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剣女列伝 放浪篇5 ~離れないで~  作者: アンリ
第五章(前半最終章)
25/66

5.1 そして、冬

本作の前半最終章です。

 さて、話はまた零央に戻る。


 零央の夏は終わるのが早い。そして秋になったと思ったら冬になっているのは例年のことであった。


 柿はその実を早々に熟すや葉を散らしているし、赤や黄の鶏頭けいとうは野原を一瞬鮮やかに染めたものの、今ではその他大勢の枯草にすっかり埋もれている。街を囲む高山から駆け下りてくる冷風はとっくに刃のごとき厳しさしか有しておらず、冬将軍の異名は伊達ではないことを民の誰もがしみじみと感じていた。



 *



 そんな初冬のとある日――。


 この街の中央部にある時代遅れな道場では今日も賑やかな声が響いていた。


「だからなんだってあんたは毎日何着も着替えるんだ」


 朝からうるさいのは空斗だ。


「洗濯する側の身になってみろ」


 晃飛が脱いだばかりの衣を握りしめ、本人相手にきりきり息巻いている。


 対する晃飛はどこ吹く風といった具合だ。


「うるさいなあ」


 耳に突っ込んでいた指を抜き、ふうっと息を吹きかける様は完全に空斗のことを見下している。


「寝てたら汗をかくものでしょ。でもって汗をかいたら着替えたくなるの。そんなことも分からないの?」

「なんで朝から汗をかくんだ。もう冬じゃないか」

「昔からそういう体質なんだから仕方ないでしょ」

「ああもう! だったらあんたが自分で洗えよ!」


 空斗の怒りはもっともだ。まだ日が昇るか昇らないかといった時間帯から、氷が張りそうなほどに冷たい水でこの家に住む男全員の汚れ物を洗っているのに――終わった頃に晃飛が起きてきて汚れ物を投げてよこしてくるのだから。しかも当たり前の顔をして。しかも毎朝だ。


 しかし空斗の提案を晃飛は「やだね」と一刀両断した。


無料ただでここに住んでるんだ、ちゃんと家事は分担してもらわないとね」


 さらには憎らしいことも平然と述べてくる。


「なんだったら出ていってもいいんだよ?」


 こんなふうに嘘とも思えない調子で言えてしまうのが、この梁晃飛という青年の鼻につくところだ。


「……っ」


 結局、空斗は無言で晃飛の衣を洗った。こうやって言い負かされ、不条理を受け入れさせられるのは毎度のこととなっている。この家に住んでそろそろ一年になるし、その間に双方様々な経験を分かち合ってきたというのに、同年代の二人には今も主従に近い関係があった。


 そこに明るい声が届いた。


「ご飯できたよー」


 台所の方から顔を出したのは空也だ。


 良く言えば人懐こい、悪く言えば童顔の空也だが、これでもれっきとした成人だ。あとひと月と経たずに二十一歳になる。その空也が空斗の行動を見とがめた。


「あれ、兄貴。まだ洗ってるの? 早くご飯食べて屯所に行かなくちゃだめだろ?」

「……だあっ!」


 弟にまでこんなことを言われたら、やってられない。


 やけくそのように、渾身の力を込めて衣を絞った空斗は、急いた様子で竿に衣を干すと縁側から兎が跳ねるように室内へと入ってしまった。


「……兄貴、なんかいらいらしてる?」

「いつものことでしょ」


 飄々と言ってのけた晃飛はやはり小憎らしい存在だ。しかし晃飛の声が聞こえているはずの空斗はもう無心の境地にあった。これ以上無駄に苛ついても得することは何もない。であれば雑音は耳に入れないに限る。


「あー、腹減った」


 空斗の後を、腹をさすりながら晃飛がゆったりと追っていく。

 その後ろをついていく空也はきょとんとした顔をしている。


「あ、おはようございます」


 三人が時間差で居間に入るのを満面の笑みで出迎えたのは――珪己だ。

 この家に住む唯一の女人でもある。


「ああ、珪亥。おはよう」

「おはよう」


 氾兄弟は今でも珪己のことを男の仮名である珪亥と呼んでいる。理由は二つある。一つは当然、本名で呼ばない方が珪己のためになるからだ。そしてもう一つは――そうやって出会った頃と同じ名で呼ぶことで珪己を女人と意識しないようにするためだった。……後者は特に空也に関係している。


 髪をきちんとまとめるようになったことだけが理由ではなく、この頃の珪己は随分あかぬけた。そして美しくなった。ただそこにいるだけで一輪の花のごとき可憐さと麗しさを感じられるし、時折見せる艶っぽい表情や視線にはたまらないものがある。夫を持つ身であることは分かっているが、若い空也にすれば鼓動が早くなるのは条件反射、本能ゆえのもの……そう弁明する他ない。


「さ、早く食べましょう。今日はいつもより寒いから麺を煮込んでみたんですよ」


 今日も珪亥はきれいだな――そんなことを思いつつも「わ、うまそうだ」と空也がことさら元気よく答えてみせる。


 そんな空也のことを横目で眺めつつ、空斗は飯に一直線だ。弟の思春期特有のこじらせた悩みには同情するが、自分の弟は人道にはずれた行為をとるはずがないと信じている。それよりもさっさと食べて屯所に行かなくてはならない。


 晃飛もまた、生ぬるい視線を向けつつ空也の横を通り抜けていく。こちらは若干威嚇する意味合いを込めて。


「どうしました?」


 きょとんとした顔で珪己に問われ、即座に「なんでもない」と空也が返した。だがその顔は心なしか赤い。兄と晃飛に己が内面の葛藤、悩みを見透かされているのはもうどうしようもないと思っている。そういうことに聡い二人なのだから諦めるしかないのだ。


(……でも仕方がないじゃないか。俺はまだ若いんだから)


 しかも珪己は自分のために命を張ってくれた恩人でもある。あのもう相手に、だ。好意を抱かない方が難しく、その延長線上にほのかな恋情が芽生えても仕方ない……そう自分で自分をなぐさめている。


 と、空也の後ろから上背のある男が赤子を抱いて現れた。


 仁威だ。


「おはようございます」


 仁威が現れた瞬間、珪己の表情が華やかになった。それはさながら野菊から大振りの椿に変化したかのようで、空也は目を細め、そして苦笑いとともにその視線を逸らした。若いって面倒だな、と思いつつ。



 *



 珪己と仁威は夏に夫婦の契りを結んでいる。

 

 そして季節は冬になった。


 短い夏が終わり、貴重な実りの季節を過ぎ、凍てつく空気に一日中身を震わせなくてはならない冬が訪れていたのである。


 珪己と仁威が夫婦となることを誓い合ったことは、翌朝には氾兄弟に伝えられている。


「おお、おめでとう!」


 真っ先に祝福を述べたのは空也だった。たどり着くことが定められていた結末だというのにほんの少しの寂しさを感じつつ。


「そうか。おめでとう」


 しみじみと伝えてきたのは空斗だ。こちらは嘘偽りのない純然たる寿ことほぎであった。


 これに珪己は心からの礼を述べた。ありがとうございます、と。だが照れてしまってそれ以上の言葉は出てこなかった。


 すると隣でずっと黙っていた仁威がこう付け加えた。


「俺達はこのままここに住み続けていたいと思っている。だがこの決断によって二人に迷惑をかけることもあるかもしれない。そのようなことにはならないようにするが、いざという時にはすぐに出ていく心づもりでいるから安心してくれ」


 これに真っ先に反論したのは、やはり空也だった。


「何言ってるんだよ。俺達がどう思おうが関係ないだろ? この家は梁さんの物だし、二人は梁さんの兄妹なんだから。そりゃあ二人があんまりいちゃいちゃしていたら気になるけど……。でもさ、誰かが出ていかなくちゃいけないって言うならそれは俺達のほうだよ。な、兄貴?」

「ああ。他に選択肢はないじゃないか。あいつはあなた達のことをことのほか大切にしている。それに俺達ならばどこでだって住める」


 そう言う空斗の表情は以前に比べてさっぱりとしていた。弟を溺愛するばかりに他者を軽んじるようなこともなく。ただ「ありがとう」の後に続いた仁威の発言には兄弟そろって驚かされた。


「それともう一つ。今日から珪己も稽古に加わることになった」

「ええっ?」


 毛の一件以降、兄弟は折を見て仁威と晃飛に武芸の稽古をつけてもらっていた。この家に住む男の四名中三名が禁軍の武官または元武官であり、残る晃飛も武芸の師範を勤めているときたら、その稽古が相当きついものになることは容易に想像がつくだろう。これに珪己が加わるというのだから、氾兄弟が驚くのも無理のないことだった。


「珪亥が腕が立つことは知っているが……それはさすがに無理じゃないか?」


 氾兄弟は山奥の仮住まいで狂気に染まった珪己と闘ったことがある。その時は二戦一勝一敗だった。この二人を相手にして一勝できる女はこの国広しといえど珪己一人だけだろう。だが出産後、珪己は乳児を抱いて時折道場に顔を出す程度で、もう武芸の道は捨てたものと二人は思っていたのだ。それに子を持つ女に武芸など必要ないとも思っていた。木刀を握る母親なんて御伽草子の世界でも聞いたことがない。


 だが兄弟の驚きをよそに珪己はその日から本格的に稽古を始めた。それこそもう、男四人以上の熱心さで。そしてそれは今も変わらず続いている。手習いでも気まぐれでもなく、魂をかけて稽古に励み続けている。


 そんな珪己を見るにつけ、空也は内心で歓喜していた。初めてほのかな恋情を抱いた相手だからこそ、普通の女とは違う珪己のことがより特別な存在のように思えてしまうのだ。引き換え、兄の空斗は剣女特有の闘気をまとう珪己に言葉にしがたい抵抗を覚えるようになった。なぜ女のくせに、母親となったくせに武の道を追求しようとするのかまったく理解できなかったのである。この国の民であれば誰もが空斗と同じ反応を示すだろうが、この家では唯一かつ異質の反応だった。



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