4.6 汚れている
そして翌日、午後。
玄徳は皇帝・趙英龍にかねてより上奏を希望していた件について説明する機会を得た。
英龍は事前にその内容について知り得ていて、この日はその詳細と補足説明を聞き、かつ質疑に大半の時間を費やした。
年明けには体調を崩したという理由で半月ほど公に姿を見せなかった英龍だが、それ以降はこれまでどおり皇帝としての任を果たしている。今日も玄徳の説明を的確に理解し、深く考察し、さらには玄徳ですら気づき得なかった視点でもってさらなる検討を要求する余裕も見せた。
「余からは以上だ。ご苦労であったな」
そう締めくくった英龍に玄徳は頭を垂れた。十分な時をおいて顔を上げた玄徳は、厳格さを保っていた面持ちを崩した英龍と目が合った。
と、特徴的なつり目が柔らかく細められた。……このように皇帝と目が合っても動じない人間はこの世にわずかしかいない。
「どうだ。少し茶でも飲んでいかないか」
これに玄徳は満面の笑みを返した。
「ええ。ぜひ」
侍従によって香りのいい茶が注がれ、色とりどりの果実や菓子が机に並べられ、あらためて二人きりになったところで英龍が薄く笑った。
「楊枢密使。先ほどの通行規制の件だが」
「はい」
「もう少し早く提案してもらいたかったな」
笑ってはいるが、その表情は玄徳を軽く叱咤する性質のものに変わっている。
「……申し訳ありません。なかなかよい機会がなく」
「とはいえそなたの自宅が全焼せねば動けぬというのではな」
「面目至極もございません」
この二人、実は以前から国内の通行を規制したいと考えていた。
国が認めた異人は湖国内を自由に行き来できる。それは湖国創生以来の慣習であり、これにより国内外のもろもろの交流、動きが活発になった。今、この国が比類なき繁栄を誇れる理由の一つは、まず間違いなく通行の規制がされていないことにある。
だが、この二人はそれに真っ向から反する策を以前から導入したいと考えていた。
理由はいくつもある。
たとえば――過度の自由が国内の貧富の差を助長していること。持つ者と持たざる者の差が大きくなっていること。肥えたものはどうしても利便性のある都市に一極集中したがるし、そうなると貧民は不便な地に住む他なくなってしまう。そしていったん住まいや生活が定まれば、なかなかそこから抜け出せなくなる。職業も然りだ。ただし、これに関する対策は本来は中書省が考えるべきことだが。
軍政を司る枢密院から見れば、規制を厳格化することで防衛上の危機を減ぜられる点を真っ先に挙げたい。この広い国内を制限なく行動できてしまうということは、今、武官の成り手が少ない状況においては非常に由々しき事態であった。よって、人海戦術をとれないがゆえの、規制による助勢が必要なのである。
「自由というものは一度許可すると取り上げることはなかなか難しいですから。提案する時期というものも非常に重要だと考えております」
玄徳の言い訳、もとい正論に英龍が小さくうなずいた。
「それはそのとおりだ。だが今回はうまくいくだろう。天下の枢密使の自宅を焼くほどの大罪を犯す者がここ開陽に入り込めるというのはまずいからな」
ところで、と英龍が茶を一口飲み、言った。
「娘御は無事か。その……火事で怪我などは負っていないか」
「お気づかいありがとうございます。娘はなんともありません」
「そうか」
沈黙が続いた。
忠臣である玄徳と共に過ごす時、英龍は心から癒されるのが常なのであるが――今は言葉にならない複雑な感情を抑えることができずにいる。
「そういえば娘御の婚姻の儀はいつ行うのだ? 婚約をしてからすでに一年以上たっているが」
なんてことのないようなふりをしながらも、その実、英龍は意を決して訊ねている。――もうずっと前から気になっていたのだ。だが誰にも訊ねられず、この問いに答えてくれるものは今では玄徳しかおらず……。
「それについては今しばらく時をおきたいと思っております」
「どうした? 何か問題でもあるのか」
「いえ。今回の件で娘が気落ちしてしまいまして。生まれた時から暮らしていた家ですから。まあ、娘も李侍郎もなんら急いではおりませんし、もうしばらくはこのままでいようかと」
「そうか」
あの快活な少女が火事でそこまで重い心の傷を負ったのかと思うと、英龍はそわそわとした気持ちを覚えた。今、あの娘はどこでどうしているのだろう。大丈夫だろうか。――こういう時、我が身でもって癒してあげることができればいいのにと詮無いことを考えてしまう。
「そうだ。住まいは? 今、楊枢密使と娘御はどこに住んでいるのだ?」
仮住まいに苦労しているのであればどこか良い屋敷を見繕ってやりたい――そう思い訊ねた英龍だったが、「今は李侍郎の家におります」との返答には頬が強張らないようにするのに苦労した。
「陛下におかれましては度々のご配慮をありがとうございます」
「あ、ああ」
まさか皇帝である自分がそんな邪なことを考えているとは玄徳も想像していないだろう。分かってはいても、その澄んだ瞳で見つめられれば動揺してしまうのは、我が身、我が心が汚れているせいだ。
そう――汚れているのだ。
「なあ。楊枢密使」
「なんでございましょうか」
「……いいや。なんでもない」
なぜだろう――この忠臣に対して、今まで誰にも語ったことのない秘密を打ち明けたくなる自分がいる。
『実はな……余は金昭儀に騙されたのだ』
この秋には生まれるであろう実の子が、英龍が望んでいない形で生まれようとしていることは――子を成した当の男女しか知らない。
『余は金昭儀を抱いてはおらぬ』
あれは――あれは楊珪己だった。
楊珪己だったから抱いたのだ。
今でもそう思っている。
いや、そう『信じて』いる。
そう信じなくてはこの心を保つことなどどうしてできようか――。
『余が愛しているのは今でもそなたの娘御、ただ一人だ……!』
思い悩む色が映る視線を受け、玄徳がやや首をかしげた。そして待った。だが英龍は何ら語らず、玄徳は「ではこれにて」と席を立った。そうすべきだと思ったからだ。
そうして英龍は皇帝としての矜持を護りきった。だがそれにより、誰にも語れない秘密は心の奥底の沼へと再度沈んでいったのである。
「楊珪己……」
誰一人いない部屋でつぶやかれたその声は泣く寸前のようだった。
真昼の空、目もくらむほどに輝く太陽に隠れて星がまたたくかのように。
誰もこの国の皇帝が女一人のために悲しむとは想像すらしていないのである。
*
次話から舞台は零央に戻ります。




