第五話
「へぶぅっっ!?」
潰れた……なんだろう、何かのような声を出しながら、崖下へ着地した。
正確にはある程度の勢いを保持したまま、十手の真上にうつ伏せに叩きつけられた。
胸も腹も、鼻もデコも、十手で打ち付けているようだが、何よりも棒身よりやや厚みのある柄の部分が鳩尾辺りにめり込んでいるのが分かる。これが一番痛い。痛い……痛い、が、死ぬ程ではない。死んでいない。私は生きている。
苦痛に呻きながらも安堵する。何とか成功した。賭けには勝った。
案ずるより産むが易しとはよく言ったものだな。
結局慣性を完全には殺しきれなかったようだ。上から下へ『跳ぶ』時は特に注意する必要がある。
大部分は死ぬけど全てではない、という当初の検証結果は正しかったようだ。
身体で覚えた。忘れることはないだろう……きっと、喉元過ぎるまでは。
身体を起こし、地面にめり込んでいた相棒を回収し強く握り込む。息をつき落ち着きを取り戻しながら改めて周囲を確認すると、少し距離はあるが行きがけに通ってきた横穴を確認することができた。
まだ身体は痛いが、この先の縦穴の攻略について考える必要もある。
(横穴は緩やかな上り坂になっているだけだと思うし、ここはさっさと進んで向こうで休もう)
休みたい気持ちを振り払い、先を急ぐことにした。座っていても話は進まない。
横穴の中は漆黒の闇だ。
思い返せば縦穴の入り口辺りまでは辛うじて光が差していた気がするが、横穴は今と同じく真っ暗闇だった。
行きは敵対神に植え付けられた呪いによって、然程恐怖を感じずに済んでいたのだろう。
その為に気にならなかったが、月光どころか星光一つない闇の中を歩くのはとんでもなく恐ろしい。
(夜目が利くという人はこんな中でも見通せるのだろうか……だとしたら、凄いな。とてもじゃないけど真似できないや)
坂を登り始めてしばらく経つが、暗闇に慣れたであろうこの目に映る風景は代わり映えしない。
だが、それでよかったのかもしれない。見知らぬ生物がいたり、不気味な物音なぞ聞こえようものなら、私は泣き出していたかもしれない。
洞窟にありがちなコウモリや……虫の一つでも飛んでこようものなら、間違いなく悲鳴をあげるだろう。
ここに至るまで、私は女神様以外の生命体というものを一度も確認していない。この環境に少しは感謝してもいいのかもしれない。
水の中とは違う肌に感じる空気の流れ。そんなものでも、恐怖を煽るには十分すぎる程なのだ。無音であることがありがたい。ありがとう女神様。
(分岐のようなものはなかったと思う……手を付いて渡ってきたわけだし、このまま進めば縦穴まで辿り着けるはず)
黙々と坂を登り続ける。代わり映えのしない、他の何かに注意を払う必要のない環境に身を置いていた私は、単調なウォーキングの最中において、ここにきて初めて、この身に起こった出来事について思考する余裕を持てるようになっていた。
そもそもここはどこなのか。
うちの女神様の神域だった場所。泉の底。確かなのはここまで。
日本なのか、地球なのか……彼女の言葉は日本語のそれではなかったし、それ以前に言語という体を成していたようには思えなかった。
直接対面してからは意思の疎通が可能だったのだが……ここが地球だろうがそうでないどこかであろうが、このままだと神官を探す前にまず、言葉を覚えることから始めないといけないように思えてならない。
(もうおうち帰れないんだろうなぁ……。ガスの元栓閉じてないんだけどなぁ)
彼女の贈り物が十手などという、世界的に見ればドマイナーもいいとこの棒を形作ったのも解せない。
棍棒とか金棒とか、メイスとか……剣や槍でもよかっただろうし、日本的なものでも警棒とか刺又とかあったはず。
私とて別に時代劇や歴史に詳しい訳でもないから、本当にマイナーであるかどうかは、分からないけれども。
私が敵対神の木の枝に執着してたから、それに対抗して棒状のものをくれただけなのかもしれない。
女の子に鈍器をプレゼントするセンスについては……まぁ、女神様だし。必要になるからくれたのだろう、きっと。
そんな益体もないことを考えながら、ふと自分の名前を思い出せないことに気付いた。思わず歩みが止まる。
「私の名前……あれ、名前……私、名前なんて言ったっけ……?」
両親はいた、間違いない。兄弟もいた、兄と姉、それに弟……間違いない、だが皆名前を思い出せない。姓も、名も。
学生時代の友人知人に部活の仲間。バイトの先輩、同僚……確かにいた。顔も思い出せる。学び舎で、町で、店で、色々な記憶がある。だが名前を思い出せない。
テレビに出ていた有名人、色々な人がいた。顔は思い出せる。歌手、俳優、芸人……ドラマの名前、主題歌、思い出せるものもある。名前は、思い出せない。
よく読んでいた本、思い出せる。好んでいたスポーツ、そのルール……思い出せる。料理の名前、調理法、これも思い出せる。食材の名前、調味料の名前、道具の使い方……これも思い出せる。だが自分の名前は分からない。
誰かが付けてくれたはずの、私の名前。
呆然とした、どういうことだこれは。
いつから? 私はここに──最初に召喚されたその時から、自分の名前を思い返したことが一度でもあっただろうか。
なかったと思う。普段生活する上で、一人であったなら、わざわざ自分の名前を思い浮かべることなんてそうそうないだろう。
それにしても……名前、人名だけが私の記憶からすっぱり抜け落ちている。これは異常だ、明らかに作為的な何かが働いている。
うちの女神様は名前が無いと言っていた。失ったと。故にこちらから尋ねるようなこともしなかった。彼女も私の名前を呼ぶことはなかった。
同調の可否、名前を持たない人間であるということが条件というわけではないだろう。
召喚以前の私には、確かに名前が『あった』のだから。
だとしたら、召喚された時か、神格を授受した時か……まさか敵対神の呪いを受けた際に? とにかく何らかの要因で、私はそれを失ったのだろう。
なんとなく、うちの女神様の仕業だろうという、予感めいたものがあるのだが……あの人はもういない。おそらく私は名前を取り戻すことはもうないだろう。不思議な感覚だった、やたらと確信めいていた。右手の十手を強く強く握り締める。
(参ったね……これは、結構、きつい)
物品の固有名詞や地名、知識にはおおよそ問題がないように思える。だが人名は全滅だ。歴史上の偉人も、肖像画の顔を思い出せても名前は思い出せなかった。
このまま地球に帰れたところで、もうこれまで通りの生活を送ることは不可能だろう。
このままここで生きてくとしても、私はこれからも名前を持てず、誰かのそれも、覚えることができないのだろうか。
何なら試しに付けてみればいいのだ、自分に。名前を。
上手く行けばそれでよし。だが、もしもこれで、自分が名前を持てないと、決まってしまったら。
その都度適当な偽名を名乗っても、呼ばれたところで気づけないだろう。自分で名乗っても、それが自分と分からないだろう。まともではない。
恐ろしかった。今はまだ、それと向き合う勇気を持てない。
十手を抱え込み地面に座り込む。この精神状態で先に進むのは、私には些か荷が重い。
壁にもたれかかり、目を瞑る。歩みを止める──。
今は少しだけ、休みたかった。