3.1 悩み
晩春恒例の長雨が半月ほどで終わると、雲の中で身を潜めていた太陽はすぐさま生来の力強さを取り戻した。季節は分かりやすく夏になったのである。
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氾空斗は今も五番隊の武官としての任を務めている。都の一員であった頃よりも精力的に活動しているほどだ。五番隊の人間は肉体的にも精神的にもひ弱で、そこに禁兵である自分がいることには大きな意味があるように空斗は思っていた。なお、禁兵が廂兵になることを『落廂』という。落ちる、と表現するだけあって、そういう武官は軽んじられるものなのだが、空斗は禁兵のまま派遣という形で勤めているので待遇はそれほど悪くなかった。
弟の氾空也は昼前から夜遅くまで肉麺屋で修行にあけくれている。以前は周囲が暗くなるまでには帰宅するようにしていたが、ある日、戻りが遅くなってしまった時、珪己と仁威が仲睦まじい様子で過ごしている場面に遭遇し……それ以来帰る時間を遅らせていた。疎外感のような、割り切れない寂しさのようなものを感じつつ。
(死ぬ時は一緒だって言い合ったからって俺が特別な男になるわけじゃないし)
(はあ……こういうことを考えちゃうのって女に免疫がないからだよなあ)
一度妓楼に行くべきかと真剣に考え始めていたりもする。
(こういうの、いい年齢になったら笑い事になるんだろうけどなあ……)
梁晃飛はといえば、長雨の時期が終わるや泊りがけで出かけるようになった。一泊の場合がほとんどだが、たまに数泊することもある。だが、どこに何の目的ででかけているかは決して言おうとしない。誰に対しても完全に黙秘を貫いている。
そんな晃飛が一度、赤子を抱かせてもらっている時に何の気なしにこう言ったことがある。この子の目、きりっとしてていいね、と。妹に似て強い子になりそうだね、と。
これに珪己は唇をぎゅっと噛んだ。まるで何かの苦痛に耐えるかのように。
やってしまった、と後悔してもすでに遅し。珪己は赤子を受け取るや無言で自室に引きこもってしまった。事情は後から仁威に教えられた。あの目は父親譲りなんだ、と。
「……ごめん」
これに仁威はゆるく首を振った。だが影のある表情に、仁威もまた赤子の身体的特徴を少なからず気にしていることに気がついた。
「二人が最近ちょっと暗いのって、それが理由だったりする?」
仁威はこれに何も言わなかった。……言えなかったのだ。
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赤子は順調に、すくすくと育っている。
まだ床を這うことはしないが、産婆の雨渓いわく「この子は床を這うようなことはしないのさあ」とのことだ。突然立ち上がり、とてとて歩き出すのだろう、と。
だがこの赤子、まだ名はない。
眠る時間が減り、目をひらいている時間が増えたことで、珪己と仁威は赤子の特徴の一つに気がついた。いや、気づかざるを得なかった。そう、その目が大きく、二重で、つり目なことに。まさに皇帝・趙英龍とその実子・菊花をほうふつとさせる双眸だった。
このことがきっかけで珪己と仁威の口数は自然と減っていった。四六時中そばにいる赤子に皇帝の気配を感じればそれも無理はない。皇帝であり、赤子の父親である趙英龍――そのような重い存在感を示す人物のことを、これまで二人は幸福にひたるがゆえに考えないようにしてきた。だが、赤子の無垢な双眸に見つめられることで自分達の罪を自覚させられたのである。本来であれば無条件でひれ伏すべき存在に対して出産したことを黙っている自分達の罪は――相当重い。
そして晃飛からの指摘をきっかけに二人はまたも隠匿した生活に逆戻りした。家屋と庭、そこから一歩も外に出なくなったのである。あれほど自由を尊んでいた珪己ですら一日に一回の外出を取りやめ家に引きこもることを自ら選んだほどだった。
今では愛する二人の間にはひりつくような緊張感が常に走っている。
なぜこのようなことになってしまったのだろうか。珪己の側にも仁威の側にも言い分は数多くある。双方、深く愛し合っているのだと。愛し合うに至った理由があるのだと。それほどまでに強い想いを二人が抱いていることは嘘偽りのない事実だった。
だがそれこそがこの国の頂点に立つ皇帝を欺くことになり、それこそが赤子の父である一人の人間から幸福を奪う結果となっているのも事実だった。
赤子の目が次第にくっきりと見開かれるようになればなるほど――それに相反するかのように寄り添う男女の心に澱が沈んでいき、純愛ゆえの曇りなき眼にはいつしか一寸先の未来すら描けなくなっていた。
(やはりこの子は陛下に渡すべきなのかもしれない)
(私達は共にいるべきではないのかもしれない)
気が緩んだ隙に弱気が口から零れ出そうで、珪己は四六時中唇を噛むようになった。毎夜柔らかく溶かされていた唇が荒れ、時折血がにじんでも、珪己は唇を噛むのをやめなかった。
実は――珪己には他にも悩みがあった。武芸者としての道をこれからも追及していくべきか否か、決めかねていたのである。
体調はほぼ回復しているから、これからも武芸を続けるのであればそろそろ稽古を再開すべき時にきていた。
何もせずにいれば筋肉は衰えるし勘も業も鈍ってしまう。いや、イムルの件がまだ片付いていない限り、護身のためにも稽古は続けた方がいいことは珪己にも分かっていた。
だが赤子に乳を与える行為は珪己が長年抱いてきた闘争心を萎えさせてしまった。しかも隣には初めて想いを通じ合わせた男もいて――そんな日々に剣を持つ時間を作る気になかなかならずにいたのである。
そうしていたら――今のような状況になってしまったのだった。
武芸者であり続けるか否か、それは珪己にとっては非常に重要な課題だ。珪己が半生を懸けて打ち込んできたものであり、人生の指針、生きるための手段でもあったのだから。
しかし今は開陽にいた頃の自分とは違う。武芸さえ続けていれば満たされていた自分ではなくなってしまった。それゆえ、今の生活を捨てるか否か、つまり仁威と別れて開陽に戻り後宮に入る未来をとるべきか否か、そちらの方に思いが至ってしまうようになってしまっていたのである。




