5.6 (前半最終話)
仁威と空斗が培南に行くことを皆に打ち明けたのは、なんと出発する二日前のこと、同居人全員が集まる唯一の時間、朝食の場でのことだった。
「……マジで?」
あっけにとられた面々の中で最初に心配をあらわにしたのは空也だった。
「兄貴、本当に行くのか? 大丈夫なのか?」
「大丈夫だ」
晃飛はむっつりと押し黙っている。こんな時こそいの一番に声を上げる男なのに、やけに静かだ。その表情からも何を考えているのか掴むことができない。
同じように無口なのは珪己だ。打ち明けるべきことを打ち明けず、こんな大勢の前で突然暴露した仁威のことを信じられない思いで見つめている。そう、昨夜も肩を寄せ合って眠ったというのに、仁威はそのようなことを何一つ珪己に言わなかったのである。それどころかいたって普通だった。
「でももしあの王子がいたらどうするんだよ……!」
麦粒を盛大に口から飛ばしながら憤る空也のことを、兄である空斗が懸命になだめている。
「空也、落ち着け。俺は本当に大丈夫だから」
「大丈夫だって? あいつ、すげえ強いじゃないか。もう忘れたのか?」
「安心しろ」
兄弟の言い争いに割って入ったのは仁威だ。
「お前の兄貴には危険なことはさせない。あの災厄の根源ともいうべき王子は俺が必ず倒す。必要ならば殺す。俺の手で、確実にな」
その表情には気概のようなものは一切感じられない。
「そのために俺が共に行くんだ」
それができるのは自分しかいない――その事実を事実として述べる姿はどこか他人事のようでもある。
これに空也がかみついた。
「確かに仁威さんなら勝てると思うよ? でもそんなことをしたら仁威さんが捕まるじゃないか! 王子殺しなんて死刑になるに決まってるよ!」
物騒な言葉は刃となって朝特有の清浄な空気を切り裂いた。
しん、と場が静まり返った。
「……二人には今まで黙っていたことがある」
ややあらたまり、仁威が氾兄弟を交互に見た。
「な、なんだよ」
「察しの通り俺は元武官だ。近衛軍で第一隊の隊長職に就いていた」
「な……!」
心から驚いたのはまたも空也だ。
空斗もその詳細な事実までは知らなかったが、弟のように声を上げることも表情を変えることもしなかった。
しかし、都で勤めていた彼らにとって仁威の有していた肩書きは神に等しく、この暴露一つで二人の兄弟の口が閉ざされた。
四人それぞれが言葉を失う中、仁威ただ一人が淡々と語っていく。
「俺が隊長職を辞したのは、実はお前達二人と同じ理由なんだ」
「それって……!」
これでもかと目を見開いた空也に、仁威は視線を合わせると小さくうなずいた。
「ああ。俺もあの王子の一件に関与しているし拳を交えている。そこで、だ。卑怯だが一つ策がある。あの王子は空也を斬った張本人なんだよな?」
「あ、ああ……」
油の切れた機械のように空也がぎこちなくうなずいた。
「よし。なら、やはり俺は故意に隊長職を辞したことにしようと思う。あのような危険な男を野放しにするわけにはいかないと、正義感ゆえに職を辞したと」
「……なるほどね」
ずっと黙っていた晃飛がようやく言葉を発した。
「仁兄ってそういうことをしそうな人間だもんね。それで、偶然もしくは入念な追跡によって王子を見つけて捕えようとしたけれど不幸にも殺してしまった……最悪そういうことにしたいんだね」
「ああ」
少しの間を置き、仁威が感慨深くつぶやいた。
「あの男が生きている限り平穏はない……そんな気がするんだ」
それはまるで今こそが夢であるような物言いだった。この家で暮らす日々こそが夢で、外にこそ現実があるのだと――そんな風に聞こえた。だから誰もが仁威のつぶやきに胸をつかれた。ただ一人、晃飛以外は。
「そんな気がする……って」
晃飛がやや呆れた顔になった。
「そんなことで人を殺していいの?」
「おい! それは言い過ぎだろう!」
血相を変えて空也が立ち上がった。
「梁さんはあの男を実際に見たことがないから知らないんだ! あいつはほんと普通じゃないんだ! 狂ってるんだ!」
これに空斗も真剣な面持ちで同調した。
「俺もあの男には異常性を感じた。この国の言葉は通じるが話も常識も通じない、そういう人間だった」
「だからって殺していいの?」
ずばりと晃飛が言う。
「最初から殺すつもりでは当たらない」言葉につまった空斗から引き継ぐように仁威が応じた。「最悪そうすると言っているだけだ」
「最悪って? それは誰がどういう基準で判断するの?」
「俺がそうすべきだと判断した時だ」
「殺人っていうのはそんなふうに主観で実行していいことじゃないよね? 禁軍の武官だったんだからそのくらいのことは知ってるよね?」
「だから……っ! 梁さん!」空也が気色ばんだ。「あんたその言い方はないんじゃないかっ?」
早朝から始まった会話は異様な方向に進みつつある。だが活発な議論が繰り広げられるこの場において珪己だけがいまだ沈黙していた。……混乱しているのだ。まさか仁威がそのような覚悟と決意を有しているとは予想もしていなかったし、イムルに関する話題でここまで全員が熱くなるとは思ってもいなかったのである。
だがその実、この話題に深く言及することを避けてきたのは自分かもしれない――そう珪己は思った。今手中にある泡沫のような日々、夫婦としての暮らしに夢中になりすぎていただけではないか、と。
(なぜこの生活を変えようと思わなくなっていたのだろう)
(こんな生活、一生続けられるわけがないのに……)
毎日、愛する人のそばにいて。かわいい赤ん坊を腕に抱いて。気の置けない人達と暮らして。たくさんしゃべって。笑って。剣を握って。稽古をつけてもらって。そしてまた笑って。愛しい人の腕の中で眠りについて。そんな夢みたいな毎日が永遠に続くと思っていた自分が、珪己は今更ながらおかしく思えてきた。
そしてこうも思った。やはり仁威は自分よりも大人だ、と。ちゃんと現実が見えているし、夢と希望だけで幸福な未来が約束されないことも知っている、嫌になるくらいに大人な人だ、と。
「相手は一国の王子なんだよ? 仁兄の屁理屈めいた言い訳が通用するとかしないとか、そういう次元の話じゃないでしょ。あっちの国が仁兄に厳罰を求めてきたら、この国は仁兄を見捨てるよ。それ以外の選択肢はないんだから。違う?」
物思う珪己をよそに応酬は激しさを帯びてきている。
「その可能性は否定できない。だが」
「ああもう! 否定できないなんていう曖昧な話で人生を懸けたら駄目だって言ってるの! どうしてわかってくれないんだよ?」
とうとう晃飛が癇癪めいた怒りをあらわにし出した。
「もしも仁兄に何かあったら残された妹はどうするんだよ?」
「それは……」
仁威の視線が隣に座る珪己に移った。
この議題が提示されて以来、ようやく夫婦の目が合った。
「珪己。言うのが遅くなってすまなかった」
仁威の表情はやはり落ち着いている。
「廂軍の許可が下りたのがつい昨日のことでな。それまで実行できるかどうかすら怪しかったから言えずにいた。……いたずらに心配させたくもなかったから黙っていたんだ。黙っているのもよくないことだと思ってはいたのだが……。すまない」
そう言って頭を小さく下げた。
「だがやると決まれば出立は早めたい」
さらに何か言いかけた仁威に、珪己がようやく言葉を発した。
「私は大丈夫です。行ってください」
(だって……見つめ合った瞬間に分かったから)
この人は私のために旅立つのだ、と。私との未来を切りひらくために旅立つのだ、と。
そしてこの人は私のことを痛いくらいに信用している。
今、この事実を飲み込み耐える力があるのだと、その判断力と冷静さがあるのだと信じてくれている。
(だったら……期待にこたえたい)
私はこの人の期待にこたえたい。
愛しているから。
とてもとても――愛しているから。
寂しさはきっとひとときのことだ。これを乗り越えれば二人を引き裂こうとするものは二度と現れないはずだ――きっと。
見つめ合う珪己がほほ笑んだことで仁威も表情を綻ばせた。言葉を重ねずとも心が通じ合ったことで、温かな感情が緩やかに伝ぱし、二人は一層笑みを深めた。
だがその空気を一蹴したのは――やはり晃飛だった。
「……何を馬鹿なことを言ってるんだよ!」
机を強く叩き、その勢いのまま食べかけの丼を押しのけて珪己に迫る。
「仁兄が無事で済む確率は限りなく低いじゃないか! これは剣や拳の力量で決まる勝負じゃないんだ! なのにどうして止めないんだよ! 君じゃなきゃ……っ!」
感極まった晃飛の両目から涙が零れ落ちた。
「君じゃなきゃ仁兄を止められないのに……っ!」
涙で揺れる晃飛の瞳が珪己を責めるように見据えている。いや、実際には責めてなどいない。懇願しているのだ。
「ねえ、仁兄を止めてよ……!」
だが珪己は無言で首を横に振っただけだった。
「ねえ……!」
なおも言い募る晃飛のことを珪己が悲し気に見上げた。これに晃飛はぐっと息を飲んだ。意志を覆す気はないと、その瞳は確かに告げていた。
「もう勝手にしろ……!」
言い捨てるや、晃飛は荒々しくこの場から去っていた。
「……」
もっとも直情的になっていた男がいなくなったことで室内に重苦しい沈黙が生じた。本当は誰もが分かっているのだ。晃飛の言うことは正しい、と。
今回もっとも危険な役割を担うのは仁威だ。同じく培南に向かう空斗のことも心配だが、仁威は我が身を顧みず空斗を護るだろうし、そうする技量と正義感を有している。そう、最悪の事象を想定するならばもっとも心配なのは仁威なのである。
「珪己」
兄弟二人が息をひそめる中、仁威が愛する者の名を呼んだ。
これに珪己があらためてほほ笑んでみせた。
「帰ってくるのを待ってますから」
それは心からの笑みだった。
「信じてます。私達の未来を護ろうとしてくれている仁威さんは絶対に負けないって、そう信じてますから」
言葉の端々に込められたゆるぎない覚悟のほどは誰が見ても一目瞭然、疑いようのないものだった。その心根の強さに兄弟は揃って息を飲み、仁威は一瞬虚を突かれたもののその顔にゆっくりと笑みを広げていった。
*
「まだふてくされてるんですか」
そう言って晃飛の隣に座ったのは珪己だ。
これに縁側でぼんやりと曇天を眺めていた晃飛がしかめ面になった。ふん、と子供のように鼻息荒くそっぽを向く。
珪己は苦笑いを浮かべ、晃飛と同じように空を仰いだ。
「雪、そろそろ降りそうですね」
この五日ほど灰白色の雲が空を完全に覆っている。きっとあの雲はたっぷりとした雪を含んでいることだろう。ぐずぐずと蓄積された水分は放出する機会を今か今かとうかがっているかのようだ。
「無事培南に着くといいですね。仁威さんと空斗さん」
二人は先程家を出た。夕暮れ前を出立時間に選んだのはできる限り人目を忍んで行動したいからだ。まずは零南という街に入ることになっている。そこから先は培北、培央を経由して目的地の培南に到着だ。
だが二人が培南に到着するよりも先に雪は本格的に降り出すだろう。珪己の願いもむなしく。空はそういう様相をしていた。
「……雪なんて降らなければいいのに」
ぽつりと珪己がつぶやいた。
「冷たいし寒いし」
馬に乗る二人の後ろ姿は、今ではもう昔のことのように遠く感じる。
「いつだって春や夏や秋だったらいいんですよね。そしたら困らないのに。でも冬はやって来るし雪は降るんですよね。……晃飛さん?」
突然肩を抱かれ、思わず晃飛を見る。だが晃飛は硬い頬を珪己に向けていた。まっすぐに庭へと視線をやるその横顔に――珪己はなんだか泣きそうになった。
「泣くなよ」
どうして私を見ていないのに私のことが分かるんだろう、と珪己は思った。
「……少し肩、借りてもいいですか」
「いいけど」
「……ありがとう、ございます」
ぽてんと晃飛の肩に頭を載せたら、押さえこんでいたはずの不安が珪己の胸の内でそっと鎌首を持ち上げた。
「……絶対に大丈夫、ですよね」
「うん」
「……絶対無事に帰ってきますよね」
「うん」
怒ったような声音で返され、珪己は自然と笑っていた。涙を流しながらも笑っていた。
信じることは難しい。信じたいし、信じているけれど――それでも信じきることは難しい。何が起こるか、未来のすべてを予測することなんて不可能だからだ。
それでも私は『そうする』と決めた。
だからあの人の無事を、帰りをここで待っている――。
寄り添う二人の前にふわりと雪が舞い落ちた。
それを合図にその日から本格的な冬模様に零央の街は染まっていった。
次話からは本編の後半です。




