第六話
目を覚ます。どの程度眠っていたかは分からない。だが、頭は少しすっきりとしていた。
深呼吸を繰り返し、無理やり落ち着きを取り戻す。これはもう、受け入れるしかないのだ。
でも、考えたくない。今はまだやることが、やるべきことが沢山残っている。
横穴を登って縦穴を登って、泉を抜けて陸地を探す。町を、人を探して、解呪のできる神官を──。
考えまいとしていても、どうしようもなくそれは頭を過る。
私の、私の……。
踏み出さなければならない、目を逸らしても、背けても、それでも、この一歩を。
逃避でいい。今は課題が残されていることが、少しだけありがたかった。
両手から壁の感触が消え、足を止める。
横穴を抜けきったのだろう。あれから努めて何も考えないようにしながら、ひたすら歩いた。努めて何も考えないようにしながら、ただ無心で。
だが、まだ何も解決してはいない。問題はここからだ。
ここは直径十メートル程のほぼ円形、泉の底に繋がる縦穴の最下部だ。
深さはよくわからない。洞窟から横穴までの高さと、体感では然程変わらない気もするが……。
あの時は水の中、見えていなかったしジグザグに降ってきたような覚えがある。
横穴の傾斜がそれほどきつくない、緩やかな坂道だったことを思うと、横穴から洞窟までよりは、こちらの方がより高いのだろうけど。
とにかくここを登らなければいけないが、数百メートル、断崖絶壁、命綱無し、登攀道具無し。いや、これは無理じゃないかな!
試しに近くの壁に思いっきり十手を突き差してみるも、洞窟の縁と同じく砂粒一つ分も欠けることはなかった。軽い音が辺りに虚しく響く。
上を見上げれば微かに空の青さが見えるものの、日が差すというには些か暗すぎる。
そして何より、私の体も限界が近い。
若干の睡眠こそとれたものの、もう割と長いこと飲まず食わずだ。まだ餓死するには時間があると思うけれど、いつ渇きや空腹で倒れるかも分からない。
(やっぱり横穴で眠ったのが……いや、もう言うまい)
女神様を取り込んでいたのを食事とするならば……私はつい先程まで何らかを摂取していたわけで、今すぐどうこうなるとも限らないが……。時間をあまりかけていられないことに変わりはない。
溜息が出る。どうしたものか。このまま無策で登るしかないのだろうか。
(幸い壁には多少凹凸がある。上手いこと十手を引っ掛けて、『跳び』ながら上を目指せば……落ちたら痛いだろうなぁ、死ぬかなぁ)
手を挙げ取っ掛かりがないかを探しながら、縦穴の外周部を調査してみることにした。
あまり無策に動きたくはないが、ほとんど見えない以上手探りで進むしかない。
私は運がいい。いや、これはうちの女神様の粋な心遣いか。ありがとう、私の愛しい女神様っ。
階段があった。何故? だなんてもう考えない。そこに確かにあるのだ。外周部を時計回り、螺旋状に伸びている。踏み板だけでけこみ板がないが、贅沢を言うつもりはない。
後はこれを一つ一つ登っていけば……私は日の目を見ることができるだろう。文字通りに。
段の高さがやたら高い──具体的に言えば一段が私の肩くらいまであったりする──が、全く問題にはならない。私は相棒の元へ『跳べ』るのだから。
『引き寄せ』に気づかず、洞窟から横穴までを力技で突破していたら……その際は命は既になかっただろうと思うが、ここでも力技を貫くか、十手の力に気付くまで途方に暮れることになっただろう。
相棒を投げ込めば二段上くらいまでならいけそうな気もするが……投擲を誤って地面に落としでもしたら最初からやり直しだ。
横着は止め、一段一段堅実に登っていくことにしよう。一段なら手を伸ばせば安全に置けるわけだし。十手の上に『跳ぶ』のなら足場を踏み外すこともない。
そして単調作業が始まった。始めこそ上手くいった喜びや、上がり続ける高度や、踏み板から踏み外せば転落するという恐怖を感じたりしていたが、慣れてしまえばただの作業だ。
『引き寄せ』を使い続けることで、これまであまり経験したことのない、なんとも言えない類の疲労が身を襲うが、これは消耗からの回復がかなり早いようでしばらくじっとしていればすぐに問題がなくなった。
近場だからそれ程神力を使っていないのだろうか。洞窟での検証の時はもうちょっと疲労を感じた気がするのだけれど……よく分からなかった。
使い続けることで容積が上がり、体感に過ぎないが、減った容量が回復するまでの時間も早くなっていっている気がする。これがうちの女神様が言っていた修練、器が広がり格が上がるということなのだろう。
こんな困難に何度も襲われるとは思わないが、思いたくないが……それを乗り越えるために、我が身を鍛えるというのは必須になりそうだ。神官を探すより優先した方がいいかもしれない。
(そうすれば、こんなん困難の内に入らないとか、言えるように……)
階段の終わりが見えてきた。日の光も微かだが強くなってきており、下部に比べるとだいぶ明るくなっている。
それが問題だった。階段は泉の底、この縦穴の出口まで目測五メートル程を残した辺りで途切れている。それがはっきりと確認できた。
「冗談が過ぎる。あの横着女神、階段作るなら最後まで……なんで飽きたからここで止めましたとか、これも試練です、みたいな……。もぉ、どうしてこんなことするかなぁ……」
洞窟から横穴までのダイブは怖かった。踏み板はそれほど大きくない。私はおそらく相棒を、十手を泉の底に投げ込む必要があるのだろう。下から。
それほど大きくない足場で、五メートル程上空に、十手を投げ込む。足を踏み外せば落ちる。投げ込むのに失敗すれば……『引き寄せ』られるかな、これはそんな気にしなくていい。私が転落しなければ大丈夫。その上で、十手の元へ『跳ぶ』。これで終わりのはずだ。
ただ、十手の元への『引き寄せ』は、その転移先が若干ランダムだ。
割と融通が利くとはいえ、簡単な指示だと下手したら足場がない所へ『跳んで』しまう恐れがある。ここまで散々、裸足でとはいえ踏み付けといて今更ではあるが、本当はあまり足蹴にしたくはないのだ。だが、今回だけはそうも言っていられない。転移先は十手の上にしよう。
左手で壁を支えられないのが怖い。段を登るにつれ、下層では見られた側壁の凹凸はその数を減らし、今ではもうほとんど見られなくなっていた。
つるつるとしたその壁は、汗ばんだ手で触っていればすぐにでも滑ってしまいそうなほどだ。
(風がないのは不幸中の幸いといった感じだけれども。うぅ、怖いなぁ……)
崖の上だったとはいえ、足場がしっかりしていた洞窟で下に投げ込めばよかった前回とは違い、今回は不安定な足場で上空に投げ入れる必要がある。
縦穴ギリギリより、できるだけ向こう側に、穴から離れた場所まで投げ込みたい。ただ、私にはそのような技術はなかった。バスケットボールもシュートは苦手だったのだ。小手先の技術に頼ろうとするよりは、全力で投げた方がいいだろう。
一段下に下がって今足元にある踏み板を掴み、六、七メートル程上に投げる、といった手がないわけではないが……私は自分の腕力に自信がない。
「も、『戻ってっ!』戻ってきてっ!」
失敗し続けている。投擲に。思い切りが悪いのか、それとも単にノーコンなだけなのか、惜しいところまではいくものの上手くいかない。
手元と縦穴の出口、その側壁、それに空中を行ったり来たりしている私の相棒は、綺麗な薄い白色から、心なし褪せているようにも見える。
(今度こそ、次はもうちょっとだけ強く、手を離すタイミングを早めて……)
十手が手を離れている時間が増えるにつれ、比例するように私の心を焦りや不安、そして僅かながらに憤りが増していく。
今度こそ、が失敗したので、私は一度落ち着くべく、『引き寄せ』た相棒を両手で強く握り締めた。大きく息をつく。焦りは駄目だ。まずは落ち着かないと。
「下手だなぁ、私」
足は震えている、座り込めばおそらく立ち上がれない。転落への恐怖もある。でもそれ以上に、相棒を粗雑に扱っている自分、そんな手しか見出だせなかった自分に対してのやるせなさが溢れてくる。
これはただの道具じゃない。うちの女神様が最期に遺してくれた、とてもかけがえのない大切な物だ。
それを私は、手に入れてからというもの、踏んだり投げたりばかりしているではないか。
(本来は……殴ったり、突いたり? あれ、別に今の扱い大して不当じゃない? でも槍を投げることはあっても、剣を踏んだりしないよね。きっと)
十手の棒身を撫でる。透き通るような薄い白色、滑らかで、すべすべしている。傷一つなく、汚れも見えなかった。私の手の方が余程汚れている。
鈎の部分もしっかりしていて、指にひっかければ振り回せそうだ。やらないけど。
手遊びを繰り返しながらじっとしていると、心が落ち着く。風はない、落ち着いていれば転落することはない。後は相棒を投げ込んで、そこに『引き寄せ』られればいいだけ。やることは変わってない、やらなきゃ先に進めない。
大きく深呼吸を繰り返し、今度こそ、これで決めると決意して十手を右手に構える。
腕力は足りている。届く、届くのだ。後は狙った所に投げ込めれば……。
「んっ……そぉいっ! …………お、やったあっ!」
縦穴の出口、その向こう側、とうとう投げ込むことに成功した。
そして、愉快にガッツポーズなど決めたところで足を踏み外した。
「え、ぎゃああああああっ!!」
身体が宙に舞う、このままでは落ちる。『引き寄せ』、『引き寄せ』られなければ。
「じ、十手! 十手のところ! 『跳んでっ』!!」
位置を指定しなかった。十手は手の届く位置にあるが、脇から下が宙ぶらりん。縦穴の出口に腕だけで引っかかっていた。
「あああぁ落ちるっ落ちるぅっ、た、たすけ……」
胸がひっかかり──言うほど大きくはないけれど──しばらく腕力でなんとかしようとジタバタしていたが、もう一回『跳べ』ばいいだけだと気付き、無事地上の人となることができた。
這いずるようにして、慌てて縦穴から距離を取る。必死だった。気恥ずかしさを誤魔化すようにして仰向けに寝転がり、空を見上げる。
空、澄んだ青空。帰ってきた。地上に。
「やっと出られた……出られた。よかったぁ……泣きそう」
久方ぶりの地上。遮るものなく降り注ぐ日の光。帰ってきた、胸が一杯になる。地底人は卒業だ。
こうも恋しく感じるとは思ってもいなかった。天頂から降り注ぐ暖かな日の光。麗らかな日差しが心地いい。
これで洞窟、横穴、縦穴と三つの障害を乗り越えた。次は泉を出て陸地を探し、人や町を探す。
やることははっきりとしている。空腹も渇きも感じているが、今は少しだけ、この暖かさを感じながら休むことにした。