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3.3 覚悟

「ふむ」


 仁威の見せた変化に凱健が思案顔になった。


「ならばどうする?」


 まさかこちらに決定権があるとは思っておらず、仁威が問うような表情になると、


「幸せそうであれば見守るにとどめること、そう命じられている。だが逆の場合は惜しみない助勢を与えてやること、とも言われている」


 そこから凱健が一気に語って言った。


「そして君達の幸せを最優先にすべしとも命じられている。だから君がここにいることはまだ上には報告していない。枢密院にもな。その意味が分かるか?」


 強い驚きを示した仁威に、ようやくこの男から欲しい感情を引き出せた、と凱健が満足気にうなずいた。


「なるほど」


 もう一度手巾で汗をぬぐい、懐に戻す。


「状況は理解した。ならば君は君のすべきことを成せ。私も私のすべきことをするとしよう」


 簡潔に言い切ると、なぜか凱健が物思う表情をみせた。


「……幸せとはなんだろうな。私はずっとそれについて考えている」


 それは春節の折、上司である御史中丞のろうから話を聞いた時から考えていたことだった。……いや、それよりももっと前からだ。


「梁晃飛が今何をしているか君は知っているか?」


 思考を巡らすと話が飛躍してしまうのは凱健の悪い癖だ。


 答えない仁威に「新たに住める土地、家を探しているようだ」と自分から暴露した。


 相も変わらず仁威は口を閉ざしている。なぜなら御史台の官吏は非常に厄介な相手だからだ。知力を武器とする文官、武力をもって敵を制する武官、その両方の性質を兼ね備えている者だけが就ける、いわば選ばれた人種が御史台の官吏なのである。そのような男の前では極力発言を控える必要がある。実際、言葉による失敗は開陽でも散々味わってきた。


 しかし、言葉はなくとも、表情には出なくとも、仁威の目は正直だった。小刻みな動きから、頭の中で様々な事柄について考え出したことは明白で、これに凱健は内心喜んだ。この職に就いて以来、日に日に自らを浸食していく空虚さの理由をようやく解明できそうだ――と。


「あの男はこの家を担保に母親に金を用意させているようだ。どうしても君達を護りたいのだろう。彼は君のことを兄と呼んでいるようだが、非常に強い絆があるようだな」


 語りながら、必要以上に熱のこもった視線で仁威を観察している自分に気づき、凱健は苦笑した。猛禽類に例えられるいかつい顔のとおり、ちょっと目つきを鋭くさせただけで相手を威嚇、警戒、もしくは怯えさせてしまう自覚は元よりある。だが好奇心は止められない。


 仁威の方はといえば、凱健の鋭さの増した視線の意味を捉えかねてはいた。だが『試されている』ことだけは理解でき――その視線を真っ向から受け止めることを選んだ。


「ご教授痛み入る。それについては本人に直接話を聞いてみることにする」


 だが、と視線を逸らすことなく仁威が続けた。


「先ほどの言葉が真実ならば俺達に対する過干渉は不要だ。幸せそうであれば見守るにとどめること、そう言っていたな。であればそのような対応を俺も望む」

「……ふむ」


 ややあって凱健が額に手を当てた。


「どうやら私の完敗のようだ」


 だがそのことすら嬉しい。


「何か私に望むことはあるか? してほしいことやほしいものなどはないか?」

「何もない」


 断言され、凱健はますます笑みを深めた。


 なるほど、多幸感とは人を愚かに、もしくは無欲にするようだ――と。


(それとも……幸福を追求するという行為は孤立を受け入れていくことと同義なのか?)

(または多数の人間が有する常識、共通項から逸脱せざるを得ないのか?)

(ならば……?)


 まだまだ『幸福とは?』という命題に対して真理を究明する必要があるようだ。それは果てのない旅のごときで、想像するだけで頭がくらくらしそうになる。だが凱健はこれに立ち向かうことを甘んじて受け止めたのであった。


 なんだかんだいって考えることは楽しいのだ。



 *



 凱健が去ると、仁威はその足で道場へと向かった。そして一本の長剣を砥ぎ始めた。この道場に通う生徒が振るためだけの故意に切れ味を落とした剣のうち、もっとも刃こぼれしているものを迷わず選んで。


 砥いでいる間、仁威は無心だった。


 しゅっ……。

 しゅっ……。


 剣の砥ぎ方はかつて所属していた近衛軍第一隊で仕込まれたものだ。実際に剣で肉を裁つ第一隊の武官にとって、自らの剣を自らで手入れできなくては仕事にならないからだ。毎日、任務や稽古の後に、または実際に肉を斬った後に、仁威は必ず自らが使った剣を砥いできた。


 湖国が成る前、いわゆる十国時代以前においては、男ならば誰でも剣を砥ぐことができたらしい。また、成人の儀式において家長または年長の者から一振りの剣をいただき、それを生涯手放すことはなかったという。その短剣または長剣を昼も夜も常に手元に置き、いざという時に備えていたという。


 だが今は剣を砥ぐことのできる男は千人に一人もいない。そういう意味では仁威は特別な男だった。


(……だが俺もただの人間だ)


 しゅっ……。

 しゅっ……。


 何度も反復してきたこの行為には、高ぶる気を静め、自己認識を高める効果がある。少なくとも仁威にとっては、剣を砥ぐこの時間は日常でもあり、格調高く儀式めいたものでもあった。


(俺もただの人間であり、男でいいのだ……)


 この剣を砥ぎ終えれば、自分もまた新たな気持ちで己と向き合えるはず――。


『君達の幸せを最優先にすべし』


 凱健から伝達された言葉を反すうするたびに胸にこみあげてくるものがある。玄徳の柔和な表情、穏やかな立ち居振る舞い、一挙手一投足が思い出され、その都度哀愁めいた思いに胸がしめつけられる。あのような素晴らしい人の一人娘を我が身に縛り付けている罪悪感は、八年前の事変に関わった自覚があるからこそ耐えがたいものがあった。


 それでも、仁威は一心不乱に剣を砥ぎ続けた。


(すみません……)

(ですが俺にはもう、あいつのいない日々など想像もつかないのです……)


 もしも仁威が珪己と共に開陽に戻ったなら――いくら楊玄徳とて二人の関係を認めはしないだろう。なぜなら、皇帝に瓜二つの双眸を有する男児の血筋は隠しおおせるものではないからだ。ほぼ毎日皇帝に拝顔している玄徳が見抜けないわけもなく……そうなれば、二人の未来は永遠に断ち切られてしまうだろう。


 しかし、仁威は珪己とともにいるために珪己から赤子を取り上げるつもりはなかった。それだけはするつもりはなかったのである。それではあの桔梗の父親と同じになってしまう。たとえ唯一の生きがいである珪己と離れることになろうとも―― 我欲のために他人の幸福を犠牲にするような人間になるつもりは毛頭なかった。


 珪己と共にいたいがために、仁威はこれまで頑なに守り通してきた自分の主義や哲学に反してきた。その自覚は大いにある。特にここ零央では。しかし、この一点については譲るまいと決めていた。


(だからこそ俺は……あいつは、未来について語ることをやめてしまったんだ)


 だからこそ愛し合う二人の間から言葉が欠け、しまいには失われてしまったのだが――仁威は今、現状を打破する決意をしていた。とうとうその決意をするに至ったのである。


(楊枢密使……あなたの真心に甘えさせてもらってもいいでしょうか)



 *

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