第三百五十一話
特に手が増えることも減ることもなく、半年かけて船は大海原の迷宮島、セント・ルナへと到着した。
まん丸の島の、北側一帯を円形状に繰り抜いたような形をした三日月の楽園。北大陸からだと迂回することなく弧状の港に一直線なのが楽でいい。
そう毎度毎度イベントに見舞われることはない。食べて寝て、お勉強をして寝て、また食べて寝る。
他の冒険者に絡まれたり、商人に絡まれたり、暗殺者に狙われるなんて面倒事も。
サメの大群に襲われるだとか、イルカの群れに囲まれるだとか、クジラが船底をぶち破る……みたいな楽しそうなイベントも起こらない。
平和で大変よろしいことだ。頑張って芝居を打った甲斐があるというもの。
──さて、残念ながらここでドラマは発生しない。
迅速にフロン印の宿に転がり込み、三人がワニを狩りに迷宮に向かい、ついでに集めてきて欲しい素材をいくつも頼み、皮を鞣して革にして、西行きの船が出るまでの間、適当に時間を潰すだけ。
鞣し作業は一日二日で終わるようなものではない。以前は仕事をしている間にギルドが勝手にやってくれていたが、今回は革屋さんにお金を払って依頼を出す必要がある。
すぐさま取り掛かってくれるとも限らないし、作業にどれだけ日数を要するかもまだ定かではない。
その間、私はひたすらじっとしている必要がある。
私達はルナに居ないことになっている。目立つ行動は控えねばならない。ギルドで仕事を請けることも、素顔を晒して買い物することも、自宅のお庭でチャンバラすることもできやしない。
時季は初夏を過ぎた。つまり夏だ。分厚い外套にフードを被っていれば逆に目立つ。お買い物はここでは珍しくもなんともない金髪エルフ組に任せ、並んでいると途端に目を引くようになる銀灰組は存分に引きこもりライフを満喫することと決めていた。
私の仕事は寝ることで、護衛に裁縫娘がついていて、エルフ達は頻繁にデートへと出掛ける。
羨ましい限りだが、心を殺しておかなければ迷宮に入りたくて入りたくて仕方がなくなる。辛抱してつかぁさい、ってね。
「退屈だにゃー」
本をパタリ。ペンをコトリ。身体が凝り固まっているのを自認した瞬間に集中力が切れた。椅子に腰掛けたままググーッと大きく伸びをして、溜息と共に脱力する。
早朝から始めてお昼が近い。本来人間の集中力なんて一時間程度で切れるものだと考えれば、なるほど。それなりに保った方だと言えるかもしれない。
「そうですわね」
「そっけないにゃー。遊んで欲しいにゃー」
一方お嬢の集中力は凄まじい。型紙にペンで線を引き、ハサミで切り抜き、布を裁ち、手慣れた仕草でそれを縫い合わせていく。
作業中にほとんど体幹が動かないのがこれまた凄まじい。胸が一切揺れないのだ。機械的にペースを崩さずちくちくと、こいつは放っておくと延々とお針子を続けるマシーンと化してしまう。
「今いいところなのです。後にして下さいまし」
「リリウムが冷たいにゃー。寂しいにゃー」
可愛く甘えれば本来こいつはイチコロなのだが、本当にいいところなんだろう。無感情トーンで邪険にされてしまう。
(そんなに楽しいのかにゃー)
お嬢をチラリ。よくもまぁ飽きないものだと感心する。
決して自慢できることではないのだが、私は裁縫が苦手だ。
無論ボタンを縫い付けるくらいのことはできる。ズボンの裾上げくらいまでなら、まぁ……できる、はず。
ただミシンもなしに一枚布から服を拵えるだなんて、魔法だとしか思えない程度には苦手としている。
(魔法で服が作れれば楽なんだけどにゃー)
なんかこう、ないだろうか。マジカル裁断にマジカル縫製、マジカル接着にマジカルアイロンでピシっとメルヘン衣装が仕立てあげられる、みたいなことが。
それができるなら、私は一歩戻って機織りから突き詰めてみたい。この世界の布というものは高級な物はそれなりなのだが、お貴族様未満の物となると途端に質が低下してしまう。
私が万年白大根製ワンピースの着たきり雀になっていたのはその防御能力もさることながら、あの魔物素材が並みの布より遥かに上等上質な代物であったからに他ならない。
南大陸から燕尾服をかっぱらってきたのもそうだ。着心地が段違いなのだ。
いっそ服は全て大根製でもいいと断言できる程度には気に入っている。染色できれば、十分現実的な選択肢になりそうなものだが──。
(万年白黒二色はねぇ。染色……染色なぁ)
染料を作って、浸して放置して洗って洗って洗って。それで水落ちしなければ染まったとして問題ないはず。
染物屋さんとかあるんだろうか。まるっきりないなんてこともないとは思うのだ。それなりに色鮮やかな服や布というものは出回っている。迷宮産の魔導具やただの魔物素材かもしれないけれども。
「……試すか」
どうせ暇だ。退屈を持て余しているのだ。大根はそれなりに予備があるし、端切れもリリウムがそれなりの量を出している。
大根布は焼却処分ができないので溜まる一方。これを有効活用してみせよう。
この宿は冒険者向けとしては珍しく、部屋数が多い。
居間、寝室、倉庫、転移ルームと区分け出来る程度には。居間を工房とするのはもうデフォになっているので、空いている倉庫を使って実験に取り掛かることにした。
「自宅が使えればよかったんだけど……余計なお世話、とも言い切れないか」
ありがた迷惑と切り捨てるのもどうかと思うが、私のお家は衛兵さん達の巡回コースに入っているらしい。
子供の遊び場とならないように。招かれざる誰これが勝手に住みつかないように。ついでに庭の雑草を抜いていてくれればありがたいのだが。
そんな人の目がある自宅の前庭でも上手いことやれば見つからずに作業ができそうなものだが、気に食わない。なんで自分の家にこそこそ侵入しなきゃならんのだ。煙を上げることも明かりを灯すことも許されない。ぐぬぬだ。
万が一見つかった時のリスクが大きいので、あの辺りには近づかないことを決めている。
「さて、気を取り直しまして……確か塩を入れるんだ。お婆ちゃんが言ってた」
水に染料と塩を入れて、布を突っ込んでたまにじゃぶじゃぶかき混ぜる。普通はこれで染まるはず。普通は。布なら。
「水? あれ、お湯だったかな……いいや、両方試そう」
煮込んだ方がいいんだろうか。それだと室内ではちょっと大変だ。臭いが出そうだし、今はただでさえ燃料が不足気味。
本来こんなことをして遊んでいられるほど魔石の在庫に恵まれているわけでもないのだが、これは最悪──金で買える。
浄化品でなくともよければ、三人に魔物を解体してほじくり出してきてもらえばお金を使わずとも手に入る。
それに西に向かう際にも、火気が許される高級な部屋を使うつもりはない。お風呂は公衆浴場を使うわけで、別に今はもう、なくてもいい。
「というわけでコンロを解禁しまして……鍋と布と大根と、色が強そうな植物を……鉱物でもいけるか。何かあったかな……」
多少の粘土は残っている。この際色が着けばなんでもいい。色落ちしなければ泥汚れだって染色のうち。色々試してみよう。
「あー……魔石も試しておこうかな」
これで魔石色に染まれば苦労はない。魔石の特性が付与できれば何も言うことはない。だがこんな片手間で上手くいくわけはないだろうと理解はしている。
(となると昇華品も試しておきたいところだけれども──これはまだ秘中の物だ)
私自身、特性を把握しきれていない。爆発されたら困るのでこれは後回し。
一度くらいこっそり試しておきたいが……これはマジモンの劇物だ。うっかりで稲妻が迸ったりする。
「サクラただいまっ! 何やってるの?」
エルフズが戻ってきた。隣の転移ルームから魔力の反応がしたので、買い物ついでに迷宮に寄ってきたのだと思う。
「おかえり。大根が染まらないかな、って思って試してるんだよ。明日から色の強そうな物を適当に仕入れてきてくれない?」
それと鍋が欲しい。いっぱい欲しい。安物でいい。本があれば本も欲しい。
「染め物かぁ。塩は入れた?」
「入れた入れた」
分量は適当だ。古着の端切れから適当によさ気な量を推察しているが、この分量も一概に決めつけられるようなものではないと思う。
「なら大丈夫か。よく知ってたね?」
「昔お婆ちゃんが教えてくれたんだよ」
お婆ちゃんの知恵袋レベルのことを知っていたリューンちゃんもまた、おば──。
「そっかそっか。となると植物系だけど……魔物素材でなくてもいいんだよね?」
「染まれば何でもいい。これがまた手強くってね──」
始めたばかりだが、今のところ大根が色づく気配はない。しばらく放置して様子を見るつもりだが、たぶんダメだ。超白い。
「ふーん? まぁいいや。ご飯買ってきたからお昼にしようよ」
あまり興味がないのだろうか。お洒落さんらしくもない。
ご飯を頂きお茶を飲み、作業を続けるか寝るかの選択の前に、エルフ組からブツを受け取る。
「青いゴーレムとその瘴気持ち、あとガーゴイルとその瘴気持ちまでは仕留めてきたよ。ここから先はちょっと……二人だとキツイかも」
「ありがとうありがとう」
受け取ったブツ……魔法袋から取り出されたいくつもの樽の中身は、無機物系の魔物の死体、あるいは残骸。バラバラになってはいるが部位の欠損はなく、一体分が丸々詰め込まれているはず。
現在これらの収集をエルフ組に依頼している。
中身を確認し、樽に付箋を貼り付けて《次元箱》に収納する。これも現在進行中のプロジェクトに欠かせないもの。
「四、五十階層程度までで腐らない物は……これで大体集め終わったかな?」
お手製ルナマップを取り出してチェックをしていく。おおよそ頭にも入ってはいるが、見落としがあると困る。
「そうだな、そもそもゴーレム系はあまり数が多くない。ルナで出没するとされている種は網羅しきったはずだ」
「ここから先は未知の領域だからねぇ」
前々からやってみたかった魔物図鑑の編纂。《探査》の鑑定技法に至ったことで、いよいよこれを開始することを決めた。
フグだって別に身体中毒まみれなわけではない。皮や肝臓、そして卵巣辺りを避ければ普通に食べられる。美味しいのだ。
漢方だって根から葉から丸々煎じて飲むわけではない。部位によって使ったり使わなかったりする。
魔物だって同じ。白大根の実が腐り果てて皮が残るように、断熱飛竜の皮膜はお腹辺りからしか手に入らないように、有効な部位というものはある程度限られている。
──が、本当にそうなのだろうか。
白大根の実は腐り果てる前に処置をすればあのゴム性を保持できるかもしれない。断熱飛竜の断熱皮膜はお腹以外からでも手に入るかもしれないし、もしかしたら骨や髄、腱などもそういった機能を持っているかもしれない。
フグだってコカトリスだって、誰かが調べなければ食べることはできなかった。美味しく頂けているのは全て、先人が行動したからに他ならない。
百科事典はない。医療辞典もない。市販されていたり、ギルドが持っている魔物図鑑に記載されている情報などたかが知れている。重要な情報は大体研究者や研究機関、そして国までで止められている。
それでは困る。私だってすごい情報が知りたい。未知のマテリアルを使いたい。術式や魔導具の性能を良くしたい。だが研究者というものは金を積まれたって神秘の開示に及び腰になる生き物だ。国を脅すには覚悟が要る。
ならばもう、自分で調べるしかないではないか。ゴブリンの皮から肉から爪から臓物から、ゴーレムの頭から腹から手足まで。つぶさに観察して分析して、その組成と効能を暴き立てるしかない。
遠大過ぎて気が遠くなりそうな作業になることは覚悟しているが、ライフワークとするにはちょうど良い。
魔導具は何も金属と魔石からでしか作れないわけではない。神器だってきっとアダマンタイトと浄化品以外からでも作ることができる。
不壊のゴム。不壊の断熱皮膜。そういったものが現実の物となる可能性は残されている。
いや、見出すのだ。己の手で。
「そういえば、水色ゴーレムの合金化ってどうやるの?」
ゴーレムは私の知る限り腐らないので、これは西で暇をしている間に調べるつもりでいる。
漁船や飛行船を造る目的もある。詳しく知っているに越したことはない。
「ん? あぁ、昔話したことがあったな。赤色鋼を知っているだろう? あれの表面に特殊な薬物を塗布するとな──」
特殊な薬物についても教えてもらう。毎日が勉強だ。こうしていればいずれ、全てを知ることになるだろう。
ここでドラマは発生しない。全ては牛を消化しきるまでの準備期間。
数枚のワニ革を受け取り、お酒やお茶っ葉に必需品、そして珍しい道具や武具などを買い込んで西へ向かう頃には、すっかり時節は冬となっていた。
南の島国のくせに、ルナはいっちょ前に寒くなる。この頃には私もフード前提でちょこちょこ出歩けるようになるのだが、どこそこに点在している迷宮への入り口が強烈に誘惑してくるために──デートどころではない。お部屋にいないと心が乱されてならない。
ドラマは発生しないのだ。出会いも別れもない。手が一本消えかけてはいるが、新たに二本分が追加される準備が整いつつある。
そしてまた船に揺られる。走れば早いのだが、そうもいかない。