第八十九話
一人で居た頃は、毎日あくせく動いていた気がする。
毎日のように霊鎧を狩り、たまにマラソンをして、また迷宮に入って、死神を狩ることになったり。買い物や検証に追われて休日なんて何日に一度取ったかどうか。睡眠時間は不規則で、食事は屋台のパンがほとんど。たまにそれすら抜く日もあった。
それがこのエルフと出会ってからというもの……迷宮には三日に一度、たまにそれすらサボる。買い物は楽しいし食事は毎食きちんとバランスよく取って、夜しっかりと寝る。
これで気力も魔力もしっかり修練が積めて、毎日確実に強くなっているのが実感できるのだから……今まで私は何をやっていたんだっていう話だ。
一人だったら今頃私は、あの宿の狭いベッドで毛布にくるまって震えていただろう。
今は暖房の効いた部屋、自前の大きなベッドの上で湯たんぽエルフを抱きしめて毛布を被っている。
(この差よ……人は一人では生きていけないんだね。この世の真理だよ)
ぬくぬくとはいかないが……リューンお手製の暖房は今日もしっかり稼働している。冬とは思えない室温だ。
ベッドから距離を取って日課を始める。素振りに、最近は体操やストレッチもメニューに組み込んでいる。
魔力身体強化を会得し、習熟が進むにつれて徐々にキープできる魔力の強さも上がってきている。攻撃力と同時に防御力も着実に上がっているわけだが、現状それの恩恵を最も受けているのが拳での攻撃……というのが何ともまた、皮肉と言うかなんと言うか。
今はまだ気力を弱めないと反動で酷い目に遭うのだが、数日前に拳による本来の近当てを無反動で行使することに成功した。習得時、気力学校の先生の指の皮が捲れて肉が見えるまでになっていたあれだ。
魔力身体強化……強化魔法は、体の外側を覆うようにして膜を張る。魔力を強めれば、その厚みが増える。習得した時にも拳での近当てができるのではないかと考えはしたが、当時は成功しなかった。練度不足が一番の問題だっただろう。
ともあれ……十手での殴打以外にも、素手による殴打という選択肢が……生まれたわけだ。悲しいことに。現状は魔物との戦いで使い物になるようなものではないけれど。
ゆくゆくは剣術を学びたいと思っていた。十手に応用できることがあるかもしれないと考えていたからだ。今はそれよりも体術を学ぶことを優先してもいいかもしれないと考えている。普段空いている左手……これを武器にできれば、きっと役に立つ。
それでなくとも、身体は柔らかいに越したことないはずだ。怪我の予防にも繋がるだろう。
武道も取っ組み合いの喧嘩も経験はないが、ストレッチくらいなら私の知識でもできることはある。
それが終わると気力と魔力、二種の身体強化を半日キープできる強さまで上げて一日を過ごす準備を始める。
この世界に来た当初、ギースに気力を習っていた時は、気力を維持したまま普段通りに擬態するというこの修練がとにかく辛かった。毎日繰り返すことで慣れはしたが、それでも普段通りにとはいかない。どこかで気力を抑えて苦のない程度を維持する癖がついてしまっていた。
それが今ではメリハリを付けて目一杯気力と魔力、そして身体を傷めつけることができる。気力の成長も日々実感できるようになっている。
こういうやり方に気付けたのも、一向に起きる気配のないねぼすけエルフとの生活のお陰だろう。
ここに神力を加えると途端に擬態は破綻するので、今のところこれは戦闘以外で用いていない。定期的にふわふわで索敵をしたりしているが、神力の成長……というのは今のところ実感できていない。悩みではあるのだが、誰にも相談できない。
「おはよう……相変わらず早いねぇ」
「おはよう。私が早いんじゃないよ」
リューンは寒さに弱いらしく、冬の間はいつもこうだという。朝はゆっくり寝て室内で色々として、夜また寝る。好きにさせると水分補給をせずに一歩も外に出ないことすらあるので……食事は必ず外で取り、風呂にも連れ出している。流石に活動不可能なレベルまで気温が下がればそうもいかないだろうが、普段はなるべく健康的な生活を送ってほしい。それでいて私が一人で外に出ようとするのを嫌がるのだから……可愛いものだ。
安全面に配慮して火気の持ち込みを一切禁止していた以前の宿を悪く言うつもりはないが、やはり火が使えるか否かといった差は大きい。特にお茶が飲める点だ。火石と赤石の両方が使える安いコンロを一つ買ってみたのだが、これが本当に便利で今まで使ってなかったのが馬鹿らしくなった。二人の好みは違ったので同じものを飲むとはいかないが……同じ時間を楽しむことができている。ちなみにコンロの自作は無理だそうだ。回路の修理くらいはできるそうだが……それがどれ程のものなのか、私には知る由もない。
「今日はどうするの? 特に買い物の予定もなかったよね」
「ないね。後は王都行った時でいいよ。私は手紙の件で管理所行くけど、待ってる?」
「うん、待ってる。結界石が今いいところでね、あと少しでうまくいきそうなんだ。魔導具身に着けていってもいいけど、寄り道しないで帰ってきてね」
「全部置いていくよ。帰ってきたらご飯行くから、キリの良いところで止めておいてね」
リューンはお手製魔導具制作の続きを、私は出発が迫っているので、その旨を管理所の所長へ伝えに外へ向かう。
ガルデは滅多に雪が降ったり積もったりはしない地方であるとのことだが、そうとは思えないほどこの冬は冷え込んだ。リューンはこのくらいは普通と言っていたが……この世界の寒冷地はどれほど冷え込むのだろうか。
管理所ですることは特にない。連絡だけを済ませて外に出る。この時期は屋台も出ていないので、寄り道しても仕方がない。
(そういえば第三迷宮……死神はもう生まれているかな。一度見に行ってみたいけど、流石にリューン連れてはいけないね。私単独なら……いけなくはないけど、終層の大物倒しに行くなんて言ったら……無理だな、諦めよう)
未だに何をされていたのか定かではないのだが、あの死神は絶対何らかの干渉をしてきていた。おそらく精神的なヤツ。やたら頑強な骨だったけど……言うなればあの迷宮のボスだ。それが当時の私に倒せるレベルの戦闘能力しか持ち得なかった。他に何か能力があって、それが私には丸っきり効かなかった──。こう考えるのが自然だと思う。
そして精神に悪影響を与えるような敵のいるところに、あの情緒不安定な泣き虫エルフを連れてはいけない。対策も考えないとな。ああいう類の魔物がここにしかいないなんて考えられない。
(しっかし……私は霊体に強い特性でもあるのかね。リビングメイルといい死神といい……ホラーは別に得意ってわけでもないんだけど)
「そういえば、いつか言ってた魚のことだけど」
昼食を取りながら声を掛けられる。このエルフは基本的に食事中に口を開かない。食べるのに夢中だからだ。楽しくお喋りしながら……というのを否定はしないが、私は食事は静かにとる方が好きだ。そんなエルフが、まだ皿の上に食べ物が残っているのに口を開いた。珍しいが今はそれどころではない。魚……鮭?
「心当たりがあるなら今すぐに吐きなよ。あまり焦らすとメガネ取り上げて第三迷宮に捨てるからね」
「さ、寒い地方にいて川に遡上するって奴でしょ? さっき思い出したんだけど、そういうのがいるって話は聞いたことがあったよ。セント・ルナにはいないと思うけど、立地からしてたぶん流通はしてるんじゃないかな。漁村とかに依頼すれば干物もまとまった量が手に入るかも」
「大儀である。食事に戻りなさい」
「ありがたき幸せ」
ニコニコ顔でお肉をぱくついているエルフをお茶を飲みながら眺める。この女は色々な知識を持っているのだが、どうでもいい情報はこうして唐突に思い出すことが多い。引き出しが多くてどこにしまったか分からなくなるみたいな、そんな感じだと勝手に想像している。どうでもよくはないんだけどね?
鮭と決まったわけじゃないが、生きる楽しみがまた一つ増えた。鮭とば……必ずやこの手に。
宿に戻ってからしばらく、リューンが作っていたお手製魔導具が完成した。結界石と呼んでいた、いくつもの浄化橙石を加工したその魔導具は──いつぞや聖女ちゃんが使っていた結界と似た、音と視界を遮る物の上位版。言うなればマジックミラー。内側からは見えるが、外部から内部は見えないといった代物だ。
音に関しては相互に遮断をしている。これを一方通行にするのは難しいのかな。マイクと組み合わせるとかすればできるのかもしれないけれど。
(とまぁ、私はこれを手にするだけで仕様が分かるわけだ。分かるのはいいんだけど……使えるようになりたいなぁ。結界。女神様の結界……)
得意気に魔導具の説明をしている女の話に相槌を打ちながら、我が身の不思議と向き合っていた。
その魔導具は加工された浄化橙石が縄で繋がっており、それを輪にして魔力を流せばその間効力を発動するといった代物。野営で使うと言っていた為か、その長さは二十メートルほどはありそうだ。とにかく長い。
試しに稼働させてみたが……そこに結界があるということは明確に分かるが、中を見通すには至らない。『解除』もできそうだったが、それをするとリューンは泣くだろう。おそらく術式、魔導具そのものが壊れる。流石にそんな泣かせ方は趣味じゃない。
「これも身体に術式を刻めば魔法として使えるの?」
「そのままじゃ無理だけど、そういう術式はあるよ。ただ、動くと結界が解除されるから……サクラには向かないと思うよ。陣地構築するなら魔導具の方が確実だし」
「透明になって一方的に魔物を狩ったりはできないんだ」
「結界じゃ無理だね。そういう魔導具もあるって話だけど、大体国が管理してるんじゃないかな……暗殺し放題だし、危険過ぎるよ」
言われてみれば確かにそうだ。あえて定点でしか稼働できないよう、そういう風に術式を残したのかもしれない。
夕食を済ませて夜もすっかり更けた頃……魔力の限界が訪れた。
毎日のように味わっているこの頭がクラクラするような感覚は、未だに不快で仕方がない。経験上こうなると気力もほぼほぼ尽きかけている。今日の修練はここまでだ。二種の身体強化を解いてベッドに倒れこむ。
「お疲れさま、今日は少し長かったんじゃない?」
「そうかな? 朝ゆっくりしてたせいかもしれないけど、最初の頃に比べれば、だいぶ長持ちするようになったのは確かだね」
「立派に成長してるってことだよ。焦らず続けていこう」
私は器は広いが格が低い。ゲーム的な表現をすれば、魔力のステータス値は低いがMPの量が多い。それが気力にも、おそらく神力でも同じことが言える。生力や精力もおそらくそうなのであろうが、この二つはリューンもよく分かっていなかった。ただ、『在る』とされているのは古今東西変わらないとかなんとか。
つまり、同じ魔法を同じ魔力で行使した時、私の魔法はリューンの魔法より遥かに効果の弱いものになるというわけだ。年の功には敵わ……。
ベッドに倒れてぐったりしていると、エルフが私に悪戯をしに近づいてくる。しばらくは私が一切抵抗できないのを知っているので、やりたい放題されるわけだ。その後必ず逆襲を受けていることを、朝が来る度に忘れているとしか思えない。
こうして一日が終わり、また朝がやってくる。ここでの穏やかな生活もそろそろ一区切りだ。──もうすぐ、冬も終わる。