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第七話

 

 私は数度に渡り女神様の泉からの逃亡を企てた。視界に入った特定の大樹を目指してひたすら泳いだのは記憶に新しい。

 あの時は特に意識することなく、盲目的にそれを行っていたわけだが……。今ははっきりとわかる。あれも敵対神の呪いの一部だ。

 遠くに(そび)え立っているのが見える。あの大樹は、今の私には心の底から嫌な予感しかしない、おぞましい対象としてしか映っていなかった。

 あれを目指した所ですぐ辿り着けるとも思わないが、仮に歩いて辿り着けそうな距離であったとしても、あれに近づきたいとはとてもじゃないけれど思えなかった。


 となると、私は目標を見失う。三百六十度あの大樹以外には視界に目標となるようなものは見当たらない。

 水面に叩きつけられたのは、今しがた抜けてきたあの縦穴の近辺、この周辺だろう。

 ここから私は、おそらく数時間泳ぎ続けることで大樹の方角、陸地へ辿り着いた。

 歩こうが走ろうが、それよりは早く辿り着けるだろう。木の方向へ向かうのならば。

 とりあえず確定している陸地に辿り着くことを第一に、そこから泉の縁を辿ってどこかを目指す、という手もあるのだろうが……。木の方向、二度目に辿り着いたあの時、生物の気配などは感じなかった。最初に辿り着いた時は、夜が近かったこともあるだろうが、異常な息苦しさや寒さを感じたのを覚えている。

「あの辺りには近づくべきじゃないよ、やめておこう」

 私を私の女神様から引き離そうとしていた敵対神の意志。今更それに従ってやることもない。

 陸地があると確定している。そこだけは後ろ髪を引かれるが……。さようなら、もう会いたくありません。

 木の方向から縦穴を中心に百八十度真逆、距離を取るようにして歩き出した。


 方角はかなり怪しいのだが、日が東から西へ移動しているのだとすれば、あの大樹はおおよそ北の方にある。私は南を目指しているということになる。それをなんとなく感じられる程度、私は歩き続けていた。途中幾度か小休止を挟んでいた為、日は既に落ちかけていて薄暗い。

 風景は変わり映えしない。相も変わらず生物の類には出会っていない。足元に干からびた魚はいなかったし、空を鳥が飛んでいたりもしない。羽虫が漂っていたりもしないし、黒い狼が一頭、後方から私目掛けて飛びかかってきているだけだ。


 気付いた時には声を出す間もなく勢いよくうつ伏せに押し倒されていた。頭を打ち付けなかったのは幸いだが、手をぶらぶらと振りながら歩いていた為、軽く握っていた相棒は衝撃でどこかへ飛んでいってしまった。

 首を捻るようにして振り向くと、唸り声一つ上げずに飛びかかってきた賢い狼は、今度こそ嬉しそうな唸り声を上げると……口を大きく開け、首筋目掛けて食らいついてきた。

(ひ、『引き寄せっ』!)

 縦穴の階段で染み付いた十手の元への『引き寄せ』。咄嗟の判断で狼との距離を取って対面することに成功したが、まだ何も解決してはいない。

 鼻に濃い動物臭を感じる。ここにきてやっと事態を把握できた。私は死にかけたのだ。狼に食べられて、この生命を。

 途端に動悸が激しくなる。なんで、今まで何もいなかった、空にも、地面にも、暗くなってきてから後ろから狙うなんてそんなずるいひどい──。

 攻撃が不発に終わった狼はこちらを警戒したのか、若干距離を置くようにして相対している。今飛びかかってこられれば私はおそらく──。ただ、飛びかかってこない。薄黒いモヤのようなものを纏った黒い狼、その赤い目からは若干の戸惑いのような気持ちが滲み出ているような気がしていた。

 そんな狼を見ていると不思議と心が落ち着いてきた。拾い上げた十手の柄をより強く握り締める。殺さなきゃ殺される。これだけは、これだけは間違いないだろう。


(普通の狼じゃない、何かゆらゆらしてるし目も赤い。魔物とかそういう類のものなのかもしれない。頭を殴りつければ倒せるかな)

 よく見ればそれ程大きくはない。大型……いや、中型犬程のサイズだろう。モヤで大きく見えてはいるが、押し倒された時に感じた重さもそんな大した事はなかったかもしれない。いや、大したことない。ないんだ、なんとかしなきゃならないんだ。

 まだ混乱も迷いもあるが、とりあえずこれを乗り越えなければ私は餌だ。神力を持った私を食べた狼がどうなるかは分からないが、ろくな事になりはしないだろう。

 覚悟を決めて十手を両手で握り、身体の前に構える。腕は伸びきっているし身体はガチガチで、酷く無様だ。私に剣道の経験はなかった。

 敵意を感じたのか、狼が動き始める。ゆっくりと、その四肢に力を込めて、こちらを狙っているのが分かる。

 そして助走から一気に飛びかかってきた。それほど速くはない。目を瞑りたい気持ちを必死で抑えながら、棒身の先を突き付ける。

 頭からは逸れた。だがその首筋辺りに当たり──私の横を通り過ぎると、そのまま地面に倒れて暴れ回りギャンギャンと悲鳴を上げ始めた。


 よく見るとその首筋からモヤとは違う、煙のようなものが上がっている。私が先程十手を突きつけた場所。狼の尋常ではない様子に一瞬呆けそうになった私は、慌てて右手で握りしめた十手を狼に叩き付けた。

 頭を、頭を殴る。身体も殴る。とにかく殴る。殴る殴る。その度に狼は転げ回り、身体から立ち昇る煙のようなものは増え、その抵抗も弱々しくなっていく。

 その煙の一部が私の身体にも纏い付こうとしているが、近づく端から霧散している。

(これはきっと、うちの女神様の浄化の力だろう。敵対神の呪いを抑えるのに使っている……。何かしている自覚はないのだけれど、私の身体から漏れ出ている?)


 そこで『浄化』『浄化』と念じながら狼を叩き付けると、狼の身体がビクンと激しく硬直し、次の一撃でその動きを止めた。

 腕が止まらずに更に一撃を加えたところで、変化が訪れた。

 狼の纏っていたモヤや狼自身の身体、それが収縮し始め……それを驚きの表情で見つめていると、小さな曇りガラスのような欠片と、薄い光の粒子……のように見える何か、それらを残してその場から消えてしまった。

 欠片は地面に転がっているが、光の粒子は私の身体に吸い込まれていくようにして消えてしまった。


「お、終わった? 怖かったぁ……」

 思わずへたり込む。終わり方こそ呆気なかったが、そんなことはどうでいい。生きている。死んでない。本当によかった。

 唐突が過ぎる、いきなり後ろから襲われるだなんて思ってもみなかった。

 後ろから……そうだ、後ろだ。私はあの大樹とは真逆の方向へ歩いてきたのだから、あの狼は、おそらく──。

 急いで、とにかく急いでこの場から離れたかった。だが既に辺りは宵の口が近づいている。更に不味いことにこの一件で、私は方向を完全に見失っていた。

 辺りを見渡すが、ここから遠くの大樹は確認できなかった。流石に暗すぎる。下手したらこのまま大樹方向へ逆戻りするかもしれない。このまま夜通し歩いてその結果を招くのは、流石に避けたかった。

 星明かりはちらほら見えているものの、見ず知らずのそれから方角を探る手段を私は持ち得ていない。

(ここで野宿? 狼がいたのに? 夜通し? 寝たら駄目だ、朝まで気を張って……徹夜するしかないか)

 明るくなるまで移動はできない。睡眠は危険、眠ってはいけない。だが幸いなことに、考えなければいけないことは──考えたくないこともあるが──多い。

 どこまで意味があるかは分からないが、周囲にそれとなく気を配って……考えをまとめ始めた。


(まず、ここはもう日本でも地球でもない。はっきりとした、いい加減認めないといけない)

 私の知識にあんなモヤを纏う黒い狼なんて生命体はいない。地球上どこを探したってきっといない。仮にいつかの時代にどこかで存在していたとしても、質量を無視して石ころのような無機物へ変化する特性を持っているなんて異常な性質のそれを、私は動物だとは認めない。

(それに『浄化』だ、あれは一体何だったのだろう。仮に何かに呪われていて、それを私が解いたのだとしても……ガラス片のようになるのはおかしい。モヤが晴れる程度なら理解もできるけど)

 あの狼は確かに生物だった。鼻をつく獣臭も感じたし、熱量もあった。飛びかかってくる際に涎を撒き散らしてた気もするし、意思のようなものも感じた。何より十手で殴った際に少量ではあるが血が散っていた気がする。あれが機械だとは思えない。魔物? 魔獣? とにかく、私の常識の範疇外にいる生物なのだろう。

 確かなことは、あの狼と相対した際に『浄化』でそれを無力化できたということ。

 これが討伐に当たるのかは分からないが、今はそれだけ。とりあえず倒せる。

 やはり私は早急に力をつけなくてはならない。私はおそらく、今は神力しか使うことができていない。

 うちの女神様は生力と精力……これは音が同じだったから覚えている。とにかくいくつかの力を使って生きていけ、的なことを言っていた。

 未だこの身に根付いている忌々しい呪い。これの解呪を急ぎたいというのも確かなのだが……今後も狼に襲われる度に死にかけていたのでは話が進まない。もうそんなことを言っている場合じゃない。


 私はどこかでまだ、この世界のことを日本のような安全な場所であったらいいな、との希望を持っていたのだ。この甘い願望は切り捨てなければいけない。

 狼より恐ろしい魔物、そんなものがひょっこり出てこないとも限らないのだ。それの無力化に失敗した場合、その時私に訪れるのは確実な死だ。

 生き残る力を、そう、力だ。私に必要なのは害されない為の力。それを身につけなくてはいけない。

 腕力が必要なら腕立てでもなんでもするし、神力が必要ならいくらでも試行錯誤する。魔法で火の玉が出せるのならばそれだっていい。浄化でどうにかなるならこれを磨く。

 血なまぐさい争いとは無縁の世界で生きてきた。経験も心構えも、何もかも足りていない。修練だ。うちの女神様も言っていた、修練しろと。器を広げろと。格を上げろと。

 ゲームなどでは、格といったらレベルだ。レベルを上げるために普通何をするか、それは敵を倒すのだ。生きるために殺すのだ。狼が残したガラス片、あれも糧になるかもしれない。躊躇わずに殺そう。殺し続けて、生き抜こう。

 狼も殺そう、熊でも殺そう。幽霊だって、きっと浄化できる、してみせる。悪意を持った人間も……人間も……。


 固めた決意が解けそうになるのを感じる。私は殺せるのだろうか、人を。

 躊躇えば次の瞬間私は死んでいるかもしれない。警戒の外から、私を狙っているかもしれない。

 神格を授受したことで、私が何になっているのかはわからない。普通に人であるかもしれないし、強弁すれば人であると認めてもらえる程度には人間の範疇なのかもしれないし、あるいははっきり神なのかもしれない。

 うちの女神様に害意を持っていた神というのは確かに存在したのだ。それが一柱であるという保証はない。もっとよく聞いておけばよかった。

 私に纏わりつこうとしていた狼のモヤ。あれを払って……あるいは祓っていたのは、間違いなく神力によるものだ。

 ばれるのは、不味い。見知らぬ神にも、それに連なる人達にも。利用されるのはまっぴらだし、私だけが相手を利用するなんて、そんな器用なことできる気がしない。これはもう、神官を探すという当初持っていた目標はきっぱり切り捨てた方がいいだろう。


 夜明けはきっと、まだ遠い。様々な考えが頭を渦まくが、はっきりしているのは三つ。

 力を付ける。躊躇いなく殺す。正体がバレないように細心の注意を払う。

 近辺に人がいるかどうかも、それらと意思の疎通ができるかどうかも分からないが、少なくとも相対する前に二十歳そこそこの日本人女性の戦闘力から逸脱しておく必要がある。それともう一つ──。

「おなかすいたなぁ……」

 水と食物、死活問題であった。

 夜明けは、まだ遠い。



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