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3.2 幸せならば

 習凱健が二人のもとを訪れたのは、そんな初夏のとある午後のことだった。


 この日、氾兄弟はそれぞれの任務や修行のために常のごとく不在だった。晃飛も今日は道場での稽古はなく、朝から泊まりで出かけていた。そんなこの家に凱健は突如として現れたのである。


 なお、凱健がやって来た時はちょうど赤子が寝ついた直後で、珪己は縁側で琵琶を弾いて過ごしていた。そして仁威は誰もいない道場で架空の敵を想定した鍛錬に取り組んでいた。二人きりの時間において言葉はほとんど失われており、お互い相手のそばにいないことを選択するようになっていたのだ。さながら離縁する覚悟を決めた夫婦のように。当然、寝室は別となっている。


「ごめん」


 そう言って正面から堂々と入ってきた凱健は、薄く扉を開けた仁威に対して小さく頭を下げた。


 体つきや気配から、男の正体を仁威は察した。そして凱健が顔を上げれば推察は確信に変わった。一目瞭然だったのだ、その口元に黒子を模した入れ墨を認めれば。


「私は習凱健。侍御史じぎょしを拝命している」


 あっさりと自らの素性を暴露してきた凱健は、つと家の奥の方へと視線をやった。


「立ち話では済まないから入れてもらえないか」


 だが仁威が断るよりも先に、凱健が猛禽類を思わせる顔をふとやわらげた。


「ああ……いい音色だな」


 芸事には縁のなさそうな顔だが、侍御史ほどの高位にあれば音楽を理解できるのも当然か。糸を手繰るように相手の素性を固めていく仁威に凱健は断言した。


「安心してくれ。私は君達に危害を加えるつもりは毛頭ない」


 琵琶の音の感想からの自然な流れで言い切る潔さ――そこには真実の色が存分に含まれていた。少なくとも仁威にはそのように聞こえた。だから迷いを捨てて凱健を扉の内へと引き入れた。正直に言えば、このようなところで立ち話をされれば困るのはこちらの方だ。


 とはいえ母屋には入れたくないので、扉の前で凱健の前進を拒む。


 立ち止まった二人のすぐそばに蝉が止まった。じーじーと、まるで耳元で鳴いているような大音量に遮られて、珪己の奏でる琵琶の音が一切聴こえなくなった。


「なぜここに来た」


 警戒を解かない仁威に対して凱健は至極冷静だ。


「大切な話がある」


 そしてさらりと付け加えた。


「君は近衛軍第一隊の元隊長、袁仁威だな」


 無表情を貫く仁威に、凱健が控えめな笑みを浮かべた。


「夏の環屋かんやでの事件、あれは目立ちすぎたな」


 これに仁威の目がすうっと細められた。睨むというよりも相手の真意を探る目つきで。


「……俺に何の用がある。俺はもう禁兵ではないが?」


 本人が述べたとおり、仁威自身は御史台に捜索されるいわれはないと思っている。自分のことを捜しているのは芯国の王子、それに侑生ゆうせいや楊玄徳くらいだろう、と。その三人についても、誰もが珪己の行方に紐づく要素として自分を捜しているだけだろうと思っていた。ただし芯国の王子については復讐の要素も絡んでいるはずだが。


 だから、仁威はこの頃では一つの確信に近い推測を有していた。珪己にも晃飛にも言っていないその推測、それは――。


『皇帝は御史台を使って珪己を捜しているのではないか?』


 仁威は皇帝の人となりをそれなりに理解している。


 身近で幾度も接してきたからこそ分かるのだ。


 一年前の初春、後宮において王美人が引き起こした事件においても、皇帝は珪己を救出するために何年も足を踏み入れていなかった後宮に乗り込んでみせた。そして救い出した直後には心配のあまり珪己を抱きしめている。


 普通の皇帝はそんなことはしない。だがそんなことができる人物なのである、あの趙英龍という男は。皇族にあだなす犯人を釣り上げるために一人の娘を利用しただけ――そう割り切ってしまえる立ち位置にあるはずなのに。


 そして彼――皇帝は、女人を弄ぶような軽薄な男ではない。


 であれば。


 芯国の王子・イムルに狙われており、かつ一度抱いた珪己のことを、どうにかして捜し出し保護しようと考えるのは当然のこと、そう仁威は思うようになっていた。そこに自分が珪己に抱くような感情があるのかどうかまでは分からないが。


 だから、長雨が終わった直後からこの家が御史台に監視されている気配に気づいて以来、仁威は常に最大級の警戒心を抱いて過ごしてきた。先ほどまで道場で対峙していた架空の敵も実は御史台だ。


 ならばなぜ仁威は珪己を連れてこの家を出なかったのか?


 それには二つの理由がある。


 一つは、御史台が本気を出せば三人の行方などすぐに見つけられてしまうからだ。赤子と、出産したばかりの珪己を連れての旅となると、どれほど注意を払っても目立ってしまうのは必定だ。


 そしてもう一つの理由とは、『珪己がここにいること』『皇帝の子を産んだこと』が知られているのであれば、問答無用でこの家に大勢で乗り込んでくるはず――そう考えているからだ。


 だが今日のこの日まで、御史台はこの家に注意を払っているようであったが、何ら行動を起こしてはこなかった。だから仁威は確信していたのだ――『それらの事実』は一切漏れていないと。


 実際、毛の一件以来ほぼこの家に引きこもり、情報を表に出していない以上、露見する理由は一切ない。唯一、晃飛だけは詳細を知っているが、あの晃飛が口を割ることもありえない。それもまた確信だ。信頼ではなく。


 そして今もわずかな時間しかたっていないが、仁威は新たな推測を得るに至った。どうやら目の前の男は自分の素性しか知り得ていないようだ、と。


 まだ少ししか時間が立っていないのに、仁威の全身からじわりと汗が湧き出てきた。風の通らない奥まった場所にいるせいだろう。一人稽古をしていたからでもなく、侍御史と対峙しているからでもなく。


「環屋での『あれ』は正当防衛の範囲だと思っている」


 夏の事件についてあらためて仁威が言及すると、「それは分かっている」と、同じく汗をかく凱健が懐から手巾を出して顔を丁寧にぬぐった。その手の動き、指の太さ、職位……どれをとっても凱健が武に長けていることは明らかだった。さすがは侍御史といったところか。


「ちなみにこの家に住む五人についてはあらかた調べがついている」


 だろうな、と思ったが口には出さない。


 凱健もまた仁威の反応を気にせず続けていく。


「梁晃飛、氾空斗と氾空也。そして君、君の妻らしき女人。……ああ、子が産まれたのだから今は六人だな」


 知人の名が呼ばれるたびに心に波が生じそうになるが意識して押さえこむ。


(この男と闘って俺は確実に勝てるか……?)


 つうっと汗が瞼のそばを伝っていった。目覚めそうになりつつある闘気をごまかすべく、袖で額の汗を乱雑にぬぐった。


 と、絶え間なくつづく蝉の鳴き声に紛れるように、赤子が鳴く声がかすかに仁威の耳に届いた。腹が減ったのだろう、威勢のいい声で叫ぶように泣いている。先ほど寝たばかりだというのに、今日はやけに早く目が覚めてしまったようだ。


 凱健が唐突に言った。


「私はある方に君達のことを頼まれている」


 仁威の体が瞬時に凍り付いた。


 脳裏に描かれた人物――それはもちろん、皇帝・趙英龍だ。


 そして腹立たしい悟りが高速でひらめいた。この幸せは薄氷のごとき淡く儚いもので、どんなに固執しても、お互いが望んでも、強い存在の前では木っ端みじんに打ち砕かれるしかないのだ……と。


 だが凱健は絶望を通告しようとしているわけではなかった。


「君が幸せそうならばその幸せを見守ってほしいと言われている」

「……は?」

「それは君のそばにいる者、特に若い女人に対しても同じだそうだ」


 言葉を理解し、『ある方』の正体を正確に察し――張り詰めた仁威の心がいとも簡単に溶けた。続けてじんわりと温かい感情が胸の内で広がっていった。


(そんなことを言ってくださる方はあの人だけだ……!)

(あの人しかない……!)


 だからこそ、感動とともに強い悔恨を覚えた。心が一気に冷えた。


(……あの人にとって珪己は大切な一人娘なのに)

(……なのに俺がここに引き留めているせいで会わせてやれないのか)


 自分がここに存在することで一人の人間を悲しませていることに、仁威は今更ながら気づいてしまったのだった。


 いや、なにも仁威が無理やり珪己をここに留めているわけではない。仁威が望むのと同じくらい珪己も望んでくれていて、それゆえこの隠匿生活は続けられているのだから。だが仁威が珪己の前から姿を消せば、珪己は最終的には開陽に戻る他ないはずで……。


(俺はなんて自分勝手なんだ……!)

(愛する女をこの手から離したくないばかりに……!)

(楊枢密使……! 俺はあなたになんてひどいことを……!)


 苦し気な表情になった仁威に凱健が気づいた。だが指摘することはなかった。代わりに、言葉を選ぶようにしながらもこう問いかけた。


「君も君の妻も、今は幸せなのだろう?」

「……は?」


 仁威は戸惑った。


 妻――その世俗的な言葉がすんなりと頭に入ってこなかったのである。


 ややあって珪己のことだと合点がいった。いや、実際には珪己は妻ではないし、婚姻という名の絆などなくても困ることはないのだが。さらに言えば、皇帝の子を産んだ珪己をそういう大衆的な概念で縛ろうという発想が仁威にはなかった。とにかく今日一日を無事に過ごせれば十分――そんな風に思っていたのである。


 だが――。


「幸せなのだろう? 君も。君の妻も」


 重ねて問うてくる凱健に仁威はなぜかうなずいていた。


「……ああ」


 そしてはっきりと言葉に出したことで、仁威の中で新たな覚悟が芽生えた。


 いつまでも珪己と共にいたい、開陽には返したくないと。


 そのような強い想いで結ばれた男女の関係性を『夫婦』と呼ぶことが正しいのならば、まず間違いなく珪己は自分にとっての唯一の妻だった。そして自分こそが珪己にとっての唯一の夫なのである。


 ――この幸せを壊すことは誰一人として赦されない。

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