3.4 あなたはいなくなる
真剣な面持ちで剣を砥ぐ仁威の様子には鬼気迫るものがあり、道場の外からでも強い気を感じられるほどだった。
「……」
珪己は姿の消えた仁威を捜して道場の手前まで来ていたのだが、ぐっと手を握りしめると、そのまま母屋へと引き返した。そして今は縁側に座って庭を眺めている。
珪己の腕には首の座った赤子がご機嫌な様子で抱かれている。さっきまでおしめを換えたり乳を与えたりでてんやわんやになっていたのだが、今は嘘のように穏やかだ。
蝉がけたたましく鳴いている。庭の半分ほどを占める畑には力強さを感じる作物が所せましと並び生えている。庭を横切る小川――生活用水である水路――は強い日差しを受けてきらきらと眩しい。
何もかもが去年のままだ。
こんなにもこの場所は変わっていない。
なのに――。
(なのにあの人は……!)
やるせない怒りは発散のしようもなく、珪己は赤子をいっそう胸に深く抱いた。乳臭い香りは、怒りはもとより、いわれのない不安や衝動もいくらかやわらげてくれるようだった。
子供はかわいい。
たとえ誰の血を引いていようとも、この恋の楔になっていようとも、かわいい。
ふくふくとした体つきにはどこまでも透明な魂が宿っているかのようだ。無垢な笑みはもちろん、泣き顔も、乳を飲む必死な様子も、何もかもがかわいくて愛おしい。
この子と離れることなど、珪己にはもう考えられなかった。
腹の中にいるときにはこの小さな命を失うことも致し方ないと思ったことがある。空也を救うために、武芸者としての自分が望む行動をとるために。だがそのような想いは今は一切考えられなくなってしまった。
この子さえそばにいてくれればいい――そんな風に思いつめる夜もある。
遠くない将来、そうする他なくなるのだろう、とも思ったりもしている。
しかし、実際にその日が目前に迫っていることを知った途端、珪己は激しく動揺していた。
(あの人はどこかに行ってしまうの……?)
(私とこの子を置いてどこかに行ってしまおうとしているの……?)
先ほど感じた鬼気迫る気に、仁威が何かしらの変化を受け入れ、決断したことを珪己は感じ取っていた。剣を砥ぐ音もかすかに聞こえたから、仁威は闘いに行くつもりなのだろうと察している。いや、それはもはや珪己の中では確信に変わっていた。
(私達、もう終わりなの……?)
赤子が短くてむちむちとした手を珪己の頬に伸ばしてきた。ぺち、ぺち。か弱い力で頬を叩く。そのたびに小気味いい音がして赤子が嬉しそうに笑った。なんとも無邪気な動作だ。
「……あれ? いやだ……どうして……」
こちらも笑って赤子の手を握ってやれば、その手が濡れていて――珪己は自分が涙していることに気づいた。
「いやだ。なんで泣いちゃったんだろう。……やだな」
目をごしごしとこすりながら、「心配したのかな。ごめんね」と赤子に謝った。
「母様はほんとは泣き虫じゃないのよ。泣かないような自分になりたくて、それで武芸者になろうと思ったんだから。本当よ」
無理して明るい声で話しかけていたものの、気づけば珪己は涙をぽろぽろとこぼしていた。
「ごめんね。ごめん……すぐに泣き止むからね」
ごめんね、と何度も繰り返しながら、珪己はとうとう嗚咽をこらえることもできなくなり、しばらくの間泣き続けた。
その間、赤子は珪己の頬や頭に幾度も触れてきた。ぺち、ぺちと可愛らしい音が鳴るたびに、珪己は自分の欲深さや浅ましさを痛感し、それでも寂しいと思う気持ちを止められず――ただひたすら涙を流し続けた。
*
廊下の板が軋む音がして、珪己はとっさに顔を上げた。
「仁威……さん」
半身を陽光で輝かせ、もう一方に影をまとう仁威の立ち姿を見た瞬間、珪己は思った。ああ、やっぱりこの人のことが好きだ――と。
その見事な体躯から発せられる気の質を、力強いうねりを、その身の内で躍動する魂を。精悍な面立ちを、複雑な感情を映す瞳を、悩み苦しみながらも最善を成し遂げようとする気高さを。その武骨な指を、熱い血潮の流れを感じられる肌を。理由をいくつ述べても足りないくらい、仁威の何もかもに惹かれている自分に珪己は今更ながらに気づいた。
一体どうしてこれほどまでに血のつながらない他人を好きになってしまったのだろう……。
父や腕の中の赤子に抱く無条件の想いとは違う、燃え立つような強い想いはどうして生まれたのだろう……。
その想いが今、珪己の胸を焦がし、狂おしいほどにしめつけている。
(でももうお別れなのね……)
しかしその原因を仁威一人に押しつけてはいけないと珪己は思った。自分の側に多くの問題があるのだから。
(こんなにも好きなのに……もう駄目なのね)
涙で頬を濡らす珪己に、仁威がわずかに眉をひそめた。
「どうした?」
困らせてしまう――そう思った珪己はいったん顔を伏せ、涙をぬぐった。
「あ、すみません。なんでもないんです」
ぱあっと晴れやかに笑ってみせたものの、仁威嘘笑いが通用するわけもなく。
「なんでもないことがあるか」
余計に険しい顔をさせてしまった。
「本当に何でもないんです。あ、それより」
誤魔化そうとした結果、珪己は先程からずっと考えていたことについて触れてしまった。
「これから仁威さんはどこに行くんですか?」
「……は?」
まずい――と思った。
仁威が何か答えるよりも先に「ごめんなさい。変なことを訊いて」と謝りつつ立ち上がったのは、これ以上会話を重ねてはいけないと判断したからだ。
「どういう意味だ」
背を向けた珪己に問いかけてきた仁威の声はやけに低い。その声質こそが自分と仁威との間にある壁のように思えて、珪己はまた泣きたくなった。さっき泣くのを我慢したばかりだというのに――。
せめて顔を見られまいと、背を向けたままで頭を上げ、声だけで明るく応じる。
「なんでもありません。この子、眠っちゃったみたいなので部屋で寝かせてきますね」
うとうとしかかっている我が子を改めて抱きなおすと、その体が両腕の中でやけに重く感じた。かわいいのに、すくすくと育ってくれていて嬉しいのに――なのにやけにずっしりと重く感じた。そう思ってしまうことも苦しくて、珪己は足早にその場を去った。




