第九話
「誰でっ──! ……失礼しました。衣服をどうぞ……私達は近寄りません」
沢の反対側、その少し小高くなっている辺りから、二人の女性が姿を現した。
母娘か姉妹か、少し身長と年齢に開きがあるような……その前にまず服だ。
まだ湿っているが……いそいそと布三枚を身に着け、十手を……構えるのは印象よくないよね、軽く握って下に降ろすと、振り返って相対する。
人間の、年の離れた姉妹か母娘といった印象を受けた。
身長はそれほど低くない、ぱっと見るに私より少し低そうな……百六十センチ辺りかな、の細身の女性。
それとまだ明らかに子供、百三十か二十か、小柄な少女。
髪は薄い金髪、かな。光の加減でよく分からない、まとめているようだ。露出は少ないが肌の色は白く、二人共鉈のようなものを片手に、大きな方の女性は背後に弓と矢筒を、小さな女の子は籠のようなものを背負ってるようだった。
あまり汚れていない、それなりにしっかりした服や靴を二人共着込んでいるところを見ると、蛮人というわけではなさそうだが……服に関しては私の方が余程酷いな。
人と出会うのはまだ先だろうと高を括って会話を全く想定していなかった。行き当たりばったりだが、とりあえず交流してみよう。鉈はともかく弓は不味い。逃げて後ろから射られでもしたら目も当てられない。
「お目汚し失礼しました。また、ご配慮感謝致します。私は旅の者です。私の言葉が通じていますか?」
まずはこれだ、相手の言葉は理解できたが私の言葉は──
「はい、通じています。このような所で旅の方に出会うとは思っておりませんでしたので、思わず声をあげてしまいました。大変失礼を……」
通じた。とりあえず安心した。相手の言語は日本語のそれではない。日本語を喋った私と彼女との間で意思の疎通ができるということは、女神様の力は有効だったということにしておいて良いだろう。
「お気になさらずに。このような所で部外者の……ここはもしかしてどなたかの私有地でしたか? そうでしたら申し訳ありません。知らぬこととはいえ大変申し訳ないことを……。持ち物を失い水も食べ物も尽き、這う這うの体でここまで辿り着いたもので……水場に飛び込んでしまったのです」
咄嗟に思いついた文句だ、推敲もなにもしていないが……それらしく聞こえるだろうか。幼子の方は母か姉の一歩後ろに控えて窺うようにこちらを見ている。顔の作りが似ているし、家族であることは間違いなさそうだ。
「この川は町から少し離れた森にある水源の一つです。少し行った所から湧いていますので。管轄は……町か国だとは思いますが、申し訳ありません、仔細は存じておりません。ですが、ここを使用していたことは特に問題ないと思いますよ。この森に入る人間の多くは、この川を拠点にしていますので」
後は、後はなんだ。食べ物は欲しいがいきなりそれは……人里まで案内、いやそれは危険だ。道を聞くまでが精々だろう。
「そうなのですね、この辺りには初めて来たものですから、本当に何も知らなくて……町へはこのまま川沿いに歩いて行けば辿り着けるのでしょうか?」
二人が沢の向こう側からやってきたということは、泉のすぐそばに町があるというわけではないのだろう。
「それでも辿り着けますが、結構な遠回りになりますね。よろしければご案内しましょうか?」
人が良さそうに見えるが、まだ警戒を解いてはいないようだ。当たり前だ、私だってそうなのだから。
正直リスクは大きい。食べ物の確保がなされていない以上、あまりこの地に長居するべきではないのは分かる。どの道沢を辿ればどこかに着くだろうと思ってはいたのだ、遅かれ早かれ町には行き着けるだろう。情報が手に入っただけでも十分すぎるほど、この女性は役に立った。
ここで断るのは不自然ではないか、それを考える。怪しまれて町の警備……騎士団? 傭兵団かもしれないが、とにかく彼女が怪しめば、何かしらの治安維持隊のようなものに私を報告するだろう。『森の中に不審な女がいた』と。
今の私は幼子の方はともかく……不意打ちでもなければ女性の方を打ち負かすことは出来ないと思う。あちらは二人共刃物を持っている。なまじ女性の無力化に成功したところで、それを幼子が指を咥えて見ているとは思えない。二人共この場で仕留めるのは厳しい。土地勘のない私には、片方を逃がせば見つけることはできないだろう。
下手に追跡して沢の位置を見失いでもしたら最悪だ。山狩りでもされようものなら死は避けられない。
時間を使いすぎたか、いい加減答えないと不味い。
「お申し出は大変ありがたく、嬉しく思います。ですが、今の私にはその御恩に報いることができません。貨幣の一枚も持たずに、本当に着の身着のままここに辿り着いたのです。私は自身が得体の知れない女であるという自覚があります」
申し訳無さそうな表情、作れているだろうか。本心から思ってない以上、難しい。得体の知れないのは事実だが、そう見えていることを願う。
「ですので、もしお情けを頂けるというのであれば、町への向かい方、それだけ教えて頂けないでしょうか。貴方はともかく、私は後ろにおられる妹さんを害することくらいは可能です。それは、貴方にとって何よりも避けなければいけないことと愚考致しております」
弓を射られたらどうしよう、身を隠せる程の大きさの岩場はない。幼子がビクッとした、ごめんね。
さっさと話を切り上げたい。あとをつけるのは駄目だ。気づかれでもしたら矢が飛んでくるかもしれないし、盗賊だと疑われれば言い逃れできない。距離を置いたところで、森初心者の私にあとをつけるような真似はできない。見失った果てに沢に戻れなくなったら終わりだ。
それなりに仕立てのしっかりしている、あまり汚れていない服を見るからに、この二人が盗賊であるという可能性は、否定こそできないがかなり薄い。
近場の町の生活レベルを推し量るのは難しいが、それなりに裕福な立場の人間なのではないかと感じている。
余裕のある立場の人間、その単なる親切心……そうであればいいが、その場合護衛がいないというのが気になる。
仮にお貴族様だったとして、母娘二人で護衛もなしに、森に入るだろうか。それとも幼子を連れてピクニック気分で入れるような浅い森……? いや、あの女性は『町から少し離れた森の水源』と言っていた。少し、どの程度だ……駄目だ、やはり断る方向でいきたい。疑心暗鬼に囚われようと、リスクは避けなければ──。
そこで初めて、女性の顔が朗らかに緩む。不覚にも少し可愛いな、などと思ってしまった。
「そこまで仰る方が、私達に手を出すとは思えませんよ。それに、すぐそこに護衛もきております。町へ案内するだけですし、対価も求めません」
はい、詰んでました。
マジかー……参った。これ同行する以外に道はないっぽい……逃げたら矢か護衛が飛んでくる。捕まったら終了、逃げ切る自信は皆無だ。同行すれば……悪人でないことを願うしかない? マジかよ冗談きついって。勘弁してよ……。
タダより高いものはないんだ、本気で逃げ出したい。しかしそれはもう叶わない。幼子を逃がす素振りもないし、すぐ近くに護衛がいるというのは本当なのだろう。嘘のような感じはしないし、そうでなければそもそも、いくら私が弱そうに見えたって自分から声をかけてきたりはしないはずだ。そこまで迂闊な女には見えない。最初の誰何、あれは演技だろうと踏んでいる。
町まで同行して、それで一緒に町に入らなかったら……怪しまれるよねぇ。
諦めよう、もう避けようがない。
「寛大なご配慮感謝致します。ありがとうございます」
そうして頭を下げる。前向きな考えができるようになるには、今しばらく時間が必要そうだった。