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4.3 全焼

 業火を上げて燃える屋敷を大勢の人間が呆然と見つめている。といっても、燃え盛る炎に魅入られているわけではない。もはやなすすべもない己の無力さを痛感してのことだ。


 すべてが燃えていく――。


 家財も思い出も、何かもかもが燃えていく――。


 火はあっという間に燃え広がり、天に届くほどの火柱となり、やがて燃えるものすべてを飲み込んで――それでようやく満足したかのように勢いを弱めていった。


 家主である玄徳が戻ってきたのは、そんな燃え尽きた残骸の中でもくすぶる炎がいまだ確認できる、火事の終盤の頃合いだった。


「遅くなってすまなかったね」


 いつになく俊敏な動作で馬から降りた玄徳に、惚けていた人々がわっと集まった。


「玄徳様……!」

「すみません! ご主人がいらっしゃらないときにこのようなことになってしまって……!」


 人々は皆、楊家の屋敷に仕える家人だ。


「いや、いいんだ。それよりも怪我をした人や行方の分からない人はいないかい?」

「はい。全員無事です」

「それはよかった」


 心からの笑みを浮かべた主人の優しさに、何人かがこらえきれない嗚咽を漏らした。


「すみません、こんなことになってしまって……」

「これじゃあお嬢様が保養地からお戻りになったらどんなに悲しむか」

「そんなに気に病むことはないよ。珪己が帰ってきたらきっと私と同じことを言うよ。『みんな無事だった?』ってね」

「玄徳様……!」


 むせびなく家人らをなだめつつ、玄徳はそれとなく辺りを見回した。屋敷の周囲の建物に火が飛び移らないように、大勢の火消しが垣根を取り壊したり水をかけたりと、いまだいそがしく立ち回っている。その作業を遠目で見守る人々は近所の者が大半だ。見かけない顔はきっと野次馬だろう。だが概ねの者はすでに興味を失いつつあるようだった。すでに火は消えかかっているし、黒煙がたなびくこの場に長居をする必要もない。


 だが、人込みの中に玄徳は一人の男を見とがめた。


「あれは……?」


 一瞬、視線が交錯した。


 青い炎を宿したかのような、異人特有の瞳には確かに見覚えがある。


 その異人の男は玄徳のことを憎悪を込めて一瞬見つめた後、身を翻すや闇に紛れて消えた。


 玄徳の脚が一歩前進することすらゆるさず、その男は消えてしまったのである。


「玄徳様……!」


 鋭い馬のいななきとともに切羽詰まった声で名を呼ばれ、玄徳が振り返ると、そこには李侑生がいた。上級官吏の証である紫袍を纏いながらも供をつけずに駆けつけるあたり、この青年の中身は変わっていない。ただ、その腰帯に吏部の証である白玉はくぎょくが飾られている点だけは以前と違っていた。


「ああ、侑生か。久しぶりだね」


 常のごとくのんきとも思える表情で振り返った玄徳に、侑生は馬上から降りるや駆け寄った。


「玄徳様! どこもお怪我はございませんかっ……?」

「私はなんともないよ。実はさっき来たばかりでね」

「そう……ですか」


 本人をその目で確認したことで侑生の焦りもようやく溶けたようだ。


 だが。


「まあ私のような年寄りのことなんてどうでもいいのだけど」


 冗談めいて言ったつもりが、これが侑生の気に障ったらしい。笑いをとるどころか、逆にきっと睨まれてしまった。


「こんな時までそういうことをおっしゃるのはよしてください」

「そうだね。済まなかった」


 こういう時、部下であったこの青年の甲斐甲斐しい性質を思い出す。まるで実の子のように常に玄徳の世話を焼き、その身を案じる様は実の娘以上だった。朝から晩まで。春から夏、秋から冬まで。そして次の季節も、その次の季節も……。


「もう夜も遅いですからひとまず私の家に来てください」

「ありがとう。ではそうさせてもらおうかな」

「では行きましょう」

「でもその前に住み込みだった家人の世話をしてやりたいんだ。だから侑生は先に帰りなさい。今晩は私は家人らと適当な宿に泊まるとするよ」


 こんな時でも人として正しくあろうとする玄徳のことは侑生も予見していたようで、


「分かっております。ひとまず皆一緒に連れてきてください。明日、それぞれにきちんとした住まいを用意しますから」


 そう言って、有無を言わせず連れ帰ったのであった。



 *



 李家に戻った侑生は、そこに元部下である良季と隼平が揃っていることに驚いた。


「どうした? 良季はともかく、どうして隼平がここにいる?」

「ええー、ひどいなあ。久しぶりに会ったのに」


 不満顔の隼平を無視して良季が一歩前に進み出た。


「火事の被害はどの程度でしたか?」


 そう、良季と隼平はこうなることを予期してまっすぐに李家へと戻ってきたのである。あの侑生であればどこにいてもこの情報を知るなり一目散に楊家へ向かうだろう、と。そして玄徳をこの家に連れて来るだろうことも予見していた。


「全焼だ」


 侑生は事実だけを述べるとまずは玄徳を居間へといざなった。そして出迎えた李家の家人にてきぱきと指示を始めた。


「玄徳様のためにもっともいい部屋を用意してくれ。そしてこの八名は玄徳様のお屋敷に住み込みで仕えていた者達だ。この者達も今晩ここに泊めるのでそのように」

「分かりました」


 夜分のことでも動じることなくさっそく皆が動き始める。


 そこに階上から清照が姿を現した。


「まあ。玄徳様。ようこそおいでくださいました」


 長年詩を書いているせいで宵に活動する習慣のある清照は、真夜中に近い時間だというのに今すぐ外出できそうなほどきちんとした身だしなみをしていた。元から美しかったが、この頃ではその美しさに凄みが加わってきている。


「ああ、これは清照殿。申し訳ないが今晩はこちらにお世話になります」


 朴訥と返す玄徳に侑生が即刻異議を唱えた。


「何をおっしゃるのです! 今晩と言わずしばらくはこちらに滞在していただかなくては!」


 これに玄徳に付き従ってきた家人らは疑問を抱いた。先ほど楊家の前で『ひとまず』と言ったのはあなたではないか――と。


 だが当の侑生は自らの発言を忘れたかのように言い募っていく。


「玄徳様ほどの御方が住める屋敷などそうそうありませんし、火事の犯人は玄徳様を狙っているのかもしれません。御身の安全を保障できるまではこちらにいてください」

「犯人?」


 これに割って入ってきたのは隼平だ。


「なんだよそれ。てことは、誰かに放火されたってことか?」


 侑生が小さくうなずいた。


「おそらくな。火が確認された時間に対して全焼するまでの時間が異様に短い。火のまわりの速さはまず間違いなく放火だろう」


 さすがというべきか、そういった情報を仕入れつつ、整理しつつ楊家へとはせ参じたというわけだ。


「何か最近、身辺で気になることはありませんでしたか?」


 問い詰める侑生に玄徳は首を傾げた。


「いいや。特にないねえ」


 こんなふうに二人が率直に受け答えしていく様は実に久しぶりのことだ。


「本当ですか? よく思い出してみてください」


 対面で座る玄徳にぐっと身を乗り出してきた侑生に、玄徳が一拍遅れてくすっと笑った。


「君は相変わらずだね。侑生」

「……は?」

「いつも一生懸命で真面目で。吏部でも君は君らしく頑張っているようで安心したよ」


 意味を理解するまでにいくらかの時間を要した、らしい。それは侑生の頬がほんのりと赤くなるまでにかかった時間で分かった。


「……お人が悪い」


 伏せられた目がかすかに震えたのは、久方ぶりに玄徳の慈愛に触れたことによるものだ。


「ご主人様」


 話を遮るように家人の一人が声を掛けてきた。


「ああ。部屋の用意ができたか」

「はい」

「では玄徳様、行きましょう。今夜はお疲れでしょうからもうお休みになってください」


 そう言って、侑生はこの賓客を手自ら寝室へと誘ったのであった。

 

 隼平に良季、そして実の姉のことなどまったく構うことなく。


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