5.5 行かねばならない
空斗は明るい時分から密接する夫婦に一瞬たじろいだものの、こほんと咳をして表情を無に整えた。
「こんなところで何をしているんだ」
この時代、たとえ夫婦であろうと人前で密接することはやや不作法とも言え、それゆえの発言である。
諌められ、珪己がわざとらしくぴんと立ち上がった。
「あ! 私、赤ちゃんの様子を見に行ってきますね」
ぱたぱたと立ち去る珪己の後ろ姿を空斗はなんとはなしに目で追った。どうしてあの娘は夫がいるのにああも子供じみているのだろうと思いながら。夫である仁威に比べてあの娘は様々な面でだいぶ幼い。精神面しかり、社会性しかり、容貌しかり。出会った当初に比べればだいぶましになってはいるが……。それとも上位階級に属する女は誰もが純な部分を残したまま母親になるものなのだろうか。だからあの娘は子を産んでも武の道を諦めようとしないのだろうか……。
「ところでこんなに早い時分にどうした?」
「あ? ああ。実は少し変わった情報を入手してきたんだ」
意識をこちらに戻した空斗が仁威の隣に胡坐をかいて座った。そして白い息を吐きながら告げた。
「十番隊の新隊長がとうとう決まったそうだ」
「なに?」
もちろんその情報は仁威の興味を強くひいた。
毛の急死以来、十番隊は隊長不在であった。それは約一年も異常事態が続いていたことを意味していた。普通は一か月が限度だ。理由はもちろん、毛の代わりを務められる人材がいなかったからだ。
元罪人の寄せ集めである十番隊を率いることなど生半可な覚悟ではできない。彼らを統率し従えるほどの腕っぷしに根性、気迫までもが要求されるときたら立候補者は皆無だったのである。
しかも関係者各位もこの地位に就くにふさわしい知人を推薦することをためらった。その結果がこの異常事態だったのだ。
「年明けに近衛軍から派遣されてくるそうだ」
「ほお。近衛軍からということはそいつもいわくつきか」
でなければ地方の屯所、しかも十番隊の隊長に就く話など、本人はもとより上司が一蹴する。
「ああ。元々は宮城勤めだったらしいが、何かしでかしたらしくて北域の要塞勤めになっていたような人物らしい」
らしい、らしいの連続だが、どれも伝聞の域を出ないのだから仕方がない。これでも空斗にしては頑張って情報収集した方なのだ。
「しかもその人物は第一隊所属だったらしい。一体どんな奴なんだろうな。毛のような剛腕な悪人でなければいいんだが」
表情を変えないよう努めているが、その実、この空斗の発言は仁威をひどく狼狽させた。
(第一隊、だと……?)
近衛軍といってもさすがに他の隊のことかと思っていたのに、まさかの第一隊である。
(であれば俺の部下であった誰かがこの街に来るというのか?)
(しかもあの十番隊の隊長になるだと?)
こうなると考えられるのは――左遷だ。
「報復的人事、らしいぞ」
話を続ける空斗がそれとなく様子を気にかけ始めていることにも仁威は気づいていない。
「誰か心当たりがあるのか?」
これに仁威は緩く首を振った。
「……いや」
他に何を言えようか。
悪に心を売り渡すような者は俺の部下であった者達には一人としていなかった。いや、そのはずだった。だが――。
と、額に手を当てた空斗が深呼吸のようなため息のような、大げさな吐息をついた。
「……ずっと前から言いたかったんだが。あなたが禁軍、しかも三軍のいずれかに所属する武官であったことくらいは察しがついているからな」
三軍とは、近衛軍、騎馬軍、歩兵軍のことだ。首都・開陽にて宮城勤めをする三軍は、全武官にとっての花形部署である。もちろん、三軍所属の武官は皆武芸の腕に自信のある者ばかりだ。
「それに珪亥がどこぞのお嬢様なことも分かっているぞ」
仁威は何も言わなかった。ただ、その様子には頑なに口をつぐんでいるだけではなさそうな、何かいわくめいたものが感じられた。だから空斗はそれ以上追求することをやめた。その証として、もう一度大きく息を吐いてみせた。
「耳に入れたい情報はまだある」
今日はせわしなく情報が入ってきた稀有な一日だった。
気まぐれに降り出した雪はいつの間にかやんでいる。
「芯国人の我が国への入国者数の総計が千人を超えたそうだ」
この夏から芯国人の入国が解禁されたことは仁威も当に知っていた。ただ、その割には千人という数字は小さい。その理由は――。
「今、芯国人は基本的に開陽から出ることはかなわない。そのことは覚えているだろう?」
その決定が下されたのは入出国が解禁される半月前、ほぼ直前でのことだったらしい。寝耳に水、しかも湖国側からの一方的な通告に芯国側が不信感と不快感を覚えたのは想像に難くない。他国に対してはそのような規制は一切ないのになぜ我が国だけが、と。
これに外交担当である礼部はこう答えたという。貴国民の安全を保障するためである、と。湖国は広大であるがゆえに治安面においては憂慮すべき点が多々あるが、開陽ならば諸事について取り計らうことができる、と。それは商売においても正当かつ妥当な取引を国が保障することを示唆したもので、未開の地に入ろうとする勇気まではない多数の商売人にとっても、彼らを庇護すべき芯国側にとっても、うまみの方が多い提案であった。
それゆえ芯国側も自国民のみに対するこの規制を受け入れたのだが――。
「しかし先日、培南で芯国人らしき人間を見かけたという情報があったそうだ」
培南とはここ西門州の南に位置する、零央に次いで大きな街だ。培南を経由してさらに南、砂南州へ入ると湖国の第二都市である台雲へと近づくため物価がつり上がる傾向があるのだが、培南ならば比較的安い宿もあるし温泉もあるしで、旅行者の需要がそれなりにある街だった。
「男が三人、誰もがいわゆる典型的な芯国人だったそうだ。背は高く、肌は日に焼けたような濃さで、目鼻がはっきりとしていたらしい。ただ、年は二十代から五十代と、そこは曖昧なんだが」
ここで空斗がいったん言葉を区切り、言った。
「俺一人で培南に行ってみようと考えている。その芯国人があの王子に関係する者達かどうか調べておく必要があるだろう?」
これにずっと黙っていた仁威が異を唱えた。
「いや。あの街を一人で探索するのは至難だろう。それに、だ。もしもあの王子と遭遇するようなことがあったらどうするんだ?」
芯国人が武に長けているというのは武官の間では周知の事実だが、その実力のほどは仁威も空斗も我が身でもって体験済である。
だが空斗は自信ありげな様子を崩さなかった。
「実はすでに上に相談済みで、正式な調査として認めてもらえそうなんだ」
「そうなのか?」
「ああ。いるべきではない異人がうろついていること自体、治安上よくないだろう? 許可がおりれば経費はおちるし小都の人間も使えるから、俺一人でもそれなりに早く結果は出せると思うんだ」
小都とは開陽における都の地方版組織の名称だ。どの州においてもある程度の規模の街には治安を維持する小都が配置されている。また、小都はあくまで廂軍の下位組織という位置づけとなっている。それは禁軍内における都の立ち位置とまったく同じだ。
ただ、廂軍に配される十の隊が禁軍に比べて軟弱かつ怠惰なように、そのさらに下に位置する小都にも過大な期待はできない。だから仁威が胡乱気な表情になったのも仕方ないだろう。
だがこれにも空斗は「俺に任せてくれ」と繰り返した。
ややあって仁威が顎に手をやり思案し始めた。
(……本当に空斗だけで行かせてもいいものだろうか)
彼の相棒として妥当なのはやはり弟の空也だ。阿吽の呼吸というか、二人のお互いへの信頼度はこういう任務と非常に相性がいい。しかし一つ大きな問題があった。それは空也が武官を辞していることだ。一般人にはこのような任務に関わることはゆるされていない。
しかし、空斗には独りで芯国の武人と闘えるほどの技量はない。
いや、それ以前に兄弟二人して培南に入るのは得策ではないだろう。二人でいれば芯国の王子の目を引いてしまう可能性がぐんと上がってしまうからだ。兄弟ともに王子とはすでに面識があるし、剣を交えてもいる。
しかし晃飛に空斗の同伴を頼めないことも分かっている。晃飛の痛めた左目が治るどころか悪化していることを仁威は察していた。将来を慮って武芸の指導者としての技術が身につくよう心砕いてはいるが……晃飛自身には以前のように闘う技量はない。あの芯国の王子と闘って勝てる見込みは五分もないだろう。
であれば――残された選択肢は一つしかない。
「俺が共に行こう」
それは空斗にとって想定外の提案だった。
「何を言ってるんだ。あなたはここに留まるべきだ」
「いや。相手の顔をよく知っていて、かつ勝てる俺が行くべきだ」
「いいや。あなたはここで家族を護るべきだ。俺は一人でも問題ない」
「ならば言い方を変えよう。あいつらを護るためにこそ俺は行かなくてはならない」
「攻撃こそが最大の防御とでも言いたいのか?」
「そういうことだ」
それに――培南で見かけたという芯国人があの王子やその一味であるならば、最悪、自分を餌にして彼らを零央から引き離すくらいはできるだろう。その期間が長ければ長いほど、珪己と赤子は平穏に暮らせるわけで……。
仁威の考えは言わずとも空斗には手に取るように分かった。仁威がどれほど自己犠牲の精神が強いか、己を軽んじる人間であるか――そしてどれほどあの母子を愛おしんでいるかを知っているがゆえに。
「あなたならそんなことにはならないと思うが……だがそんなことを珪亥が望むわけがないだろう?」
「そのような着地点を目指して行動するつもりはさらさらないよ」
最悪の事態はあくまで想定の範疇に収めるつもりだ。培南で見かけたという異人はあの王子とは無関係である可能性もある。いや、その可能性の方が高いだろう。
しかし自分が行く価値はあるはずだと仁威は確信していた。いつまでもこの家に引きこもっているわけにはいかないことも、誰に言われるでもなく理解している。
それに――。
「その異人が王子と無関係だとしても、何かしらの情報を引き出せる可能性があるならば、やはり俺が行くべきだ」
今、仁威の直感が告げていた。
培南に王子に繋がる何かが必ずある――と。
百戦錬磨の武芸者であるからこそ、第六感とも言うべき直感を理論や経験以下のものと軽んじたりはできないのである。
背筋がぞわりとする懐かしい感覚も、頭の片隅で鳴り出した警報めいた音も、ただの妄想と切り捨てることなどできやしない。そういう意味では仁威は自分自身をよく理解しており、かつ信じていた。
「それはそうだが」
渋る空斗に仁威が畳み掛けた。
「空斗もその任務には俺がいた方が確実だとは思わないか?」
「……確かに」
確かに――武力込みでの異人との交渉事など空斗にはやりきる自信はなかった。
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