第三百五十九話
──最近は何かと落ち着いていた。
北大陸は既に過去。後始末も終わり、新たな一歩に向けての準備を始めて、それも軌道に乗りつつある。穏やかな日々を満喫していた。
これまでの日課と新たな日課とをこなしながら、そりゃあもう平穏に過ごしていた。
朝起きて魔石を取りに行くのは日課。染め物の具合に一喜一憂し、明日の工夫に頭を悩ませるのも日課。
お庭にお花を植えてみた。日々の変化を嬉しく思うのも、こう……女の子っぽくていいと思う。庭の散歩もいい気分転換になる。
それに最近は料理も始めたのだ。魔物の解体を身につけ始め、今では断熱飛竜をソロでバラせる。これの燻製は日持ちする上に、骨と一緒にじっくり煮込むと良い出汁が取れる。ミッター君が言っていたのは多分これのことだと思う。
断熱皮膜の副産物として大量に手に入るこれらを無駄にしないため、トレントなんて呼ばれる木の魔物をバラして裏庭の隅に粗末な小屋を建て、そこで定期的に燻されている。
日が落ちれば肥えに肥えた神力を無駄なく使い、鑑定技法でこの世の真理を解き明かす。砂粒の一つ分ずつでも、私は確実に昨夜より物知りになる。
後はお風呂とベッドにイン! 素晴らしきメルヘン生活。愛すべきマジカル隠棲。求めていた平穏が、今ここにある。
私達はそれぞれがそれぞれの夢や目標を持っている。それに向け、やっと本腰入れて自分磨きに取り掛かれるようになった。嬉しくてたまらない。
……懸念があるとすれば、ここが世界の中継地であるセント・ルナであるということであったが、ここの住人はあまり他人に興味がない。特に心をかき乱すような問題は今日この時まで起きていなかった。
それをぶち壊しにきた中年を労る心は欠品している。
「先触れもなしによくもまぁ……学習しないものですね」
ある冬の日、長閑な午後。何年も前に二、三回ほど対面した冒険者ギルドセント・ルナ支部の長がやってきた。最後に見た時より心なし頭が白くなっているような気がするが、この記憶に自信はない。
ただ、あの時もいきなり押しかけてきたことは鮮明に覚えている。傍若無人モードで対応したはずだ。ついでにもう一つ覚えている。次はないと警告した。
彼は覚えている……あるいは、今思い出したのかもしれない。
なにせこの初老に差し掛かりつつある中年、顔が真っ青であり真っ赤でもある。
頭が白くてトリコロール。きっと胃痛を押し殺しながら走ってきて、その上で心ない女に威圧されている。思わず心配にもなろうというもの。たった今入荷したが、忙しいので品出しはまた後にする。
「……申し訳ない、急を要する。とりあえず話を聞いて欲しい」
顔色は悪いが、表情も憂鬱極まりないという色を隠しきれていない。息も絶え絶えで身体から湯気を立ち上らせているが、これでも海千山千の猛者達と渡り合ってきた猛者のはず。
普段はダンディーにホームで指揮を執っているのだろう。お家ではいいパパさんをやっているのかもしれない。この苦虫を奥歯で磨り潰すことで気付け薬にしているかのような表情を娘さんには見せられない。孫は泣く。
流石に門前払いは気が引ける。私は空よりも広い女神のような心の器の持ち主なので、内心聞くだけ聞いてあげようとは思っている。自分用に淹れていた熱くて渋いお茶も出す。おもてなしの心を忘れてはいけない。
リューンがいれば私はこの役柄に専念できるのに、今日は三人揃って不在にしている。間の悪いことだ。
でもまぁ、溜息くらいは吐かせてもらおう。察してちゃんではいけない、アピールは大事だ。
「はぁ……それで、何用ですか」
聞かないと話が進まない。それに内容もおおよそ察しがつく。どうせまたスタンピードだの邪神だのお姫様の護衛だの奪還だのって言われる。絶対にノー! だ、飽き飽きしているそんな仕事。もっと楽しそうな──。
「貴女に会いたいという御方がギルドに来ている。無理を承知で頼む、顔を出してくれっ!」
──イベントが発生した。ちょっと興味を惹かれるが、ソフィア達の来島はまだ先のはず。他に心当たりはない。
それにしてもなんだ、随分と必死だ。それに仮にもギルドのトップに「御方」なんて呼ばれ方をするだなんて、気にはなる。私もあの御方扱いされたい。名前を呼んではいけない人扱いされたい。
忙しいというほど立て込んでいるわけでもないし、面倒事はその後っぽいし、別に今ここで頷いてあげてもいいのだが、都合のいい女扱いされては困る。それに私の趣味はおっさんの胃に穴を開けることだ。条件反射でいじわるしてしまう。
「そんな要請にいちいち応えていたらキリがありません。お断りします」
キャッチボールでデッドボール、まずは小手調べに穴一つ。
お引き取り下さいと空気で語り、さっさと帰れとオーラでアピール。ここで帰ってもらっても消化不良だが、どうせ話は続く。連れて行かないとマズイんだろう、本当に。
他国ならまだしも、ここは冒険者の楽園セント・ルナ。貴族や王族ですら覚悟なしには無茶できないこの迷宮島で、無理を通せる立場の人間なんて限られている。
商売関係ならそっちのギルドが来るはずだ。あっちの長とも面識がある。
「後生だ! 頼むっ!」
ここでようやく頭をしっかり下げられた。私はあれだな、この人にあまりいい感情を持たれていないっぽいな。
思えばルナでは仕事の一つも受けたことがない。貢献点ゼロ。お屋敷を安値で買い上げたことを思えば赤字なんじゃなかろうか。
それに北の仕事の仲介料を逆に吹っかけておいて、受け取りにすら行っていない。普通に忘れてた、依頼を請けてからきっと十年近く経っている。
おまけに会いにくるたびに、目の前の女は決まってひたすらに偉そうなのだ。しかも溜息を吐いても胸は揺れず、足を組み替えてもパンツを見せない。
これでいい感情を持つような男は性癖に問題がある。乱闘を通り越して闇討ち案件だと思う。
そんなことをしても返り討ちにあうことが分かりきっているからこそ、この表情なわけだ。中間管理職も大変だね。
「……どちらです?」
沈黙を演出してたっぷり焦らし、中年の頭が沸騰するギリギリを狙って声を上げた。
娘さんからクレームが入る前に、お孫さんが泣き出す前に、苦悶顔に免じてこの辺で勘弁してあげよう。
「どちら……とは?」
「道理を弁えない大陸の脳足りん貴族か、ワガママばかり言う一級冒険者。どちらなのか──と、聞いているのです」
少しくらいは優しくしてあげてもいい。デートはお断りするけれど。
女の支度には時間がかかる。そうでなくとも人と会おうというのだ、相応の身嗜みというものがある。
私は相手がお国のトップであろうと戦闘服の白ワンピとサンダルにすっぴんで通すような女なのだから、今更ではあるのだけれども。
おっさんを一人でリビングに待機させるのは賭けに近い心境に陥るが、勝手にひょこひょこお家探険をしている様子もない。渋目のお茶が効いている。
手早くチャチャッとおニューの戦闘服に身を包み、改めて髪を梳かし、まとめ、爪のチェックも怠らない。
ちょこっと紅を引いてみて、お風呂を端折れば準備も万端。装備もしっかり身に着け、臨戦態勢を整えた後に二人で家を出る。
「馬車の一つも用意しておくものではないですか?」
コミュニケーションは大事だ。仲間に限った話でもない。おニューの戦闘靴の具合を改めてチェックしながら、特に頭で吟味せずに適当な話題を投げつける。
「……申し訳ない、ルナでは使用を禁止されている」
「知っています」
「……そうかよっ!」
軽いジョークなのに、怒らないで欲しい。腕白坊主め、そんなにキャッチボールがしたいのか。
こんないつ雪が降ってもおかしくない日和を中年男と二人して歩いているのだ。天気の話題は話が飛躍してしまう。お空は灰色、私の目の色髪の色。当時私はまだ黒髪であった、このドラマを語れば休み時間では足らなくなる。
きっとこの人の心中もこんな感じなんだろう。傍迷惑な誰それが来島しなければ、昨日と同じ今日を過ごせていたはず。そう思うと可哀想にもなる。
「……そういえば、移動用魔導具の個人所有や使用に関しての制限はどうなっているのでしょう?」
ついでなので尋ねておこう。勝手に作ってもいいんだろうか、メルヘン馬車。
「水上の移動用ということであれば、申請すれば審査が入る。それで許可が降りることもあるが、個人で大型の物となると難しい。港を使うならまた管轄が変わる。陸上用は例外がない」
詳しいな。腕白の癖に。
「こっそり保有してるだけなら?」
「……他に問題を起こさねば罪には問わん」
「なるほど」
本当はダメだけど、使わないならいいよ! ってことだ。そういうことにしておく。お空用はグレーかな。上手いこと言った!
車もね、そろそろ作ろうと思うんです。お尻が痛くならないヤツを。少し飛べるヤツを。
冒険者ギルドへの道筋はいくつもあるが、ここ特有のルートとして、一度迷宮内部に入ってしまう──という手法が一般化されているのが面白い。
この迷宮島、迷宮への入り口は島内に割と沢山ある。きちんと数えたことはないが、数十どころではなく、普通に数百ある。
だが行き先は五ブロックある第一階層のいずれかで、そこから即座に大穴を引き返せば、上の開いたルナの三日月型の地形と相関して、北西、西、中央本部、東、北東のギルドのどこかに即座に移動できる。
迷宮の第一階層なんてどこも魔物は居ないか、居たとしてもとても弱い。ブロック間を移動すれば、大幅な移動時間の短縮が可能となる場合がある。
通行料を取れば儲かりそうなのに、それをしていないのは……馬車の件と関係しているのかもしれない。
当家は位置的に中央寄りなこともあり、最寄りの野良入り口は中央ブロック第一階層の大穴へと繋がっている。そのまま戻ればそこはギルドの屋内。一応本部扱いされているそこになる。
復路は歩かねばならないけれど、往路だけは早いのだ。彼にとっては復路で、往路を走ってきたわけだけど。
こんな事情もあってか、そもそもこれがこの島の本分だからか、冒険者ギルドはとても広い。
特に中央の本部はエントランスだけでも体育館のような規模をしていて、顔の怖い冒険者と買い物帰りの母娘連れとが当たり前のようにすれ違ったりしている。
市民に手を出そうものなら四方八方から即座に袋叩きに遭うわけだが、散歩帰りのようなお婆ちゃんがごっつい刃物を隠した凄腕の現役冒険者でないという保証はない。
誘拐や引ったくりの一つを目論むにも危険が一杯。冒険者もここではまだ大人しい。それでも賑わっているのはまぁ……いつものことだ。
そんな騒動もあり、いきなり現れたおっさんがギルマスだと気づく者は少なく、同伴しているのが一級冒険者だと気づく者はいない。
「……案内する、付いてきてくれ」
優先順位はこれより高いらしい。返事を返さず無言で追従。ここで依頼書を眺めにでもフラフラ旅立ってしまえば発見は困難になる。きっと胃に大穴が開くだろう。小悪魔心がチラチラしてくる。
(ヤベェのがいるぞ……)
──なんて遊び半分でいられたのもギルドの中枢、応接区画に通されるまでのこと。
部屋の外からでも、数部屋分を挟んでいても伝わってくる、アホみたいな魔力の圧に冷や汗と慄きを隠せない。
当然扉は重厚で、きっと壁も肉厚で、しかも閉まっている。なのにビンビンに伝わってくる。正直邪神なんかよりよっぽど怖い。封印の恐怖ほどではないことでかろうじて理性を保っていられるのだから、フロンには感謝しなくてはいけない。
私とて日々成長しているのだ。「この戦士の気力はこんなもんかな」とか、「このエルフの魔力は中々だな」なんてものは、相対すればおおよそ判別することができる。
格も器も、なんとなしに感じられるようになるのは歴戦の証っぽくてカッコイイ。
昔は二つ持ちであることを初対面の他人に見破られてきたことに驚いていたが、なんてことはない。これが精力というメルヘンパワーの一端なのだと思う。第六感みたいな。
森での修行中になんとなく察し、それを磨き上げる手法もついでに身につけたのだが、仮定の全てが真に精力のそれであるかどうかについては、まだ推論の粋を出ていない。
現実逃避から帰ってくれば、やっぱりヤバイのがいる。本当にヤバイ。戦闘の技量だけならリューンは私の上をいっているなとか、フロンの殲滅力は頼りになるなぁとか、ギースは世界一だな! なんて謙遜とよいしょ混じりのヤバイではない。
ガッチガチ、マジモンの危険物がすぐそこにある。いるじゃなくて、ある。たぶん生物の枠組みに収まる存在であるとは思うのだが、正直爆弾の塊にしか思えない。
私でもこうは見られていないだろう。全体的に高バランスでまとまってはいると思うが、ここまで何かが突き抜けているわけではない。
「……帰ってもいいですか?」
足を止め、思わず素になり本音も漏れる。本気で今すぐ帰りたい。島を出たい。
「気持ちは分かるが、助けてくれ……」
返ってくる言葉も潜められている。聞こえたら絶対にヤバイ。こんなのにさっさと私を連れて来いと命令されたわけだ。そりゃあ部下に任せず自分で走る。
二度手間になればマジで命に関わるかもしれない──。そう直観できない、危機感の足りていない人間はこの世界では長生きできない。
それに私ならこんなのと同じ部屋にいるなんて死んでもゴメンだ。先触れも出さずに自分で走る。全力で保身に走る。
家に直帰して家族で脱島を企てなかっただけ、この男は立派だ。責任感がある。
今度からは本当にもうちょっと優しくしてあげよう。この僅かな時間で、中年の頭は一層白くなったように見えるのだから。