やっぱり見間違いじゃなかった……)
珪己の胸がつきんと痛んだ。
龍は、まだいい。だが凰の意匠までこのような庶民の家で発見してしまったことに、珪己は運命の恐ろしさを感じていた。凰とは皇帝の正妃の象徴だ。
(いついかなる時でも皇族からは逃れられないのだろうか――)
久方ぶりに抱いた危惧を珪己は急いで頭の中から振り払った。
(変なことは考えちゃだめだ)
(仁威さんがいれば大丈夫)
(あの人がいれば絶対に大丈夫なんだから……!)
胸中で何度も何度も同じ言葉を繰り返し、それでようやく珪己は少しだけ微笑みを取り戻せたのであった。




