6.1 どちらが行くか
後半開始章の舞台はまたも首都・開陽です。
首都・開陽で初雪が観察されたのは年の瀬の十日前のことだった。
裕福な人間が多く住むここ開陽では、雪は目くじら立てて憎むものではない。冬の象徴であり、風情の一つである。それゆえその日は子供から大人まで小さな祭りでも催されているかのように表情をほころばせていたし、街には一気に下がった気温をものともしない朗らかな空気が満ちていた。
ただ、宮城内はやや違った。年の瀬といえば文政を司る中書省も軍政を司る枢密院も、どちらもやるべきことに追われる時期だからだ。そして武殿においても緋袍をまとう青年官吏が二人、険しい顔をして睨み合っていた。
「だからそれは私が行くと言っているだろう」
すらりとした思慮深そうな面立ちの男――高良季が言うのに、
「いいや。俺が行く」
恰幅のいい上背のある男――呉隼平がいつになく硬い声音で突っぱねている。
「おやおや。いつも仲のいい二人がどうした?」
見かねたのだろう、通りかかった老齢の男が仲裁に入った。この男も緋袍をまとう枢密院事だ。つまりは二人の青年と同じ職位にある。だがこの時代、年齢以上に本人の素質や才能、技量が問われるので、彼らの年の差に違和感を覚えるものはいなかった。
「あ、斎さん! 聞いてくださいよ!」
隼平がやや演技がかった調子でこの老齢の同僚に泣きついた。
「今度の視察、俺が行くって言ってるのに良季が頑固なんです!」
「違います斎さん。これは私が行くべき案件なんです」
「それはもしかして零央の視察のことかな?」
察した斎がふむふむと歯の半分抜けた口を動かした。この老人、死ぬその時まで働くと皆に宣言するほどの仕事人間である。
「あそこはちと面倒なことが起こっているようだな。元罪人の隊長含め、廂軍の武官四人が謎の死を遂げたとか。……ん? だがそなたら、自分こそがその面倒事へと首を突っ込みたいと言っておるのだな」
「そうだよ?」
隼平は腕を組むと幼馴染であり仕事上の相方である良季をむすっとねめつけた。
「良季は新婚なんだから俺が行くべきなんだ」
「だからそういった気遣いは不要だと何度言ったら分かるんだ。仕事に私生活を持ち込みたくないんだ」
ため息交じりに額に手を当てた良季に「いいや持ち込め!」と隼平が憤然と言い放つ。
「は?」
「仕事もそれ以外もひっくるめて良季の生活だろ?」
「それは……そうだが」
「それに俺が結婚したら良季に仕事を任せる時があるかもしれないし」
にひっと笑った隼平に対し「そんな日が来るとは思えんがな」と良季がすげなく言い返した。
「ほらまたあ! 斎さん、ひどいですよねっ?」
すがりついて涙目で見上げてくる隼平に、斎は同情を禁じえなかった。
「うむ。確かに良季は言い過ぎだ。隼平はやる気さえだせば妻の一人や二人娶れる男だぞ」
「……ううん。俺、一人でいいから。何人もいらないから」
「何を言っておる! そんなことで男たるものどうする!」
憤慨する斎に、先程まで火花を散らしていた青年二人は同調しそっと視線を交わした。面倒な方向に話を振ってしまった、と。老齢の斎は一昔前の価値観を頑なに抱えて生きる化石のごとき男なのだ。しかも官吏ゆえの羽振りの良さと見目の良さで、若い時から複数人の女を同時進行で侍らせているときたら……その先は推して知るべしだろう。今は正妻が亡くなり、三人の妾の家を自由気ままに行き来しているともっぱらの噂だ。
「よし。隼平、お前が零央に行くのだ」
「へ?」
急に指名され、隼平が自分の顔を指さした。
「俺?」
「うむ。零央にいるわしの知り合いのところについでに行ってこい。そこで男になってくるのだ」
「えー。俺、生まれた時から男だよ?」
「真の男になれと言っているのだ」
ぽやんとした隼平の主張は斎の耳には届かない。
「だから良季はここで留守番だ」
「……はあ」
あれほど意固地だった良季もけむに巻かれた顔つきになっている。
そこに扉ごしに上司である徐承賢の声が飛んできた。
「枢密院事!」
途端に隼平がむっとした顔になった。名ではなく職位で呼びつけるところも、個々人である良季と隼平を尊重しないところも、何もかもが神経に触るのだ。
「私が行こう」
良季が眉をひそめつつも腰をあげた。
これに隼平が慌てて立ち上がった。
「あ、待って。俺が行くから」
視察の件についても話をしておきたいしね、と片目をつむってみせると、「はいはい。ただいま」と良季に有無を言わせず徐の部屋へと入っていった。
扉が閉まったところで。
「……そなたらの枢密副史は相変わらずだな」
袖で口元を隠し、良季の耳元で斎がささやいた。
これに良季が重々しくうなずく。
「臣下というものは難しいですね。尊ぶべき方を拝せる場合はいいのですが、その逆は……」
「うむ。これは官吏……いや、働く者にとっての永遠の課題なのだろうな。とはいえこれも一つの経験と思えばどうかな?」
「経験、ですか」
思いがけない発想に良季が目をしばたいた。
「そうだ。長い人生において理想的な人物の元で働ける機会の方が希少なのに、こういったことがあるたびにいら立っても仕方ないだろうよ」
「ですが」
「まあ聞きなさい。そなたの人生はそなたのものだ。しかし他人に干渉されるのもまた人生の理ではないかな? であればどのような他人と接しようと、そなたはそなたらしく、心地よい時を過ごせるように工夫せねばいかんぞ」
「工夫……ですか」
「失敗してもいいのだよ。徐副史相手にうまくいかなければ、その経験は次に生かせばいいのだ。新たな上司に対してもそうだし、徐副史の次の部下に対しての助言にもなろう。水と油の関係だからと、最低限の関わり合いで済ませたいのもよく分かる。だが良季は枢密院事だ。円滑な関係がどれだけ仕事をやりやすくするか、それくらいのことは分かっているはずだし、その知恵でもって工夫することもできると思うがな」
言いたいことを言った斎は良季の肩にぽんと手を載せ、茶目っ気のある瞳で良季をまじまじと見つめた。
「良季なら分かるな?」
再度念押しされ、良季はうなずいた。うなずく他なかったのである。
*
斎がいなくなり、良季は一人で考えた。
(……確かに斎殿の言う通りだ)
徐のような男を相手に年中不愉快を腹に抱えているのも、考えてみれば馬鹿らしい。本来であればやりがいに満ちた仕事も、有意義に過ごせるはずの私的な時間も、脳裏に徐のことがかすめるたびに穢された気分になってしまうのだが、それがこれからも続くと思うと正直ぞっとする。
侑生が枢密副史であった頃のように――そんな贅沢は言わない。
少なくとも心に平穏を取り戻したい。誠意をもって仕事に取り組みたい。
一度きりの人生、無駄にしていい時などない。
実の母を殺すという大願すらまだ成就できていないというのに。
(だが声を聞くだけで胸やけがするような相手、どうすればいいのだろうか……?)
うまくおだてて手のひらで転がせれば、とっくにそうしていた――。
と、今更ながら気がついた。
零央へ出向くことと開陽に残り徐の下で働くこと――この二つを天秤にかけて、自分も隼平も前者の方が難儀であると考えていたことに。それこそがお互い自分が視察に行くと譲らなかった背景だ。
(と、いうことは)
良季も隼平も、徐のことを心底嫌っているわけではないのかもしれない。
いや、人間としても上司としても徐のことを嫌悪しているが、徐の下で一人働くことになってもどうとでもふるまえると思っている自分がいるのも確かで――。
(ならばやりようによっては良い関わり方を見出せるか……?)
隼平が零央で面倒事を処理してきてくれるのだから、それくらいは自分が請け負おう。
そう決めた途端、隼平に対して抱いていた心苦しさがようやく薄らいだのだった。
*
その夜、宮城から出立した一台の馬車には高貴な男が二人乗車していた。
一人は枢密使である楊玄徳、もう一人は吏部侍郎である李侑生だ。
親子ほどに年の違う二人は、玄徳の一人娘である珪己と侑生が婚約していることから、実際に親子の関係となることが決まっている。ただ、当の珪己がその婚約の事実を知らず、かつ行方不明となってはや一年半が経過しているが。
しかし二人の関係はもはやたとえようのないほどに深く温かなものになっていた。それは二人が上司と部下の関係であった頃からで、珪己の存在があろうともなかろうとも変わることはないのだった。
この夏、玄徳の屋敷は不幸にも全焼した。その際、ひとまずということで玄徳は侑生の住まいに身を寄せたのだが、そのまま今も李家に腰をおろしていた。理由はいくつもある。あの芯国の王子を火事の現場で見かけた気がすると言った玄徳の証言に「我が家ならば万全の警護ができますから」と侑生が滞在を強く勧めてきたのもあるし、過度に心配する侑生を慮るがゆえに敢えて李家に残ることにした玄徳の配慮でもあった。
そして今もこの馬車が向かう先は李家だ。
その馬車の中で侑生は隼平の零央行きを知った。
「……そうですか。隼平が零央に」
この侑生の思わし気な表情に玄徳はおやと思った。単なる世間話のつもりで口に載せただけのつもりだったのだ。
「何か気になることがあるのかい?」
「あ、いえ。そのようなことは。……ただ」
「ただ?」
「零央はあの二人の故郷に近いので……ちょっと」
口に出したことでより悩ましい気持ちになったのだろう、侑生の眉がはっきりとひそめられた。
対する玄徳は柔らかな笑みを浮かべている。
「侑生は優しいねえ」
「あ、いえ。その」
少年のように照れる侑生を玄徳は親愛を込めたまなざしで見つめている。
「だけど大丈夫。訪問先は零央だけだし、州城と廂軍の屯所、この二か所にしか寄らないはずだから」
「そうですか」
侑生が小さくため息をついた。
「それを聞いて安心しました。あの二人の場合、故郷には痛ましいものしかありませんから」
二人にとっての故郷――それは侑生の言葉通りの場所だった。隼平にとっては命の恩人を含む同居人すべてを惨殺された悲しみの場所であり、良季にとってはその恐ろしき殺戮を命じた母が暮らす憎悪に満ちた場所だから。
湖国創生よりはや何十年と時がたち、現在貴青十一年、そろそろ十二年となるが――首都・開陽が平和そのものであるのに対し、地方においては犯罪行為が昔も今も絶えない。
二人の故郷で起こった事件もまさにその一例だ。部下となった二人から、各々、侑生はその事実を打ち明けられている。だがすでに時が経ちすぎていて、立件することも良季の母を捕縛することもかなわない案件だった。いや、隼平はともかく、良季はそのような結末は望んでいない。ただ「いつか自分の手で母を裁きます」と断言しこの話を締めくくっただけだ。
ちなみに隼平は良季の母がこの件に絡んでいることを今も知らない。単に不幸な出来事が起こってしまったものと捉えているだけだ。良季が隼平に対して打ち明けられずにいる理由は――察してしかるべきだろう。
ふと、侑生は思った。
自分は愛する少女に自らの罪をつまびらかにすることが本当にできるのだろうか、と。罪とはもちろん楊武襲撃事変のことだ。諸事情あれど今では婚約者となった自分が、まさか九年前のあの事変に関係しているとは、あの少女は露とも想像していないだろうに。
(ああでも。それ以前に、婚約したこともまだ知らないのだから……)
珪己が開陽に戻ったら、まずは降ってわいたような婚約の話にひどく驚くのだろう。「どうしてですか?」と。だが最後には「しょうがないですね」と朗らかな表情で納得するのだろう。そう侑生は思った。後宮に勤めに入ったあの頃のように。
空想の珪己の笑顔につられるかのように、侑生の顔も自然とほころぶ。
しかし――すんなりと受け入れてほしいけれど強く抵抗してほしい自分もいる。
(そんなふうに簡単に愛してほしいわけではないんだろうな……)
この愛は自分にとって唯一無二のものであり、この身が背負う罪は愛と表裏一体なのだから。
「どうしたんだい?」
ころころと表情を変える侑生に玄徳が不思議そうに訊ねた。これに「いいえ。なんでもありません」と侑生は首を振ってみせた。なんて贅沢な空想をしているんだと内心苦笑しながら。
(……そうだ。すべては珪己殿と再会してからだ)
だがその日がいつ訪れるのか――まだ誰も知らない。
*
【おまけ】
今回、玄徳が李家に住んでいることを書きましたが、これはSide storyの第一章の最終話に記載されていたことと同じで、このような未来になることは以前から決めていました。
Side storyを未読の方はぜひそちらも読んでみてください。
~以下、引用~
武殿を出ると、重たげな雪が吹く中、侑生が一人たたずんでいた。
玄徳の気配に顔を上げこちらを振り向いた侑生は、寒さにやや青白くなった顔で、見るからに幸せそうにほほ笑んだ。
だから玄徳も同じように笑ってみせ、そしてゆっくりと近づいていった。
「――さあ、帰ろうか」
~引用終わり~




