3.5 共に生きよう
我が子を寝かしつけても、珪己はしばらく部屋から出ることができなかった。
だがこのままではよくない。そう思い、意を決して部屋から出たのは実に半刻もたってからのことだった。あとどれくらいあの人のそばにいられるかは分からないけれど、せめてその時、その瞬間までそばにいたい……そう思ってしまうのは、結局はこの恋に溺れているせいだろう。そんな自分がいよいよもって幼く思えた。だがどうしようもない。
仁威は縁側で胡坐をかいて座っていた。
目を閉じ寡黙な様子は、何やら瞑想しているようだ。
「どんなことを考えていたんですか」
暗くならないように努めて明るい口調で隣に座ると、仁威がその目をうっすらと開け、珪己へと視線をうつした。
その目に見つめられた瞬間、凪いでいたはずの珪己の心が大きく揺れた。
珪己はとっさに視線をそらしてうつむいた。
「……なぜ目をそらす。それにさっきはどうして逃げたんだ」
頭上から降り注がれた声には批判する意図は感じられなかった。とはいえ正直に答えられるはずもなく、珪己は黙って唇を噛んだ。
と、仁威が珪己の顎に手を添え、そっと顔を持ち上げた。
あらためて二人の視線が絡み合う。
「そうやって誤魔化そうとするな。ちゃんと言葉に出して言ってくれ」
「誤魔化すって……」
顔を固定されたまま、視線だけを右下にそらしたものの、仁威の手に力が込められて無理やり視線を合わされた。
ずっと見つめていたい――けれど見つめているのが辛い。
「なぜ俺から逃げようとするんだ」
「なんですかそれ」
冗談として笑い飛ばしそうとしたが、いつまでも食い入るように見つめてくる仁威の頑固さに、珪己の感情が一気にはじけた。
「……逃げようとしたのはあなたの方じゃないですか!」
こんなふうになりたくなかったから、ここ最近は近づきすぎないようにしていたのに。こんなふうに責めたりしたくなかったから、お互いの心を覗くような行為は避けてきたのに。言動の真意、それに未来を問いかけたりしないようにしていたのに――。
なのに――。
「もうすぐあなたはどこかに行ってしまうんでしょうっ?!」
まるでこういうきっかけを待っていたかのように次から次へと感情があふれ出してくるではないか。
「私を置いてたった一人で……!」
身をよじり仁威の手を振り払うと、今度は両腕を掴まれた。
「お前……」
ぐっと覗き込んできた仁威の表情には余裕がなくなっている。
「何を言っているのか分かっているのか?」
珪己を見据える眼差しも、暗いようでいてやけに鋭いものに変貌している。もっと言えば、瞑想していた横顔には珪己の抱く絶望と同質の影が見えていたのだが、今はほとんど消え失せていた。だがそれら一連の変化に珪己が気づく余裕はなかった。
「私が一緒にいたら重荷になるってことは分かってました。最初から分かっていたんです……!」
ずっと封印してきた激情が濁流のごとくあふれるのを止められない。
「珪己、落ち着け」
「でもあなたが私を好きだと言ってくれて、すごく嬉しかったんです! 私のそばにいたいと言ってくれたことがすごくすごく嬉しかったんです……!」
「珪己……!」
「あなたが未来永劫の話をしているわけではないことくらい、分かっていました。分かってはいたけれど……それでも!」
身をよじり抵抗をつづけていた珪己の目から、ぼろぼろっと涙がこぼれ落ちた。
「それでも夢見ていたかったから……! あなたがいなくなる日が来るなんて考えたくなかったから……!」
魂を振り絞るような叫びを発すると、その反動で珪己は半ば放心した。
はあはあと肩で息をするたびに新たな涙がこぼれ落ちていく。
男と女がともにいることの意味は様々ある。だが血のつながらない、お互い恋心を抱く者同士であれば、夫婦または恋人となる二択しかないと珪己は思っている。
ではその違いとは何か?
それは契約できるか否かだ。
契約の種類は人それぞれだろう。生活を保障する、出世を約束する、後継ぎとなる子を産む、共に暮らす、といったように。だが今の珪己にはそのどれ一つとして仁威に差し出せなかった。家を出た珪己には父の官位を利用することも金銭を融通することもしてやれないし、皇帝の子を産んだ自分には仁威の子は産んでやれない――それは仁威にも、産まれてくる子にも相当な枷を与えることになる。第一、皇族の子を産んだ女には他の男と結ばれる自由などはなからない。だから共にい続けることも約束してやれない。
散々に仁威に暴言を放った珪己だったが、その実、分かっていたのだ。悪いのは仁威ではなくて自分の方だということくらい。
「珪己」
困ったような声に、珪己が後悔を覚えた思った矢先だった。
「……すまない」
謝罪され、頭からつま先まで墨を流し込まれたような絶望に堕とされた――その時。
「俺がもっと早くに覚悟を決めるべきだったんだ」
仁威が握る両腕に力を籠め、珪己を強引に上に向かせた。
「お前も俺と同じことを考えていたことには気づいていたんだ。だが……どうしても覚悟しきれなかった。それもまたお前と同じ理由……だと思う」
珪己は涙に濡れた瞳で仁威を呆然と見上げた。
(この人は一体何を言おうとしているのだろう……?)
真意をつかみかねている珪己に、仁威が一度大きくまばたきをした。
「分からないか?」
言葉が出てこず、珪己は戸惑いながらも首を縦に振った。これに仁威が唇を結び、しばし黙った。
小さく呼吸を整え、仁威が真剣な面持ちで言った。
「お前と共にいたい、以前俺はそう言ったな」
こくり、と珪己がうなずく。
「あれは気の迷いでも衝動でもない。一時のことでもない」
つまり、と言葉を継いでいく。
「この命尽きるまでお前と共にいたい……そう願っている。あの時も今もその気持ちは変わっていない」
驚きに目を見開いた珪己に、仁威が再び小さく息を整えた。それで珪己もようやく分かった。仁威が今、少なからず緊張していることに。
「俺達の間には様々な障害がある。だが先ほどここにやって来た御史台の官吏に言われたんだ」
「……御史台っ?! 何を言われたんですかっ?」
さらなる驚きで顔が白くなった珪己に、仁威は真剣な面持ちを崩すことなく言った。
「俺達の幸せを優先しろと、そう言われた」
「え……? それはどういう意味……ですか?」
「楊枢密使からの伝言だそうだ」
「父様からの?!」
とっさに両手で口元を押さえた珪己は、やがてその身を震わせた。
「父様が……。探してくれていたんですね……」
感動、それに申し訳なさで打ち震える珪己に、「ああ」と仁威が力強くうなずいた。
「だが楊枢密使は俺やお前のことを開陽に戻したいとは思っていないそうだ。それがさっき伝えた言葉の真意だ」
俺はそう思っている、と付け加えると、珪己がこれに深くうなずいてみせた。
「私もそう思います。父様はそういう人なんです……。自分だって寂しいくせに、私のことが心配なくせに、そうやって自分のことよりも人のことを心配しちゃう人なんです……。それに決して私のことを子供扱いしないんです。昔からそうでした。私がやりたいこと、正しいと思ったことをさせてくれて、一人の人間として尊重してくれて……」
珪己の頬を伝う涙を、仁威が人差し指でそっとぬぐった。
「……父様は私の状況をどの程度把握しているんでしょうか」
仁威との関係はもとより、子供のことも――。
その心配は十代の娘であれば当然だった。
「何も知らないはずだ。その御史台の官吏が変わった奴でな、俺達の幸せを最優先にするよう厳命されているからと言って、上司にすら何も報告していないらしい」
「そう、なんですね」
ほっとしたのもつかの間、珪己の脳裏に新たな考えが閃いた。
「でも真実を知れば、父様はきっと私に開陽に戻るように勧めてくると思います。その方が私もあの子も……あなたも安全だと思うから」
皇帝の子を成した女と恋をする――それはこの時代、簡単なことではなかった。いや、不可能と言っていい。しかも仁威は貴族どころか元武官、ただの一般人だ。
「父様ならきっと『他人』であるあなたを優先すると思うんです」
そのために娘の恋心が砕くことになろうとも――自分よりも家族、家族よりも他人を重んじてしまうところが、玄徳が玄徳であるがゆえの性質なのだ。父ならばきっとそうする。それは娘である珪己だからこそ分かり得ることだった。
一つの推測を得た瞬間、珪己は迷いを覚えた。あれほど賢く立派な父がそうするのならば、きっとそれこそが正解なのではないか、と。恋に揺らいでいるだけの自分は間違っているのではないか、と。
だがそんな珪己の迷いは仁威にはお見通しだった。
「珪己」
あらためて名を呼ぶ。両の頬を手のひらで挟み、仁威は珪己を深く見つめた。
「お前の父をもっと信じろ。幸せを最優先にすべし、そうおっしゃってくださったあの方の言葉をもっと信じるんだ」
「信、じる?」
「そうだ。そして信じることで俺達はあの方の真心に答えることができるんじゃないか」
それはこの長くも短い思索の時間で仁威がようやくたどり着いた結論だった。
「自分が信じたいものをむやみに信じることとこのことは違うと俺は思っている」
「そう……でしょうか」
縋るような瞳を受けている自覚が珪己にはあった。だが問わずにはいられなかった。本当にそう思いますか、と。そんな都合のいい解釈をしても本当にいいのでしょうか、と。
これに仁威が真摯な面持ちで言い切った。
「たとえ間違っていたとしても俺がすべての罪を引き受ける」
その言葉の重さはこれまでと比類なきもので、珪己はとっさに仁威を見上げていた。この人は私が背負う幾多の重荷、義務のすべてに責任をとるつもりなのか――と。
だが仁威は慌てることもなく、ただ静かに珪己を見返すだけだった。そこには確かに真心があった。そして覚悟があった。一時の熱や使命感に捕らわれて発した言葉ではなく、これからの一生をそのように生きると定めた強い覚悟があった。
「俺がすべてを引き受ける」
繰り返された言葉に珪己の心が定まった。
好きだ、愛しい――そんな言葉以上に深く心に響く言葉があることを知り、そしてその言葉を向けてくれた仁威に対してこれまで以上の思慕を珪己は抱いたのだった。
(あなたがそう言ってくれるなら……)
しかし――わななく唇ではなかなか言葉が出てこない。
「わ、私は」
揺れる心はなかなか落ち着いてくれない。それでもなんとか言い切った。
「私は……あなたとすべてを分かち合いたいです」
これに仁威がはっとした顔になった。
そんな仁威のことを珪己は涙でにじんだ瞳で見返した。
「ずっと一緒にいて……?」
「珪、己……」
「ずっと一緒にいてください……。そして私とすべてを分かち合ってください……。たとえ罪でも……。痛みも苦しみも、すべてを私と……」
熱い想いが尽きることなく溢れてくる。
「だから……ずっと一緒にいてください」
とうとう我慢しきれずに新たな涙があふれた。
仁威がその手のひらで珪己の頬をそっと包んだ。そして親指で涙をぬぐった。
「ああ。共に生きよう。永遠に……命尽きるまで」
*
その夜、二人は以前のように同じ部屋で過ごし、同じ寝台で眠った。だが大きく違ったことがあった。
赤子はその夜、やけにおとなしく眠りにつき――仁威は珪己に口づけをするとその身にまとう衣を一枚ずつ脱がしていったのである。
初夏の夜、室内の空気がこもらないように板をはめ込んだ窓はやや開けられている。中空に浮かぶ月が隙間からでも確認でき、室内に差し込む仄かな月光がこの一夜をひときわ幻想的なものとした。
淡い月光ではお互いの姿はくっきりとは見えない。だが灯りはつけない。それこそがこの特別な一夜にふさわしかった。
一枚一枚、衣を脱がしていくたびに、脱がされるたびに、二人のいまだ揺れる部分が定まっていった。
やがてあらわになった肌でどちらからともなくそっと触れ合った。そしておずおずと抱きしめ合い、尊きものに対するかのようにあらためて口づけをした。だが緩やかな動きはそこまでだった。もうこの二人を止めるものは何もなく、二人とも止まるつもりはなかったのである。
触れる手も唇も、何もかもが性急に動き出す。
飽きることなく同じ動作を繰り返す。
幾度となく愛を伝え合う。
見つめ合う。
汗を交わし、鼓動を最高潮に高めていく。
直接的であるからこそ想いを伝えあうのにこれほどふさわしい行為はないのかもしれない。恥じらいも戸惑いも、いまだ先の見えない未来も何もかも吹き飛ばし、二人はお互いを求め合い続けた。
やがてとある一瞬、二人はこれ以上はないというほどの幸福感に包まれた。
どうして人類がこのような行為を繰り返してきたのか、とうとう珪己はその意味を理解した。歓喜に打ち震える珪己を仁威は思う存分愛でた。――そうやって二人は結ばれたのである。
遠い夏、数奇な運命で出会った二人が本当の意味で過去を乗り越えた瞬間だった。
だからこそ――。
「……明日から私に稽古をつけてください」
温もりとまどろみに包まれながら珪己は愛する男にねだった。
「……私、もっと強くなりたい。あなたのことだってこれからは……私が……」
そっと眠りについた珪己の頬に仁威の手が添えられた。
「お前がそうしたいなら」




