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2.5 もう離さないでいてくれ

 背を丸め、仁威がくつくつと笑い出す。なんとかこらえようとするが、なかなか波は引いてくれないようだ。


「あの……」

「ああ。すまない」


 強い笑いによって涙が浮かんだ目尻をぬぐいつつ、仁威が朗らかな表情で珪己の頭を抱きよせた。


「あ、あのっ」

「お前のようにかわいい女を俺は知らない」


 抱きしめるたびに、珪己はいまだに体を硬くする。そんな初心なところも仁威はかわいいと思っている。それこそが皇帝とのたった一夜の関係が無価値であることの証に思えるのだ。


 抱きしめていると、蕾がほころんでいくかのように珪己の体から力が抜けていくのも愛らしくてたまらない。今も珪己の体はゆるゆるとほどけていき、最後には完全に自分に身を委ねてしまった。これこそが自分への好意の証なのだ。


 だから、想いが通じあってからも、仁威は珪己に何かを欲したことがなかった。直接的な愛の言葉だとか、抱きしめ合うこと以上の触れ合いといったものを。


 先ほど仁威が珪己に口づけたのは衝動に近い。どうしてか急にその衝動が抑えられなくなってしまったのだ。


 その直後の珪己の一連の発言は、だからこそ仁威にとっては強い刺激となった。『ずっと同じ部屋で眠って』と突飛なお願いをされ――沈静化していた青臭い欲が覚醒してしまったのである。


 だが。


 そこから言い訳めいた口調で想いを吐露していく珪己が、これまた想定外にかわいらしくて、愛しくて――胸の奥がくすぐったいくらい幸せで。


 仁威はとうとう笑ってしまったのだった。


「お前のような女とともにいられて俺は幸せだ」

「わわ、私っ」

「分かった、分かった」


 なだめるように背中をさすってやる。


「寂しい思いをさせて済まなかったな」

「わ、私」


 慌てふためく珪己をあらためて抱きしめ直し、その頭頂部に顔をうずめる。


「実を言うとな。俺もお前と一緒にいたい。朝も夜も、ずっと」

「……ほんとですか?」


 疑い深い珪己の物言いに、仁威は一層愉快で幸せな気持ちになった。


「ああ。本当だとも。どうやら俺はもうお前のそばから離れられないようだ」

「だったら……やっぱり一緒にいればいいじゃないですか」


 言うや、珪己が仁威の背中に両手を回してきた。


「今夜は離しませんよ」


 女の力ではあるが全力でしがみついているのは伝わってくる。


「今夜だけじゃありません。ずっとずっと……離しませんから」


 ぎゅうっと、力の限り抱きしめられ、仁威はこれ以上ないほどに穏やかな気持ちでつぶやいた。


「……ああ。もう離さないでいてくれ」


(そしていつか……)


 しかし、それ以上のことは言葉にはならなかった。それ以上は求めても口に出してもいけないことは分かっていたからだ。


 すべてを捨てる覚悟をし、死に至る寸前にまで追い詰められていたあの頃に比べたら、今は泣きたくなるほど幸せで……。


 なのにあれもこれもと欲しがるのは愚者のすることだ。


(それに珪己は俺一人のものではない)


 桔梗の父親に対して述べたことを、仁威はいまだ忘れてはいなかった。


『人間は自分のために子を産むんだ』と、酒臭い息を吐きながらまくしたててきた父親に仁威はこう返している。『誰もが等しく幸福に生きることができるべきだ』と。


 ただの理想かもしれない。だがそうであってほしいと願う自分を仁威は今も否定できずにいた。


 誰もが誰かと関わり合いながら生きている。


 そして誰もが己が生に大輪の花を咲かせられればと願っている。


 この矛盾ゆえに、間引くように、むしられるように、大半の人間の夢や願いは散らざるを得ず、それこそがこの世の不条理というものなのだが――。


 しかし、たった一つの生なのだからできれば最上の人生を送りたいと願ってしまうのは人として当然の欲だ。実際、仁威も極限まで追い詰められた結果、こうして零央に戻り珪己のそばから離れられずにいるのだから。


 だが――。


「仁威さん?」


 どうかしましたかと目線で問いかけてきた珪己に、仁威はやるせない胸の疼きを覚えた。


 しかし何も言わず、珪己の額を胸元にそっと押しつけた。


(大切だからこそ……愛しいからこそお前の幸せを奪いたくないんだ。お前が本来得るべき幸せを)


 言いたくても言えないことを隠すかのように、仁威は珪己の頭を抱えるように抱きしめ続けたのであった。


 

 *



 この夜以降、仁威は嫌な空想、妄想に怯えることがなくなった。いたずらに焦ったり考えすぎたりすることもなくなり、この家、そして零央の街から出ることを同居人に相談することもなくなった。


 珪己も寂しさを感じることが少なくなった。珪己が精神的に満たされたのとほぼ同時期に赤子の夜泣きも不思議と減り――初めての出産、育児に気負っていた珪己の心はさらにほぐれていった。


 そんな二人の変化は、相乗効果のようにお互いへの想いを深めていった。


 だがそれは熱情に翻弄された激しいものではなく、どこまでも静かで深い想いだった。


 二人が見るからに落ち着いたことで、家の中の空気が格段によくなった。これなら大丈夫だろうと、同居する他の男三人は、次第にそれぞれの考えのもとに屋外での活動にさらに時間を割くようになっていった。そこは想いが通じ合ったばかりの二人に遠慮したのもある。





 そして冬は終わり、短い春はあっという間に過ぎ――。


 湖国では芯国人の入国条件が緩和され、多くの商人が通行証片手に開陽に押し寄せ始めた。自国特有の熱気をまとい精力的に闊歩する商人達にあてられたかのように、この夏、開陽はこれ以上はないというほどに賑わった。


 だからたとえその中に深海を映したような瞳を持つ青年が紛れ込んでいようとも、誰も気にとめることはなかった。さながら焼け石に水と言わんばかりに。


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