2.4 釈明
頬を赤らめた珪己に仁威がほほ笑みを向けた。
「そ、そういえば」
胸に手を当ててとっさに制してしまったのは、その笑みが有する破壊力のせいだ。誰に説明されなくても、恋にうとくても、その笑みが特別なものであることくらい分かるから……。
「どうした?」
ああもう、胸が高鳴りすぎて、息苦しくて仕方がない。そんな風に優しく見つめられるだけで体が溶けてしまいそうだ。だけど本当はもっと見つめてほしい、触れてほしい――そんな不埒なことを考えてしまっている自分に驚きつつ、
「あ、あの。そう! 思い出したんですけど」
珪己は適当に語り出していた。
とはいえ、つい思い出してしまったあの初めて口づけをした夜については触れたくなかったから、
「覚えていますか? 普段笑わない人が笑うと怖いからやめてくださいって、そう私が言ったことを」
これまた思いつきで言ったところ、なぜか仁威が破顔した。
「ああ。よく覚えている」
これに珪己は顔を伏せ、額を仁威の胸板に寄せた。
(だからその笑顔が眩しいんです、素敵すぎて苦しいんです……!)
しかしそんなことは口が裂けても言えない。
だが珪己の動揺もなんのその、仁威の方は思い出話に花を咲かせ始めた。
「あの頃からお前は生意気だったよな」
「生意気って……」
どうやらせっかくの甘い雰囲気を台無しにしてしまったようだ。これに珪己が内心落胆していると、
「あの頃からお前はちっとも変わっていない」
そう言って、仁威が懐かしむような表情のまま珪己の手をとった。
「だがそんなお前も今は……」
仁威の視線が部屋の隅で眠る赤子へと移動した。するとあれほど柔和であった顔つきも雰囲気もはっきりと硬化した。
「……どうしたらお前達のことを護りきることができるのだろうな」
結局、仁威が今もっとも気にしていることとはこれに尽きるのだった。
「お前達に何かあると思うと……怖くなる。一人、部屋で眠りにつく刹那、ふと嫌な妄想が頭をもたげてくるんだ。どうしてこれほどと嫌になるくらいにな」
自分よりも細い珪己の指を愛おしむように指先でもてあそびながら、仁威はこのところの最大の悩みについて自然と語っていた。それはさながら、愛する者の唇に触れることで秘めていた封印の一つが解かれたかのようだった。
「このままここにいて何もせずにお前達を奪われるようなことがあったら……俺は一生我が身を呪うだろう。だからといってここを出ることが正解とも思えずにいる。何が最良の選択なのかが分からないんだ」
「仁威さん……?」
「もう二度と間違えたくないんだ」
この吐露一つとってもあの事変について仁威が今も罪を感じていることは明らかだった。しかし、いつものように軽く流すことも説き伏せることも珪己にはできなかった。
(あの時のことを罪と思わずにいられない……そういう人なんだわ)
手の内でもてあそんでいる珪己の指先を凝視する様がいつになくか弱い存在に映った。
(そんな風に思わないでって何度も言っているのに……)
それでも罪の意識が消えないのだとしたら――その罪を否定するだけでは駄目なのだろう。そう珪己は思った。否定するのではなく、その罪を共に認めなくてはならないのだろう。そして、その罪を抱える仁威のことを丸ごと受け入れてやらなくてはならないのだろう。
今、仁威はひどい空想に悩んでいると吐露した。毎晩、就寝前にこうして珪己の部屋で語らった後、自分の部屋に戻り寝台に横になり――それから悪い方向へと思索の糸が紡がれていってしまうのだと。
(どうしたらこの人の心を軽くしてやれるんだろう……?)
と、珪己は一つの良案をひらめいた。
「でしたら今夜はここで寝てください。いえ、ずっとこの部屋で寝てください」
「……は?」
予想外の反応に仁威が顔をあげた。ずっと眉をひそめていたせいで、その眉間にはくっきりと皺が残っている。
「それは……どういう意味だ?」
どうしてここまで驚かれなくてはならないのだろうと思いつつも珪己は説明した。
「え、と。一人にならなければそうやって考えすぎなくて済むのかな、と思ったんですけど……。変ですか?」
「だからそれは」
「あ、でも、この部屋は居心地が悪いですよね。三人だとちょっと狭いし、夜も赤ちゃんが泣くからうるさいし。でも一人になるよりはいいかなって……そう思ったんですけど……」
喋っていて、珪己は自分で自分に呆れてきた。確かにこれは仁威も驚くはずだ。なんて子供っぽいことを言ってしまったんだろう。こんな適当な思いつき、言われた人は誰だって困るに決まっている。実際、仁威の顔は驚愕で彩られているし、その驚きがいつまでたっても続いている有様だった。
「そんなに小さな寝台でもないし、二人で寝ても大丈夫かと思ったんですけど……。すみません! 変なことを言ってしまいました!」
先手とばかりに謝ってみせたものの、これに仁威が予想外に真剣な面持ちで言い募ってきた。
「俺はそんなことは言っていない」
では気に障ることを言ってしまったのだろうと、珪己はとっさに別の案を提示した。
「だったら晃飛さんの部屋で寝るようにしてみたらどうですか。晃飛さんの部屋ならうるさくないですしこの部屋よりも広いですから」
「だから……どうしてそうなるんだ」
苛立たしそうに、仁威が自分の頭を片手でかきむしった。
「さっきお前が言ったこと……あれはどういう意味か分かっているのかと訊いているんだ」
どうやら、さらに余計なことを言ってしまったらしい。
「あの! 決して赤ちゃんの世話を押し付けようとしていたわけでは!」
別の方向で勘違いされていたのかと慌てる珪己に、「だからそんなことは言っていないだろう」と即座に仁威が切り返してきた。その言い方がやけに冷淡に聞こえて、珪己は唇を一度結ぶと意を決して打ち明けた。
「あ、あの。私が一緒にいたかっただけなんです。ほんとは私があなたと一緒にいたかっただけなんです……」
言いながら、頬がまた熱を帯びていくのを感じた。
もう目を合わせることもできない。
「子供っぽいことを言ってしまってすみません。もう母親なのに……」
言いながら、なんだか泣きそうになってきた。
凝視する視線を感じ、珪己は頬に手を当てた。触れれば、そこはやはり熱をもっていて、恥ずかしさばかりが膨らんでいった。
「こんなことを言うのは恥ずかしいんですけど、私……初めてなんです。人を好きになるのが」
何も言わない仁威に、珪己はとうとう両手で顔を隠した。
「どうすればいいのか分からないんです。どういうふうにするのが正しくて、どういうふうにするのが間違っているのかも分からなくて……。今の私、絶対に変なんです。あなたとずっと一緒にいたくて、離れるとすごく寂しくなって……なんだか子供に戻ったみたいなんです。こういうことを言うと、困らせたり、嫌われるかもって……そう思うんですけど……」
いつまでも無言を貫く仁威に、珪己は両手の奥で瞳をきつく閉じた。
(……やっぱりこんなこと言わなければよかった)
だが後悔しながらも、珪己の口は勝手に釈明を続けるのだった。
「私のことを好きかもしれないと勘違いしたって、前に言ってましたよね? 開陽で、宮城からの帰り道で」
「あ? ああ」
「もしもまた勘違いかもって思ったら、その時は正直に言ってくださいね。私と一緒にいることが面倒になったり迷惑になった時も絶対に正直に言ってくださいね。ね?」
話に夢中になっていた珪己が顔を覆っていた両手をようやく下ろすと、仁威はぽかんとその口を開けていた。しかも第一声がこうだった。
「お前……かわいいな」
「はえ?」
変な声が出てしまい、珪己はとっさに口を抑えた。
これに仁威がぷっと吹きだした。




