5.4 甘やかな午後
「なんだか難しい顔をしていますね」
「……あ? ああ」
縁側でぼんやりと考え事をしていた仁威は、雪が降りだしたことにも珪己が近づいてきた気配にも気づいていなかった。
「……まずいな」
無意識に口元に当てた手に気づき、こういうところもよくないなと思う。ふと手のひらに雪片を受けとめてみたところ、ひんやりとしたそれはしゅうと溶けて生ぬるい水へと変わった。
「何がですか?」
無邪気な追求に仁威は濡れた手をこすりながら正直に答えた。
「この生活で感覚が鈍くなってきたのかもしれないと思ってな」
「何言ってるんですか。ここは家なんですよ? 家ではくつろぐものじゃないですか」
「うん……それはそうなんだがな」
稽古以外の場で最後に闘ってからそろそろ一年がたとうとしている。そのことにあらためて思い至り、仁威は半ば夢心地な想いを抱いた。
十六歳で武官となって以来、これほどまでに血が飛び散る場や骨肉を折る感触から離れたことはない。それはきっと幸せなことなのだろう――普通の人間にとっては。だがその事実の前に心もとなさを覚えてしまう自分がいる。闘い続けることが生きる意味ではない、それはとうに分かっているというのにだ。
(それなりに極めたものを捨てることは容易ではないのかもしれないな)
だが自分はあれもこれもと欲しがることのできる立派な人間ではないと仁威は思っている。ならばかけがえのない伴侶を得た時点でそれ以外のものを潔く諦めるべきだろう。とはいえ、以前よりも愚鈍になりつつある自分を情けないと思ってしまうのも事実で……。
確かにここは戦場ではない。珪己の言う通りだ。だがこの九年で染みついた性分はそれを簡単にはゆるしてくれない。
(……俺もまだまだ未熟者だな)
それもまた人である所以なのかもしれないが。
だがすぐに思い直した。これは平穏の中でなければ感じ取れない感覚ではないか、と。であれば今こうして縁側に座る自分は一つの修行を行っているようなものではないか、と。
(……少しばかり自分に都合のいい解釈かもしれないな)
口元に自嘲気味な笑みが浮かぶ。
と、仁威の視線が自然と珪己の身の回りを探った。
「子はどうした?」
これに珪己があきれ顔になった。
「今は眠っています。というか、この時間は午睡って決まっているじゃないですか」
「あ、ああ。そうか。そうだな」
平穏は時として忘れやすくさせるらしい。それとも長年張り詰めた日々を送っていた反動ゆえの忘却だろうか。第一隊の隊長を拝してからは特に多忙で、一時たりとて気が休まることはなかったから……。
「ああもう」
珪己がむくれ顔で腰に手を当てた。
「また何か一人で色々考えてません?」
「……すまない」
「で、何を考えていたんですか?」
これに仁威は無言で手を差し伸べた。小首をかしげた珪己だったが、仁威が無言でうながすとふわりと笑い、その手に自分の手を重ねた。しょっちゅう硬い木刀を握っているから、珪己の手のひらはすっかり固さを取り戻している。だがその武骨な感触に仁威は愛しさと尊さを覚えるのだ。
手を緩く引き、珪己を膝の上に座らせる。そして戸惑う珪己を背後から抱きしめた。
「わわ。どうしたんですか」
答えず、その女性らしい華奢な肩に自分の顎を乗せる。
いい体だ、と思う。体のどの部分に触れてもほどよい筋肉がついている。女性らしいが、締まるところはきちんと締まっている。こういう体こそ、武の道を究めんとする女に最適なのだろう。
「もう。本当にどうしたんですか?」
ややくすぐったそうに身をよじる珪己のことを仁威はあらためて抱きしめ直した。
「いや……俺は幸せ者だと思ってな」
こうやって愛しい者の温もりを感じていられること自体、非常に幸せなことだと思う。そして一度でも経験すれば二度と失いたくないと思う強い吸引力には時折眩暈すら覚えていた。
もともと無欲であったが、金も名誉も、美味い飯も酒も、本気でどうでもよくなっている。どれもほどほどにあればいいのだ。いや、生きていくのに十分な量があれば事足りる。愛する者をこの腕に抱ける幸福は何物にも代えがたい尊き宝玉だ。
人がこの感情に愛と名付け後生大事にしたがる理由――それが今でははっきりと分かる。
名付けることで価値を認め、誇り、安堵したくなるのだ。
「紫苑寺にいた女僧がな」
「え?」
「言ってたんだ。愛とは人が持ち得る究極の力だと」
「究極の……力?」
そんな風に考えたことのない珪己にはぴんときていない。
「ああ。そしてこうも言っていた。愛することに理由はないのだと。お前はどう思う?」
「私、ですか?」
何の脈絡もなく答え難い問いかけをされ、珪己が首を横に傾けた。あらわになったその首筋に仁威がそっと唇を寄せる。
「どう思う?」
再度問いかければ、腕の中で珪己が居心地悪そうに震えた。甘い唇の感触を首筋に受けつつも、まだ昼間なのだから……と、珪己の中の常識が抵抗しているのだ。しかしこの行為自体が心地いいことを知っているせいで耳朶がほんのりと赤く染まってきた。
「正直に言えば……最初はあなたのことが苦手でした」
珪己の答えは仁威の予想通りのものだった。「だっていきなり剣で闘えなんて言うし、いつも怖い顔をしていたし」とぼそぼそと付け加える珪己に先を促す。
「で?」
もっと聞きたい。
お前の口から俺についてもっと聞きたい。
聞かせてくれ――お前は俺のことをどう思っていたんだ?
「ええー……」
困ったように振り向いた珪己だったが、目が合った瞬間にあっと驚いた顔になった。ようやく仁威の質問の意図に気がついたのだ。
「もう! ひどいです!」
「はは。すまない」
小さく握った拳で胸を叩いてくる珪己のことを、仁威は笑いながら受け止めた。これまで我が身に振りかかった辛苦のすべてが今に繋がっていると思うと、たとえもう一度人生をやり直せるとしても同じ選択をしてしまうかもしれないな、などと思いながら。罪は罪であると理解していても同じ行為をなぞってしまうかもしれないな、と。それを自分にゆるしてしまうかもしれないな、と。……珪己や玄徳には申し訳なく思うが。
と、柔らかく細められていた仁威の瞳から甘い色が消えた。
その視線が玄関のある方へと向く。その直後に姿を現したのは武官の着衣に身を包んだ空斗だった。




