5.2 朝、その後
空斗は麺をすすり終えるや家を飛び出していった。
この青年は今も屯所で五番隊の隊員として働いている。実直な仕事ぶりが高い評価を得てのことで、これにより廂軍内で禁軍への印象をあらためる者が増えたとか、なんとか。だが比較対象がよくない。なぜなら廂軍に勤める武官の多くは怠惰で無気力だからだ。さすがに前科者で構成される十番隊ほど腐ってはいないが、ここではゆるゆるとした日々を過ごす者がほとんどなのだ。
逆に空也はまだ時間にかなり余裕があり、食事を終えるや掃除に取り掛かり始めた。まずは天井や棚の埃をはたき、次にほうきを使い、最後に雑巾で板間を拭き――慣れた様子でてきぱきと家中を清めていく。空斗に比べて重い家事を請け負っているが、これくらい不公平でもなんでもないと本人は思っている。
掃除の途中からは珪己も加わることが多い。和気あいあいと掃除を終えると二人で外出し、市で食材を購入したりと平凡かつ平穏な時を過ごすのだ。外出することをあらためて望んだのは珪己であり、それを禁ずる権利は男共にはもはやなかった。
なお、家に残る晃飛には食後に皆が使った食器や鍋を洗う仕事がある。これくらいのことはしないと居候達に対して偉そうにできないからだ。その後は休む間もなく道場へと向かうのも日課となっている。生徒が来るまでに色々とやっておきたいことがあるのだ。
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仁威と珪己が夫婦となったことを晃飛が聞かされた場所は、まさにこの道場だった。
その頃、晃飛はまめに独りで外出をしていた。この日も前日に一泊して昼過ぎに戻ってきたところで、一刻後には始まる稽古の準備をしておこうとその足で道場に入ったら、まるで示し合わせたかのように仁威と珪己が待ち構えていて――。
二人が正座までして向かい合ってきたので何か重大な話があることはぴんときた。
次に、このところ疎遠気味に思えた二人の距離が近いことと、珪己が何やら恥じらいを見せていることから、どんな話をされることになるのかは察しがついた。だから、
「で、昨夜は楽しかったの?」
二人の前に胡坐をかきつつ開口一番に言ってしまったのはお世辞にも褒められた文言ではなかった。
これに仁威が無言で睨んだ。
その隣で珪己は頬を赤らめ、腕に抱く赤子に視線をやるようにうつむいた。
あまりにも分かりやすい態度に、さらに晃飛の口が滑った。
「ふうん。楽しかったんだ。よかったね」
(その後、大きな拳骨をお見舞いされてこの話は終わったんだよな――)
思い出し、ははっと空笑いをしながら晃飛が道場に入ると、そこでは仁威がすでに一人稽古を始めていた。道場が無人の頃を見計らってこうして鍛錬する様は今では見慣れたものとなっている。なので晃飛もいちいち仁威に声を掛けない。邪魔をしたら悪いし、自分にもすべきことはいくつもあるからだ。
ちなみに道場の片隅で赤子が一人遊びをしているのもすでに普通の光景となっている。お座りをするようになってから、この赤子は大人の手を煩わせなくなった。ふくよかな顔に浮かべる笑顔にも、くっきりとした双眸で時折見せる真剣なまなざしにも、大人には見えない世界がかいま見えているかのようだ。
三者三様、黙々と己がすべきことをしていく。
それでも、概ね四半刻もしないうちに仁威の方から晃飛に声を掛けるのが常だった。
「やるか」
これを合図に二人が木刀を手に向かい合うのも、また常のこととなっていた。
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二人の男が稽古を始めてしばらくたつと、帰宅した空也と珪己が道場にやって来る。そしてそれぞれが握り慣れた木刀を手に取るのだった。
珪己が木刀を振るう間、赤子は一人遊びをぴたりとやめる。そのつり上がり気味の瞳で、何が面白いのか、赤子はじっと母の動きを見つめている。
握力の弱い空也と、女でありながらも師匠が強者揃いであった珪己――この二人が闘えば勝率は五分五分といったところだ。双方、立ち合い後は仁威や晃飛によって改善点を指摘される。力を使わずに勝つ業を特に教え込まされている最中だ。それこそが二人にとって重要かつ適した業だからだ。
なお、晃飛がこの二人と木刀を交える時は微妙なさじ加減で手を抜くようにしている。これは晃飛にとって二つの大きな目的がある。一つは指導方法の習得のためであり、もう一つは勝つか負けるかの境界線を見極めるためである。もちろん、打ち合う際は可能な限り仁威に見てもらっている。
仁威は誰とでも剣を交える。だが腕の立つ晃飛と立ち会う時がもっとも激しい動きを見せる。手を変え品を変え、様々な土地に伝わる独自の業をこれでもかと繰り出してくる。そんな仁威に晃飛はいつだって翻弄されてしまう。それでも、片目だけでも距離感を掴めるようにはなってきた。……十番隊にやられた左目の回復は本人は当に諦めている。だが言葉に出したことはない。
稽古後、晃飛に仁威が話しかけた。
「いい感じだ。さらに腕があがってきたな」
これに手巾で汗をぬぐう晃飛の手がぴたりと止まった。
「えっ! 本当?」
「ああ。初心者から中級者を指導するに足る技量は十分に身についたと思うぞ」
「やった! 仁兄に褒められた!」
浮かれ顔の晃飛に「で、最近はどこで何をしているんだ」と仁威が問うた。ちなみに空也と珪己は二人の立ち合いの途中で寒さに耐えかねて道場から出て行ってしまっている。真冬の道場はとにかく寒いのだ。もちろん赤子も連れていかれている。なお、空也はすぐに仕事、もとい修行のために肉麺屋へと向かっている。
「それと芙蓉はどうしている? このところここに訪ねてこないが」
立て続けの質問に晃飛の唇がむっとめくれた。
「どうでもいいだろ」
「……赤子のことや珪己のことを説明できなくて困っているんじゃないか?」
「まったく問題なし。あの女のことは俺に任せといてもらえればいいから」
言いながら、夏の盛りのとある日のことを晃飛は思い出していった。
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