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4.1 同情は同情のままで

本章の舞台は開陽です。

 首都・開陽では、この夏どこの酒楼も連日大賑わいだった。


 ちょっとでも酒楼に訪れる頃合いを見誤ると馴染みの客でも満員だからと入店を断られてしまう有様で、そういった客をさばくために夕暮れ時から気軽に酒を飲める露店が数多く姿を現すようにもなっていた。


 四方を高い壁で囲まれ、かつ首都という特性上人口密度が高いこの街において、狭い道をさらに狭めるような露店の登場を快く思わない者は、当然少なからずいた。実際、往来での揉め事の類は増えたし、懐の金子を盗まれたという被害者の声も例年になく聞こえている。運搬業者の多くは「これじゃあ仕事にならん」としょっちゅう不満をこぼしている。とはいえ、気づけばひと月とたたずにこの露店が連なる光景が当たり前となっていたのは、この街特有の楽観的気質ゆえのことだろう。


 そんな提灯が揺れる露店の一つで、一人お気楽に酒を飲んでいる青年官吏がいた。隼平しゅんぺいだ。


 庶民のための店に、仕事帰りだからといって緋袍のまま入ることができるのは彼の豪胆さ、もとい純朴さゆえだ。しかし三十歳手前の若さで中級官吏の証である緋袍を着こなす様は明らかに唯人ではない。恰幅のよさも相まって周囲の客も彼のことをおっかなびっくり眺めている。しかし当の本人は自分がどんなふうに見られているか一向に気にしていない。今も空の酒瓶片手に「おかわりー」と陽気な声をあげている。


「官吏様はお酒が強いんですねえ」


 この尊いお客をどう扱えばいいか決めかねている露店の親父に、隼平がにかっと笑ってみせた。


「うん。俺、酒が大好物なんだよね」


 子供の様な素直な物言いに、親父は隼平に好感をもった。


「官吏様ならもっといい店があるんじゃないですかい? どうしてこんなちんけな所へ?」


 焼き上がった肉の串を五本、皿に載せて差し出しながら親父が訊ねる。これに隼平が声をあげて笑った。その声の調子も笑みも、どれをとっても好青年の太鼓判を押せる類のものだった。


「おやっさん、そんな風に自分の店を卑下しないでよ。俺、この店好きだよ。酒も料理もおいしいもん」


 喋りながらも両手に二本の串を持ち、交互に肉を口に放り込んでいく。これまた見ていて気持ちがいい食べっぷりだ。


「俺、ここの常連になってもいい?」


 もっしゃもっしゃと大振りの肉を咀嚼していく様も爽快の一言で、


「もちろんでさあ。今度いらっしゃるときに備えてもっとたくさんの肉を仕入れておきますよ」


 とうとう親父も嘘偽りのない笑顔になっていた。


「ほんと? やったあ」

「はい。酒もおまちどおさま」

「ありがと。これこれ、やっぱりうまい料理には酒がないとね」


 あっという間に五本の串を食べ終え、隼平が酒瓶を手に取ったところで。


「待たせたな」


 背後からもう一人の緋袍の官吏が現れた。


「官吏様がまた増えた……」


 親父としては『こんなちんけな店』に二人も高位の人間が揃うとは思っておらず驚くしかない。しかもこの官吏も随分と若いのだ。


「おっ。良季りょうきちゃん、お疲れ」


 気安く手をあげた隼平だったが、もう一方の手にはすでに酒を満たした杯が握られている。


「ちょっと待ってて。全部飲んじゃうからさ」


 時を惜しむのか、酒瓶に直接口をつけるや、清涼な水を飲むように一気に酒を干していく。


「くあー。うまいっ」


 手の甲で乱暴に口を拭った隼平は、「ごっそーさん。また来るね」と懐に手を入れた。



 *



 そして二人は場所を変え、その職位や着衣に見合う格調高い酒楼で杯を交わしている。


 個室に入り声を潜めれば話していることが外に漏れる心配もない。


「で。今日はあらたまって何なの?」


 そう、今日は珍しく良季からの誘いでこうして顔を突き合わせて飲むことになったのだった。「内密の話があるから」と。この店を指定したのも良季だ。――こういうところでは飲んだ気になれないので、隼平だけ一足先に露店で一杯ひっかけていたのだが。


「実はな」

「うん」

清照せいしょう殿と添い遂げることになった」

「へえ。おめでとう」

「……驚かないのか?」

「驚くことある? 良季ちゃん、この一年ずっと清照殿のところに通ってたじゃん」


 一年前の晩春――李清照の弟であり彼ら二人の元上司である李侑生が芯国の王子によって顔面を斬られた。男でも女でも、誰しも魅入られずにはいられない美貌を有していた侑生だったが、今では隠しようもない切傷痕をその顔面に貼り付けている。


 いや、侑生はもっと大切なものを失った。片目だ。


 その事件は侑生の自宅で起こったため、当時家にいた清照は斬撃直後の弟の姿を目撃している。大量の血を流しながらも落ち着いた様子を見せる弟に対し、清照はひどく動揺した。……それ以来、あれほど夢中になっていた詩を書かなくなってしまった。


「やっぱりあれ? 同情が愛情に変わったってやつ?」


 もう本題が終わったからと、さっそく小ぎれいに飾り付けられた煮物に箸をつけていく隼平に、良季がやや呆れた顔になった。だがなんてことないように口にした言葉は『否』だった。


「違う。同情は同情のままだ」

「へ? なにそれ」

「清照殿には長く想いを寄せている男がいてな」

「え……。そうなの?」


 とはいえ、隼平も知能派の文官であるから、これまで知り得ている情報を瞬時に総動員して推理していった。


「ああ、なるほど。清照殿の詩集は現実の一人の男に向けられたものだったんだね」


 清照は随分昔から詩を書くことに傾倒していて、書籍という形にすることも侑生の事件以前に決まっていた。それどころか事件直前には本はすでに装丁され書店に搬入され始めていた。それゆえ筆者の状況など考慮されることなく、この詩集は多くの人々の手に渡っていった。――そして幸か不幸か、清照が渾身の想いを込めてしたためた詩集は爆発的に売れたのである。


 これまで詩とは男による男のためのものだった。政治や風景、時に壮大な人生観を朗々と謳いあげるものと相場が決まっていたのだ。だが清照の詩は違った。女の身で、しかも愛について特化した詩集だった。だがそれはこの時代の恋愛観とも、強くなりつつあるが儚さも有する女性の心情とも親和性があり――それゆえ共感が共感を生み、結果、清照は今では知る人ぞ知る新進気鋭の詩人として名を知られる人物となったのである。


 活版技術が浸透してきたとはいえ、今だ本を手に取らない人種が多い昨今において、この詩集が顕著に売れたことからも清照の才能のほどがうかがえるというものだろう。ただし、清照は時代を読んでこの詩集を編んだわけではなく、己の内からほとばしる行き場のない想いを紡いだだけのことであったが。


「でもどうして好きな男がいるのに良季ちゃんと? 子供ができたから?」

「彼女は妊娠などしていない」

「だったらどうして」

「そばにいてやりたいから。それだけだ」

「ああ。なるほどね。それは真理だ。人と人が寄り添い合いたいって思うのはとても純粋で嘘偽りのない好意だもんね」


 ややあって、「いいなあ。俺も結婚したいなあ」と隼平が嘆息交じりにつぶやいた。


「お前にもそういう女がいるのか?」

「いないいない。いるわけないだろ? でもさ、そばにいたいって思い合える人と一緒に暮らすのっていいじゃん。……俺もまたいつか、そういう人と出会えるかなあ」


 やや遠い目になった隼平が見ているものは、きっと幼少時代を過ごした寺であり、そこに自分を住まわせてくれた女僧だろう。


 これに気づいた良季はそっと唇を噛んだ。すまない、と心で謝罪しながら。


(お前のためにも私のためにも、必ずあの女を罰するから……)


 あの女とは良季の実の母のことだ。


 孤児であり浮浪者であった隼平を拾い育てた女僧――誰もが親しみを込めて呉坊と呼んでいた――を殺したのは良季の母だ。確固たる証拠はないが、良季はそのことに強い確信をもっていた。


 あの地元の湖畔で涙しつつも呉坊との想い出を胸に秘めて生きていくことを誓った隼平、そんな隼平を前にして己が手で母を罰することを内心誓った良季――それ以来、二人はこの件について一切会話をしていない。枢密院において自己実現と献身という相反するものを同時に求めながらも、そのことについてわざわざ言葉に出すことはなかったのである。


 出さずとも伝わっている――そう信じているのは隼平だ。


 一切出さないことで秘密裏にことを成そうとしているのは――良季だ。


 もう今更言えたことではなくなっている。


(私一人が幸せになろうとしているわけではないから……)


 言葉に出せない弁論など無意味なことは分かっているが。


(あの女は必ず罰してみせるから……)

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