5.3 善人になるのも悪人になるのも
「どうして初産を終えたばかりの嫁をおいてほっつき歩いてるんだ」
毎晩上客相手に艶めかしい台詞を発するその口で芙蓉が息子を口汚く叱咤したのは、晃飛が金の無心をしに来たとある午後のことだった。
緩い懐に金を入れた袋をしまいかけていた晃飛の手が、母の忠言めいた台詞によって一瞬止まった。
「関係ないだろ」
ぼそっと呟かれたそれに芙蓉が「大ありだよ」と噛みついた。
この頃芙蓉は自身の恋がうまくいっておらず虫の居所がよくなかった。――いや、それともいつか言ってやろうと機会をうかがっていたのかもしれない。
「子供が産まれるまでは二人ともいい感じだったじゃないか。生まれた子がかわいくないのかい?」
「あれをかわいいと思えない人間はいないから」
四六時中そばにいるからか、珪己の子供だからか。血も繋がっていないのに無条件で愛おしく思う気持ちは赤子が産まれた時から今も変わらない。
「それよりもあの件はどうなってる?」
「は? まだ動きはないよ。だけどさ、どうせ買い手がつかなくてもあの家を担保に私から金をせしめる気だろう?」
この街で一番繁盛している妓楼を経営しているだけあって、芙蓉は金に困っていない。毎度の晃飛の無心は庶民にとっては大金と言えるが、芙蓉にしたらそこまでの痛手ではない。だが。
「……まったく。親を金が成る木と勘違いしてないかい」
やれやれといった感じで肩をすくめた芙蓉は、実際は自分の愛人に対する同じ鬱憤を息子にぶつけただけのものだった。だがこれに晃飛がキレた。
「だったらあんたも勘違いするなよ」
肩を怒らせて立ち上がる様は鬼か般若のようだ。親を親とも思わない冷徹な表情でもって見下ろす様にはいつもの晃飛からは信じられないほどの凄みに彩られている。
「子供が無条件に親を慕うなんて、そんなおとぎ話みたいなことはないんだよ」
淡々と語る声の端々に強い怒りの波動が満ちている。
「金で信頼は回復しないし、心から反省すればゆるされるなんてこともない。捨てられた人間は捨てられたというその事実を永遠に忘れやしない。それが親のしたことならばなおさらだ」
「晃飛……」
突然の晃飛の豹変に芙蓉はついていけないでいる。ここまで息子の逆鱗に触れることを自分は言ってしまっただろうか、と。そう、芙蓉は賢いようでいてにぶいところがあった。ことさら自身の恋愛に関しては。そして恋愛中において芙蓉が家族を軽んじてしまうのは昔からのことだった。
これに晃飛は腹の中で返した。そうだよ、と。お前のこれまでの言動、積み重ねてきた罪を自覚しろ、と。恋をしている時の母の考えていることは手に取るようにわかるのだ。……わかってしまうのだ。
「俺に金を貢げることに感謝するんだね」
罪をすすぐ機会を与えられているだけ感謝すべきなのだ。
「違うか?」
芙蓉は一言も言い返さなかった。言い返せるだけの正しさを有していなかったからだ。そんな母に晃飛は蔑んだ視線を向け、足音高らかに部屋を出て行った。
*
「お前はいつになったら芙蓉を受け入れるんだ?」
回想に浸っていた晃飛は仁威の問いにはっとした。
「え?」
晃飛と視線がかち合うと、仁威がやや視線をさ迷わせた。だが結局は生真面目に真っすぐに視線を合わせ、言った。
「難しいことだとは分かっている。だが時は止まらないし、いつ何が起こるかもわかったものではないぞ」
黙って見返す晃飛に「だがな」と仁威が続けた。
「ゆるすゆるさないなんて言っているうちにすべては終わる」
ここでようやく晃飛は仁威の真意を理解した。
自然と口角が皮肉気に持ち上がっていく。
「いいよ別に」
偶然この街に住み着いて、偶然再会しただけの女だ。……その程度の女だ。その程度の女だと思うことに決めている。
「ね。仁兄と妹がいい感じになれたのは二人が特別だからだよね?」
つい毒舌になってしまうのは不愉快な回想のせいか。
「特別?」
「そうだよ。特別。でも俺やあの女は違う。ただの凡人、どこにでもいる人間の一人さ。そういう人間ってのはね、自分が一番かわいくて、狭量で、単純なわけ。俺はあの女のしたことを一生根に持つし、親じゃなかったら一発張り倒してやりたいくらいには嫌いな人種なの。そしてあの女は都合の悪いことには蓋をするのが得意でね。俺のことも今はいろいろ気にしているけど、深い仲の男ができたら途端に興味を失くすから。金も出さなくなるよ。誓ってもいい」
鼻息荒く言いきった晃飛に「それはそうかもしれないな」と仁威が相づちを打った。
「だろう?」
「それでもお前には決めることができるんだぞ。芙蓉を、実の親をどう扱うかを」
「何それ」
晃飛が鼻で笑った。
「善人になるのも悪人になるのも俺次第ってわけ? 俺はただあの女に捨てられただけなのに? 一方的に傷を負わされただけなのに?」
俺はそんな受動的な体験を通して善悪を判断されなくてはいけないのか。あの女に捨てられたことも、あの女の腹から生まれたことも、どれも自分で選んだことではないというのに――。
ぐらぐらと怒りがわき出してくるこの感覚、強い衝動を一体どうやったら抑え込むことができるというんだ?
「そうじゃない」
仁威が首を振った。
「それをするかしないかでお前は楽にも苦しくもなるんだ。だったら楽になる方を選んでみたっていいと俺は思う、それだけだ」
「うん。わかった」
だが言葉づらは同意を示しているものの、それは仁威の意図する理解とは違っていた。
「なら俺はこれからもあの女から金をたかる。俺がそうしたいからそうするよ」
芙蓉に盛大な毒を吐いて以来、晃飛は一度も環屋を訪れていない。だがその決断には仁威と珪己が夫婦となったことを聞かされたことも大いに影響していた。
夫婦二人はこの街で暮らし続ける意志を固めた。だから晃飛は一人画策していた計画を一時中断したのである。
それはつまり、この家を売却し、どこか別の土地に購入した家で皆で隠れ住むというものだ。
そのための金策やら移転先の選定やらで忙しかったのだが……確固たる二人を見れば、それは過干渉になり得ると判断したのである。いくら義兄弟といえども、いまだ不安な気持ちが消え去らなくとも――二人がここに住み続けると決めたならば、その決意を支えること以外に何ができようか。
だから――いいのだ。
しばらくは、いや当分はあの女とは距離を置く。いや、金輪際あの女には近づかないようにしよう。この街に関する情報収集は屯所と環屋、どちらも空斗に任せてしまえばいい。
(もう俺を縛るものは何もない)
(俺の一番の不幸はあの女の胎から生まれてしまったことだ……)
ふいに背筋にひやりとしたものを感じた。
「ああ寒い。もう稽古は終わりにしようよ」
両腕を抱えてこすりながら、晃飛は返事を待たずに仁威に背を向けた。
言いたいことを言ってやった――そう思うのに、喉の奥に骨が詰まったような嫌な感じを晃飛は覚えた。だが気にしないことにする。何も感じていないと思い込む。何かを気にしてばかりいたら、結局は何もできなくなってしまうからだ。だから『気にしない』ことを選択する――それが俺のやり方だ、と。
それでも。
くらりと傾いだ頭をなかなか持ち上げられず、全身に広がった寒気が体の内側にまで染み渡るのを止められなかった。




