1.1 闘いが終わって
【前作までの話】
開陽に隠れ住む少女、楊珪己は皇帝の子を身ごもってはいるものの武官としての上司・袁仁威に恋している。
大けがを負った義理の兄、梁晃飛とともに零央の街で仁威の帰りを待つ珪己だったが、ある日、氾空也とともに外出先で幼子に横暴なふるまいをする十番隊の男達と遭遇する。
空也は開陽で芯国の王子・イムルに斬りつけられた恐怖に動けなくなるが、珪己がその男達を倒す。
だがこれに激怒した十番隊は空也を攫い、拷問する。
空也を救出するため、珪己は身重の体で単身十番隊の根城へと乗り込む。
家にいるはずの珪己がいなくなり慌てる晃飛は、弟を心配するあまりおかしくなった氾空斗にあわや殺されかけるが、そこに袁仁威が戻ってきて事なきを得る。
仁威は平静を取り戻した空斗とともに珪己と空也を救出しに向かう。
珪己と空也は十番隊隊長・毛との戦いで満身創痍の状態だったが、突如現れた仁威によって最大の敵である毛が倒される。
そして珪己と仁威はお互いへの愛を伝えあい、抱きしめ合う。
本作はこの闘いの直後の場面から始まります。
憑き物がとれたように、この場の雰囲気が正常なものに戻りつつある。
純然たる悪意を放ち続けた毛が敗れたことにより、もっとも大きな山場を乗り越えたという達成感、それに安堵の気持ちを、今、この場にいる全員が共有していた。
楊珪己と袁仁威の永遠に続くと思われた片恋もいまや昇華された。二人の胸には尊くも幸福に満ちた想いが溢れんばかりに満ちていた。恋ばかりが人の喜びではないが、確かに今、二人は人間が得られる極限の喜びを甘受していた。
そのような中、氾空斗と韓は気を失ったままの氾空也にかかりきりになっている。
「左手の人差し指が折れているな。それに足首の靭帯をやられているようだ」
一度は死を覚悟した韓も、すっかり医師としての自分を取り戻している。
「歯が一本抜けかけているが、固定しておけば自然とくっつくだろう。顎の下の傷は……肉が見えるが、これも実際には大したことはないだろうな。ふむ、命に別状はなさそうだ」
「そうですか……。ああ……よかった……」
正直、命が助かっただけでもよしとすべき状況である。あの悪名高い毛と渡り合い、この程度ですんだのだから。
「とはいえ心配だな」
「と、言いますと」
「怪我もそうだが、冷えで体調が悪化しそうだ」
韓の懸念はもっともだった。
夜ともなれば気温が氷点下以下となるこの時期、そしてこの時代、風邪をこじらせた末に命を落とす人間は珍しくなかったのである。
なのに、空也の着衣も髪も沓も、すべてがぐっしょりと濡れていた。外套だけは空斗の着ていたものと交換しているが、早急に着替えさせ体を温めてやらなくてはならないのは明白だった。
「さて。次はあの娘を診るか」
まずは重傷かつ気絶していた空也の診断を優先していた韓だったが、次に診るべきは当然、身重の珪己だ。だが「よっこらせ」と言いながら韓が立ち上がるのとほぼ同時に、背後から当の本人によって声がかかった。
「先生。私は大丈夫です」
振りかえれば、仁威に肩を抱かれているものの、珪己は自分の足で立つことができていた。表情にも特段問題はなさそうである。
「そうか」
端的な返答以上に韓が嬉しそうにうなずいた。
男物のだぼだぼの外套の中から顔と手の指先だけをのぞかせた珪己のことを、頭一つ上の位置から仁威が満ち足りた表情で見おろしている。愛おしい者を見るその目はとても柔らかい。外套を珪己に貸していても寒さなどちっとも感じていなさそうだ。
大切な者のために自らを削りたくなるのは人としての性なのかもしれない――二人の姿を見た空斗はそんなことを思った。俺も今ちっとも寒くないしな、と。そしてこんなことも思った。俺もこの人も、きっとこういうことで我が身を滅ぼしてしまうんだろうな、と。命を落とすんだろうな、と。だがそんな結末を不幸とは思わないんだろうな、と。
そんな不吉なことを――なぜか思った。
「空斗。お前の弟は無事か?」
「多分、な」
空想の中で自分と同類の人間とみなしたばかりの相手に突然話しかけられ、空斗は動揺しつつも曖昧に応えた。それは不測の事態をつい推測してしまうがゆえの空斗らしい返答だった。
これに仁威がわずかに首をかしげた。なぜなら、武官ならばこういう時には事実のみを語るべきだからだ。なのにどうして――と、その目が無言で疑問を呈してくる。この場でただ一人、武官の証である茶一色の着衣を身に着ける空斗に対して、仁威は無意識に『それ』を求めていた。
「いや、すまない」
察した空斗は今度こそはきっぱりと返した。
「大丈夫だ。命に別状はない」
「それならよかった」
言うや、仁威の表情が言葉と裏腹に引き締まった。
「であれば急いでここを出よう。長居は無用だ」
仁威は毛を痛め過ぎた。いくら毛の方に非があるとはいえ、ここにしかるべき組織の人間がやってくれば、誰にとっても得しない結末となるのは自明の理なほどに。
それは空斗も分かっているから、応じるや、間髪入れずに意識のない空也を横抱きに持ち上げた。かなり重いが、そこは弟の一大事、火事場の馬鹿力を発揮して。
だが、その時。
緊迫したこの場にやけにのんきな声が響いた。
「あっれー。もう終わっちゃったんですね」
まさかの応双然の登場である。
飄々とした表情で室内を眺めていた双然だったが、やがてその顔が悔し気なものへと変貌した。
「あーあ。毛隊長も倒しちゃったんですか」
も、と述べたのは、門前にて倒された男二人をすでに見ているからだ。
(そういえば……。あいつらのこと、捕縛すらしていなかった)
双然に促されて外に出ていく一同の背後では空斗が内心冷や汗をかいていた。今更ながら己の失態に気がついたのだ。こんなことでは武官失格である。
*
双然の言ったとおり、十番隊の男二人は、胴体を縄で縛られ、木の幹にしっかりと固定されていた。
すでに意識を取り戻した彼らは揃ってうなだれている。しんしんと雪が降る中、かわいそうに心身ともに凍えている有様だ。そのそばの幹には、これまた放置していた馬が二頭、手綱を木の枝に結ばれていた。
室内で一人呆然としていた十番隊の男も双然の手によってあっさりと捕縛され、仲間と同じ木に固定されていく。
「もう抵抗する気もないんだ。残念だなー」
梁晃飛を彷彿とさせる軽口を叩きながらも、双然が玄人ゆえの手さばきで大柄な男をあっという間に縛り上げてしまった。
この間、仁威は最小限の気を纏った状態でこの初対面の男の振る舞いを監視していた。
(耳たぶにやや大きな黒子が一つ、か)
だがそれが本物の黒子ではないことを仁威は見抜いていた。首から上、分かりやすい場所に黒子に似せた入れ墨を入れた人間――それは御史台所属の官吏たる証なのだ。それを仁威は知っていた。
御史台は皇帝直属の組織であるから、本来、仁威や珪己にとって双然は非常に都合のいい存在だ。珪己がここ零央にいることを皇帝経由で楊玄徳――枢密使である珪己の父――に伝えることが可能だからだ。御史台は独自の連絡網を有していて、それはこの国でもっとも安全な連絡手段といえた。……というよりも、この時代の一般的な宅配、郵送事情が雑すぎるのだが。
双然の素性を察し、仁威が珪己を支える腕にわずかに力を込めた。
「……あの男は御史台の人間だから余計なことは言うなよ」
耳元でささやかれた内容に驚いた珪己が顔を上げると、これに仁威は念押しするために一度まばたきをしてみせた。
「でも、あの人……」
「知っている奴なのか?」
「一度だけ会ったことが……。でもその時にはこの街の五番隊の武官だって言ってたんです」
珪己が本人から直接そう聞いたのは、まだ昨日のことだ。
「それは仮の姿だろうな」
「仮の……?」
「御史台とはそういうものなんだ」
「どういうことですか?」
ここにきて、また新たな疑問。珪己の頭はすっかり飽和状態に陥ってしまった。
今日はいろいろなことが起こりすぎた――いい意味でも、悪い意味でも。そこに駄目押しのように身元を偽証していた御史台の官吏が登場したのだ、混乱するなというほうが無理だろう。
珪己も当然御史台の何たるかは理解している。しかし、仁威の言うことが本当で、双然が御史台の官吏だというのが事実ならば――どんなに困惑しようが珪己の中で答えは一つしかなかった。
「私……まだ開陽には戻りたくありません」
ぎゅっと眉をひそめた珪己に、仁威が安心させるように小さく笑ってみせた。
「分かっている。お前は俺のそばにいろ」
その笑み一つで珪己の頬が色づいた。
「……はい」
と、恥じらいをもってうつむいた珪己の顔が突如歪んだ。
「あっ……」
「どうした?」
「お腹が、痛くて……」
それは闘いのさなか、いや、それ以前から感じていた痛みだった。
そこに何やら察した韓が近寄ってきた。
「もしや産気づいたか?」
「……これが?」
確かに――波がひけば痛みがまったく残らないあたり、以前教えてもらった陣痛そのものだ。痛いのに、なぜか嬉しいような、怖いような……不思議な感覚が胸にわいてくる。
感じ入る珪己の腹を韓が医師らしい動作で衣ごしになでてきた。
「ふむ……やや腹が硬くなっておるな」
続けて手を取り、脈をはかる。
「問題はなさそうだ。が……さきほどまでのこともあるし早く家に戻ってお産に備えた方がよさそうだ」
長らくお待たせしましたm(_ _)m
【ご連絡】
分割の都合上、本作では話毎に文字数がけっこう違っています。二千文字程度から六千文字程度です。
また、更新は週に一回の予定です。