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2.3 私、この人に愛されている

 この件については、仁威は晃飛とも幾度も会話をしている。


「俺と珪己はいつこの街を出るべきだろうな」


 この街に留まれば、どうしても氾兄弟に迷惑をかけてしまう。何もしなくていいと今更言ったところで、空也は珪己に、空斗は仁威に深い恩義を抱いているから通用するわけがなく……。


 しかし、空也は芯国の王子・イムルに斬られた過去を有している。そして空也を溺愛する兄・空斗にとってイムルは最大のかたきだ。


 そのイムルと深い因縁のある人間がそばにいることは果たして正しいことだろうか――?


 であれば珪己と自分はこの街を去り、氾兄弟の前から姿を消すべきではないか――?


 仁威が気にしているのはそこだった。


 だがこれに晃飛は常に怒ってみせるのだった。「まだそんなことを言ってるの?」と。


「俺達、もう運命共同体でしょ? それに俺のことはどうするの? 俺は仁兄のこともあの子のことも兄妹だと思ってるんだからね。一度結んだ契りを反古にしようなんて、そんな勝手はゆるさないよ。俺だけ置いて行くなんて絶対にゆるさない」

「だがな」


 氾兄弟相手と違い、晃飛に対しては仁威はもう少し複雑な表情を見せる。それは晃飛だけが仁威と珪己の抱える諸事情すべてを理解しているからだ。


 だから晃飛相手にはより深い話を打ち明ける。


「まず間違いなくこの家の人間は御史台に目をつけられてしまっている」


 そしてより恐ろしい推察も。


「だから氾空斗は廂軍に入れられたのだと俺は思っている」


 その一言に晃飛の表情が飄々としたものから真面目なものに変わった。


「それって空斗が人質みたくなっているってこと……なんだよね?」

「ああ。多分な」


 きな臭いこの家の住人全員に対しての人質だ。


「まだ御史台からは何の接触もないし、この家も見張られている気配はないが……しかしそれに気づいてからでは遅いからな」

「でもでも! 仁兄もあの子もここにいた方がいいって! ここにいれば住まいにも食事にも困らないし、俺やあいつらがいた方が護りも厚いだろう?」

「それは……そうなんだが」


 だから迷っているのだ。


「赤ん坊を連れて知らない土地をうろつくのだってよくないよ。まだ床を這いもしない、首も座らない赤ん坊じゃあ、旅は危険だって」

「……それもそうなんだが」

「仁兄、さ。自分だけが一日中家にいるのが後ろめたいんじゃない?」


 晃飛の指摘は、このもやもやとした気持ちの理由の一つであることは確かで、仁威がくっと眉をひそめた。今、男の中で禄を得る職に就いていないのは仁威だけだった。


「ほんと真面目だね」


 晃飛が呆れた顔になった。だがそこには幾分かの労わりの色も見える。


「あのさあ。人生、こういう時期もあっていいんじゃない? 仁兄はずっと走り続けてきたんだから少しくらいのんびりしたってばちは当たらないよ。ね?」



 *



 そしてまた、この話は珪己と二人きりの時にも幾度も持ち上がっている。


 本当は出産を終えたばかりの珪己にこのような神経を使う話をするつもりはなく、自分一人で解決できればそれに越したことはないと仁威は思っていたのだが……。


「私にもちゃんと話してください」


 ある夜、赤子を寝かしつけた直後に膝と膝を突き合わせ、真正面から訴えられたのだった。


 仁威がつい難しい顔になってしまったのは、この乳の香りのする部屋で、健やかに眠る赤子と想いを通じ合えたばかりの女と共にいるからにほかならなかった。このような幸福に満ちた空間では泥臭く不穏な会話は不似合いだ。


 それでも珪己は執拗に仁威の口を割らせようとした。「私達、もう秘密を作るのはやめましょう」「もう後悔したくないんです」と。


「ね、仁威さん」


 頑なに押し黙る仁威の手に珪己の手がそっと添えられた。


「まだ私やこの子のことを護らなくてはいけないって思ってるでしょう?」


 図星ゆえに顔を上げた仁威に、珪己が困ったように眉を下げた。


「私も同じなんですよ。私だってあなたのことを護りたいんです。それにこの子のことは、私とあなたの二人で護りたいんです」


 真摯な瞳で見つめられ――そこでようやく仁威は気がついたのだった。自分がまた間違いをおかしていることに。何も言わずにいることは決して美徳ではないし、心労をかけまいと気を遣うことが逆効果になることもある――それを俺は一度理解したはずなのに、と。


 それ以来、仁威は珪己に包み隠すことなく相談するようになった。赤子は数時間寝ては起きてを繰り返しているから、その合間を縫っての会話だが――そうやって腹を割り、心を添わせて語り合うことで、二人の絆はいよいよもって深まっていった。


 そして、ある日。


 ふとしたことで二人の会話が途切れ――見つめ合った刹那、甘く切ない想いが双方の心に忍び込んできた。日常を取り戻す行為と未来の推測に費やしてきた二人の時間に、唐突に恋特有のときめきが再来したのだ。


 それ以来、仁威は珪己を抱きしめるようになった。


 はじめは恐る恐る、まるで罪を犯すように。


 けれどやがて、それは日々の幸せを再確認するためのものとなっていった。


 抱きしめ合う時、二人はこれ以上ないほどに満たされた。触れ合うことでいまだ戸惑う心がゆっくりと溶けていくのを感じた。


 このような時にこのようなことをしていていいのだろうか、このような運命を背負っているのに恋にうつつを抜かしていていいのだろうか――繰り返される自問のいずれも、恋の喜びの前ではいともあっさりと忘却された。


 特に珪己は、愛し愛されるという初めての経験によって心身ともに満たされていった。仁威に負けず劣らず考えこむ癖のある珪己にとって、数々の障害があるこの恋を認めることは非常に危険なことだ。だが心は確かに仁威を求めていた。声高に願いを叫んでいた。たとえ何があろうともこの人とともにいたい、と。


(もうこの人の前では何も飾らなくていいんだ……)


 仁威の胸に包まれるたびに、珪己は望外の幸せに酔いしれた。


 考えるべきことはいくつもあるし、理性ある頭は警報を発し続けている。この幸せが長く続くことはないだろう、と。けれど、それでも――今この時、この幸せに浸ることの何がいけないのだろう。そういう開き直りにも似た気持ちになるのだった。





 これほどまでに運命的かつ奇跡的な恋を、若気の至りだとか恋の熱病だといった言葉で片づけられるわけもなく。


 今日も珪己は仁威の腕に抱かれて夢見心地となっていた。


 どうしてこんなに気持ちいいんだろうと思いながら。


 すり、と襟元に頬を寄せれば、衣ごしでも確かな温もりが伝わってくる。寒いわけでもないのにこの温もりが心地よくてたまらない。まるで中毒のようだ。だがこのような甘い毒、拒むなんてことは不可能で――。


「ずっとこうしていたいです……」


 たまらず珪己がつぶやいた時だった。


「珪己……」


 甘くかすれた声でささやかれ、珪己が少し顔をあげると、仁威が切なげな視線を送ってきた。


「珪己……」


 もう一度名を呼ばれ、愛しい人の顔が近づき――。


 唇と唇が、触れた。


 表面をかすかになぞり、それは惜しむように離れていった。


 想いが通じ合って初めての口づけだった。


「仁威、さん……」


 一度、珪己は仁威に乱暴に口づけられたことがある。当時、仁威は珪己にとっては上司の域を超えない存在だった。しかもその直後、仁威はこう言ったのである。「好きかもしれないと思ったが勘違いだった」と。


 その後あっさりと、まるで捨てるように馬上から降ろされて――それ以来、仁威と珪己は二人きりで過ごしていても色恋的な雰囲気になったことはなかった。まあそれも当然といえば当然だ。あの日の口づけこそが異常だったのだから。開陽においても、ここ零央においても、仁威は珪己を保護する人間とみなしてきたし、それは仁威が楊武襲撃事変における罪を告解したことで確固たるものとなっていた。二人の関係は確かに特別だが、愛を語り合うことはゆるされない――そんな関係に。


 しかし今――あの日、あの夜とは何もかもが違っている。


 仁威から向けられる熱のこもった視線も、二の腕に触れている手のほどよい力加減も、背に回されたもう一方の手の動きも。この人は私のことを好いてくれていると自惚れではなく実感できた。


(私、この人に愛されている……)

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