第三百五十二話
春からおおよそ半年、初冬から更に百二十日。船でおおよそ一年間。
合間にしばらく陸で生活していたものの、流石にぶっ続けで船旅一年は堪える。
鈍りに鈍った身体を動かしたいところではあるが、それはまだお預け。精彩を欠いているお肌に活を入れるためにもお風呂へ直行したいところだけれども、これもまだお預け。
人生三度目となる西大陸の港町、マヘルナへと到着してまずしなくてはならないことは、八百屋か果物屋さんを見つけることだ。
「普段からお肉ばっかりで……野菜も食べておかないからこうなるんだよ……」
「うぇぇ……」
リューンが死んでいる。染みるであろうがおかまいなし、グレープフルーツを思わせる柑橘をパワーで半分にむしって絞り出し、容器にも移さずに汁と果肉とを直接口に流し込んでいく。
気管に入らないよう気を払ってはいるが、欠乏していたフレッシュなビタミンが我先にと可愛いお口へ飛び込んでいくことで、盛大にむせている。
だが吐き出すことは認めない。手のひらで押さえつけて嚥下を強制する。本当に手のかかるエルフだ。
駆け寄ってきた客が硬貨を放り出して店の前で品物を鷲掴みにしたというにも関わらず、店員のお姉さんが苦笑していられるのは……ここがメルヘン港町だからだろう。
古来より、壊血病は船乗りの職業病のようなものだ。
新鮮な野菜が手に入らない環境に長く置かれると、自前でビタミンCを生成できない生物は筋肉や関節が痛み出し、粘膜から出血しやすくなったり──。
私も知識でしか知らなかったが、これはエルフにも起こりうる。よもや最も身近なエルフが罹ろうとは思いもしなかった。
森の民とか自称しているのだから、光合成で生成できればよかったのにね。
「ほら、全部飲んで」
ふと思い立って口がリスになるまで含ませて、噴出口を抑えて飲み込ませる。鼻から出したら笑ってやろう。
「んぐぅっ!? ……ゴホッ! にがぁ……ゲホッ! ゴッ、ゴッ──!」
「……喋らなくていいから」
可愛くないむせ方をするな。ゴッってなんだ、ゴッって。
ビタミンCは厄介な栄養素だ。極めて重要なくせに、加熱や酸化で簡単に壊れてしまう。
地球でよく飲んでいた野菜や果物のジュースなんて物も果実本来のビタミンは濃縮や殺菌の段階でほぼ死に絶えていて、大抵後付で添加されて帳尻を合わせている。
一番良いのは、生をそのまま頂くこと。
食肉からでも摂取はできるが大抵は熱を通してしまうわけで、その際に軒並み破壊される。
ピーマンやパプリカ、そして芋由来の成分は加熱に強いとか聞いた覚えがあるのだが、リューンは好んでこれらを食さない。子供じゃあるまいに。
長く続いたカーリの仕事で、その後の船旅で、ルナで、そして今回の船旅で。偏食が祟り、本人の体内環境は結構なところまで追い詰められていたようだ。
そのツケを払う時がきただけの話ではある。自業自得だが、発見が早期で良かった。
栄養失調なんて、治癒や浄化でどうにかなりはしないのだから。
追加でいくつもの生鮮食品を購入して場所を移す。
適当な宿の空室へと駆け込み、エルフをベッドに放って多種多様な果物を、幅広く絞っては口に、絞っては口に流し込んでいく。
グレープフルーツっぽいが、これがそうとは限らない。ベリーっぽいが、ビタミン豊富だとは限らない。
とてもすっぱい巨大な推定レモンや、丸かじりできる推定ゆずが全くビタミンCを含んでいないなんてことは普通にあり得る。ここは地球ではない。
とにかく数だ。多種多様、なんでも絞る。
(ミキサーなど不要っ! ……ミックスジュースにすれば良かったか)
購入してきたブツを粗方絞り終え、息も絶え絶えのエルフを横目に、適当に残りを処理しながら口を開く。生ぬるいが、それなりに新鮮で美味だ。
「最近口づけをねだらないなと思っていたら……言ってよ、ほんとに。これ普通に死ぬ病気なんだからね?」
もしかしたら他の病や、あるいは合併症を引き起こしているだとか──そういう可能性も残されている。医者に診せに行こうかしら。
いつの頃からだったかは記憶にない。別に私達だって四六時中ちゅっちゅちゅっちゅしているわけではない。きちんと自重できてエライね、程度の感想しか持たず、気に留めることもなかったのは……私の落ち度なのかな。
「だってぇ……そのうち治るかな、って──」
「治るわけないでしょっ!」
妙にしおらしくなって寝起きが一層悪くなり、船の揺れでよろっとふらつくようになったり……口から血を吐いているところを見つけた時には血の気が引いた。現実は歯ぐきから血を滲ませていただけだったけど。
一緒にお風呂に入る機会があれば、あるいは髪の調子が悪いだとか、そういったことで気づけたかもしれ──。
(……いや、気づけないな。髪や肌の調子が悪いだなんて、普通はよくあることだし)
きちんと食べて寝て、身体を動かしてさえいれば大抵は健康でいられる。生力次第で大抵の怪我は放っておいても治る。だがそれでも罹る病というものはある。
そういったものは大抵治癒でなんとかなりはするのだが、これは結構お高いわけだ。
ソフィアが無料でやってくれるのは破格もいいところ。やっぱり聖女ちゃんだ、私よりよっぽど女神っぽい。
そんな治癒魔法、今後後方からの壁役を期待されている私に絶好の術式のように思えるが、残念なことに私は不適格者。これの才能はどこかに置いてきてしまっている。
(それでも女神様特典で使えないことはないはずなんだけど、杖で全力ブーストすれば……うーん)
そもそも力の限り叩き込んでいいものなのか、治癒って。
船室で体調を崩したリューンを連れ、大海原に飛び出してから二十日ほど経った頃、ようやく船が追い付いてきた。
この頃には……まぁ、比較的マシになってきたような気がしないでもない。にじむ程度で、歯ぐきから血をドバドバと流しながら生野菜をかじることもなくなった。
こんなになっても食欲だけはあるのが私のエルフ。三度の食事はテイクアウト、私基準の腹六分目程度にそれぞれの量を減らしてもらい、残りの二分目を野菜と果物で埋め尽くす。サクラちゃん特製のサラダとフルーツの盛り合わせ。愛妻料理というやつだ。
水洗いして切っただけだけど、金を取ればこれだけでソフィアをオケラにできる。一部愛好家垂涎の品。
味わって食べて欲しい。調味料が欲しければ染め物で使っている塩がある。自分の血で味が物足りなければ、摂り過ぎにならない程度に使ってくれても構わない。
「──下船したかな。迎えに行ってくるから、勝手に外にお肉食べに行かないでね?」
《探査》に反応アリ。野菜ではなく、布と大根を煮込んでいる鍋から顔を上げて外出の支度をする。どうせすぐに戻るとはいえ、顔は極力晒さない方がいい。
「い、行かないよぉ……」
前科二犯がのたまう。「行かないでよぉ」ではない。これがリューンという女だ。
まるで信用できないので《結界》で閉じ込めていきたいのだが、船から《転移》マラソンしたせいで消化の進捗が遅れに遅れてしまっている。
四年で完了させる! をただの努力目標としないためにも、こういうところをケチらなくてはならない。
「今度部屋にいなかったらリューンのことは忘れて三人で旅に出るからね。強盗追い払うくらいはできるでしょ? 戻ってくるまで耐えて」
「うぅぅ……」
うーじゃない。お花を摘みに行くは、猪のステーキを食べに行くの隠語ではないのだ。ここでまた無駄に《探査》するハメになった。
「あっ、そうだ! サクラぁ……一人にしないでぇ……」
一度だけ可愛く微笑み、そのまま無視して部屋を出る。
「──偏食の結果がこれか」
「アホですわね……」
事情の説明もそこそこに大急ぎで飛び出したがため、二人はそれなりに心配をしてくれていた。
……のだが、原因を知ってしまえば視線は冷たくなる。珍しくリリウムよりフロンの方が冷ややかだ。
道中、そして部屋に戻ってきても、フロンの冬は明けることがない。
「ごめんなさい……」
私相手なら強気に出ることができても、この二人相手に媚び売っても通用しない。
病人スタイルのリューンちゃんは白旗を上げて素直に頭を下げた。申し訳なく思ってはいるんだろう、きっと。
「常々姉さんも言っているだろう。肉ばかり食っていないで野菜も食えと。お前は何を聞いていた。少したるんでいるのではないか?」
「リューンさんの偏食っぷりは病的ですからね。良い薬になったのでは」
命に別状はないと知らされてからはリリウムも落ち着いた。本人は否定するかもしれないが、これで結構狼狽していたのだ。
一方フロンは落ち着かない。リリウムのおかん属性が伝染ったのか、腰に手を当てた仁王立ちスタイルでガミガミとお説教を続けている。
「どうしようか、しばらくここに滞在する? この辺あまり落ち着ける町ってないんだよね」
ハイエルフ達は放っておいて、リリウムと今後についての打ち合わせをする。リューンがこのザマでは、普通の移動手段で町を行き来するのは難しい。
完治までに半年も一年もかかるような病ではなかったはずだ。現に出血の量は収まりつつあるし、食欲も……まぁ、これはいつものことだが、それなりにある。元気っちゃ元気なんだ、こう見えて。
だがコンディションを整えずして魔物が跋扈する危険地帯へ繰り出すなんてアホのすることだ。その辺にいるオークにうっかり頭を殴られればリューンは死ぬ。ハイエルフの身体強化術式とて絶対ではない。
不調でも働かなければならない──なんてことも往々にして起こり得るわけで、比較的安全な今、この機会に味わっておく……というのもまた、考え方としてはありだと思う。
「フロンのこともありますので、徒歩でゆっくりでも移動をしながら……というのが良いのでしょうけれど」
お嬢がチラリ。フロンは気力マン基準でモヤシ判定される生粋の後衛っ子。別にそれが彼女の価値を貶めるというわけではないが、本人も体力不足を痛感しており、これを是正したいと考えていた。
体力をつけるには走るのが手っ取り早いのだが、いきなり町と町の間をマラソンさせてもダメになるだけだ。だがどれだけ時間がかかろうと、休み休みでも、諦めずに歩いていればそのうちゴールに辿り着く。そういうところから始めたいよね、みたいな話はしていた。
「どうせ仕事は請けられないし……観光も兼ねてもうしばらく様子見ようか。一応治癒師には診せたけど、途中で酷くなられても困るし」
「そういたしましょう。部屋を移らねばなりませんね」
リリウムが受付へと出向く。ここは二人部屋、四人で生活するにはちと狭い。
まぁ、急ぐ旅でもない。というか目的は休暇だ。人目が多いことに目を瞑れば、別にこの港街でのんびりしてもいいわけで。
町から出れば魔物もいる。快適にその日暮らしをする程度の魔石は普通に集まると思う。
(野良の魔物分布も地図にまとめたら便利そうだけど……記録したところで、数十数百年で過去のものになりそうだよね……)
野良限定種の魔物というものもいるかもしれない。いざという時役に立ちそうではあるのだが。
とりあえずは……フロンが落ち着くのを待とう。