第三百五十三話
結局リューンの回復を待つということで話がまとまり、もうしばらくの間港町に滞在することが決まった。
港は活気があり、当然人の目も多い。楽しいのだがそれにも良し悪しある。本当は移動した方が安全なのだろうが、目的地はまともな手段では少々時間のかかる場所にあるわけだ。
私が本調子であれば力技で解決できる程度の問題だが、現在は牛の消化と物理障壁術式の消滅を視野に入れている関係でこの上なく自由が効かない。
それに、転移でポンポン移動するというのも風情がない。
歩きで、乗り合い馬車で、たまに走ってみたりして。そういう……メルヘンちっくなトラベルというものを味わってみるのが、正しい休暇の在り方というものなんじゃなかろうか。
エルフとエルフとお嬢と、森の木漏れ日に、草花の彩りを、温かな風の心地良さを全身で感じながら。ピクニック風味の、そういうのがいい。
森を掘り起こし、草花を焼き払い、瘴気塗れの冷たい突風に煽られる時代は終わった。
平和な道をのんびり歩いてみたい。私はこういうのを、商隊のおっさん達としかやったことがない。
(……嘘でしょ? えっ……えっ?)
いや待て、マジで? そんなまさか、どこかで……どこかであると──。
マラソンの記憶だけが脳内を延々と過り続ける。走馬灯というヤツかもしれない。私下手したら馬より走ってるな。
本当に出てこない。確かに枯れた湖の底を歩いたりしたことはあるけれども、ギースと出会ってからは私の辞書から徒歩という文字は消えている。
アルシュでも走った。バイアルに向かうのも、パイトへも、王都まで──。
(ある! あったあった! ソフィアとちょっとだけ歩いたね。明るい間だけだけど……。うんうん、ちゃんとやってる。普通の旅っぽいこと)
よかった、普通の旅人っぽいことちゃんとやってる。そうだよ、こういうのでいいんだよ。
「ねぇねぇリリウムさんや」
「なんでしょうか」
今日はリューンをフロンに任せ、使徒と二人で近所の森へと遊びに来ている。ピクニックデートというやつだ。
二人して本来の得物と藪払いのための黒い刃物とを抜身で構え、楽しいお弁当も持たず、色気のない長袖長ズボンの作業着に身を包んではいるが、ソフィアならきっとこれをデートだと強弁して譲らない。
なにせ並んでゆっくり歩いている。とてもとてもデートっぽい。実際はただ魔石を取りに来ているだけなんだけど。
水石と風石が欲しいのだ。火石もあるに越したことない。時間があるので、陸地にいる間にビタミンを冷凍乾燥させて溜め込んでおきたい。
「ターナケヒトって港からどれくらいかかるかな? 普通に歩いて三十日くらい?」
ただの野生動物はスルーし、魔獣の類を出会い頭にド突いては魔石を《探査》で捉えて《次元箱》に叩き込んでいく。傍目には魔獣がその場で消えたようにしか見えないだろう。
「ヴァーリルよりは遠いですから、わたくしやサクラでしたら……徒歩なら三十日も経たずに辿り着くと思いますが」
「だよねぇ」
足元から忍び寄ってきた蛇をペチンと叩き、砂粒を収めて息をつく。
直線距離なら歩いても半分、走れば更にその半分以下の日数で辿り着ける。山頂から山頂へショートカットを繰り返せばの話だけれども。
そんなことをするくらいなら初めから《転移》で移動するが、そんなの普通でもピクニックでも旅でもない。ただの移動だ。
「馬を買ってしまってもよろしいのでは。到着次第売ってしまえば大した足も出ないでしょうし」
魅力的な提案に心が動きそうになりながら、じゃれついてきた迷宮一、二層レベルの角ウサギを撫でるようにして消滅させる。大好きだが、だからと言って軽い気持ちで生き物を飼おうとするのもどうかと思わないでもない。
「売りたくなくなるだろうなぁ……」
馬は港や大きな町なら商会経由で普通に買えるし、状態が悪くなければ普通に買い取ってももらえる。馬車も同じく。
だが馬とて霞を食んで生きるわけではない。色々と入用になるし、手もかかる。宿は馬房付きの店舗を選ばなくてはならなくなるし、そもそも馬に乗っていてはいつまで経ってもフロンの生力が育たない。
ルナに連れていけるならまだしも、あそこは馬も馬車も禁じられている。売るなんて、寂しすぎる。
「なら、食べてしまいます? サクラがお世話をした子なら、とても美味しくなりそうです」
「その前にお前から食っちゃるわ」
お嬢をド突こうとしたが、既に射程圏外に逃げられていた。可愛い顔でテヘッってしているので、まぁ……許そう。
「それにしても……居ないね。平和で結構だ」
朝から始めて昼を過ぎ、一泊する気もないので多少経路を変えて早々に町へと戻っている。戦果はよろしくない。
数はそれなりだが量がまるでダメだ。重量で計れば、パイトならそれぞれ一分経たず集められる程度の量しか入手できなかった。
「浅い森の中ですから仕方ありません。……が、それでも大型獣の一匹も見かけないというのは妙ですね」
「小動物はそれなりにいるんだけどねぇ」
定期的に駆除されているのか、森の中は平穏そのもの。獣道を選んで進んできたというのに、道を作ったであろう大型の獣とまるで遭遇しない。
普通の猪も、普通じゃない猪も。普通の鹿も、普通じゃない鹿も。
序盤は頻繁に《探査》を撒いていたが帰ってくる反応が寂しいものだったので、既にその頻度は打ち切りレベルに近い。
「またスタンピードが発生してたりしてね」
軽口を叩きながら散歩できる程度に、何もいない。完全に無警戒モードに入るまではしないが、気が抜けてしまう。
「あれはそう頻繁に発生するようなものではありませんが……オークってこの辺りに出没しましたかしら」
「もっと北の方だとか言ってた気がするけど」
餌の方が大移動したんだろうか。オークの大発生イコール、マズイお肉の大増殖。最悪だ。ハエも育たない。
「わたくしもそのような認識なのですが……」
元から大型の棲息数の少ない地域だった──なんて、そんなノリで終わりそうな話だ。一見真面目そうな顔をして考えこんでいるが、内心は晩酌のことで頭がいっぱいだと思う。
死亡直後、ガルデ行きの街道で大猪を探すのに私も結構苦労した。迷宮やスタンピードの魔物密度を標準で考えてはいけない。
それにしたって少なすぎるとは思うのだが、既に興味も失せている。少ないなら少ないなりに活用はできることだし。
「まぁ、取れないなら取れないでいいよ。たらふく食べさせてから乗船すれば……百日そこらで再発はしないでしょ」
壊血病って癖になったりするのだろうか。脱臼みたいに。
リューンが問題なく歩き回れるようになって口から血が滲まなくなったのは、それからすぐのことだった。
お騒がせエルフと共に八百屋さんにお礼を告げに行き、「これからどうしようかー?」みたいな話を適当にしながらダラダラしていると、不思議なことに、いつの間にか冬が明けていた。
夏は暑いから止めておこう。秋が短い、春を待つべきだ。冬に移動をするのは正気の沙汰ではない。しばらく雨が続きそうだ。だいたいこんな感じで今に至る。
明確な四季があるというわけでもないのだが、暑くなったり寒くなったりはするし、それは流転する。
窮屈な生活を敷いられてきたルナや船上と比べれば、この環境は天国に近い。すっかり住み着いてしまい、次第に重い腰は全く上がらなくなった。
リューン以外は好きなように飲み食いをして、適当に散歩をしたり、市場を賑やかしに行ったり、身体を動かしに町を出たり、宿に篭ったり。お風呂も個々人でテキトーに。
たまに群れて店舗を冷やかしに出かけたりもするが、今まで以上に各々好きに、自分の時間を使うようになっている。
もちろん私も例外ではない。
「森に行ってくるねー」
「うん、いってらっしゃーい」
私が出かけると言っているのに「一緒に行く!」と言わなくなるほどに、日常化した一幕。
「今日も素振りですか?」
「いつも通り。夕飯までには戻ってくるから」
「分かった、気をつけてな」
フロンはともかくリリウムまでお見送りモードとなっているが、それを気にすることなく支度を整える程度に、常と化した日課。一緒に行く? と問うこともない。
私は森の賢者なので、自称森の民とは違い森を愛している。静かで、平和で、何もかもが心地良い深い森を。
昨日の蕾が花開いている。リスがこちらを見下ろしている。鳥の鳴き声が増えた。この草は伸びるのが早い。
あの草は食える。この草は食ったら死ぬ。その草はギルドで売れる。民から色々なことを教われば視点も変わり、日々の変化が楽しくなるのだ。
お嬢は食指が動かないのか滅多についてこない。エルフ達は見飽きているので興味がない。それでも一人で向かうのだが、別に寂しいとも悲しいとも思わない。
好きに時間を使うのが休暇の正しい在り方というもの。必ず日帰りで戻ってくるのでうるさく言われることもない。
一度《次元箱》の中身を調べ、訓練道具が揃っていることを確認してから宿を出る。今日も日差しが強くなりそうだ。
港町から南へ、海沿いに森や崖の感触を足で感じながら進んでいく。
最近定番の散歩コースで、朝は冷たい潮風と森の空気がいい感じのカオスを演出してくれて気に入っている。
「……これは売れる。……これは染まる。……こいつは風石。……これは美味しい」
駆け出し冒険者が必死になってこなす採取依頼も、私にとっては日々の修行の一環だ。
これでちょうど一日分の生活費をすりきり一杯過不足なく稼ぐことを目標にし、その多寡に内心一喜一憂するのも密かな楽しみの一つ。
後はお金にならない色の強い花を摘んで花束を作ってみたり、花瓶に活けてみたり、乙女っぽいことをしながらズンズンと歩を進める。
「……これは葉っぱだけを採る、数枚残す。……これは根だけでいいけど、花は色味が強くて染め物に使える。……キノコ、キノコはダメだ。不干渉を徹底する」
独り言をブツブツ漏らしているのは、別に寂しいからでも怖いからでもない。ただの反芻だ。牛だけに。
「あれ、これどっちだっけ……葉脈の形が……。裏側に黒い斑点があれば毒なんだけど……触ったらかぶれるんだよね」
鑑定したくなるが、これは戒められている。表側から本質を見抜けるよう身体で覚えなくてはならない。
黙っていればバレなさそうなものだが、痛くなければ覚えないし、鑑定に至ってはそうもいかない。反動を見抜かれて一発だ。フロンに怒られてしまう。
「しゃーない。女は度胸だ。お願い神様っ!」
私の祈りは通じない。
対になるアロエっぽい癒し系の葉肉で指の炎症を癒やしながら、やがて目的地へと到着した。
名付けて空き地だ。おおよそ二十メートル四方、背の低い草が生え茂っているだけの、木も花もご遠慮頂いている空白地。
池だったり川だったり湖だったりもしない。ただの空き地。ここで身体を動かすことが目的だ。
「向いてはいるんだろうけど……どうにもね、制御がね」
《次元箱》から道具を取り出す。市販のロングソード、市販の金属鎧、鎖帷子にフルフェイスの兜、鈍重なすね当て、おまけに騎士が身に着けていそうなマントまで。
オーダーメイドでもセット品でもない。値段と重さだけを見て選んだのだ、見てくれは酷いことになっている。
金属製の全身鎧は一人で身に着けるのが大変なのだが、宙空に固定できれば話も変わってくる。
足場魔法に極力魔力を通さないよう気をつけながら手早く装備を身につけ、剣を佩く。
(相変わらず視界悪いなぁ……動きにくいし)
このぼやきもすっかり日常となった。身じろぎするだけでジャキジャキ音を立てる安物にため息をつきながら、最後に本題を取り出す。
大金貨二枚で手に入れた──長い長い、一振りの槍を。