第三百四十六話
目が覚めた時に隣に誰かがいるというのは、何とも安心する。
それが見知らぬ誰かでない限り……なんて注釈をあえて付ける必要はない。
この上なく幸せそうな顔で熟睡しているエルフと、それを飽きもせずに長いこと眺め続けている私と、この世界には二人しかいないのだ。
朝を報せに宿屋の娘さんが闖入してくることも、惰眠を貪る同胞を叩き起こしにフロンがやってくることも、敵軍を発見してうるさい鐘が響き渡ることもない。
稼働し続けている結界石の頑張りもあって、外界の騒動とは無縁だ。鳥の歌声一つ聞こえてこない。
些か防犯意識に欠けてはいるが……まぁ、いい。
一日が始まるにはまだ少し時間を要する。それまで肌でも吸っていよう。
「……サクラがいる」
「そりゃいるよ」
口内をちゃちゃっと《浄化》して、ちうちうと朝の挨拶を交わせばエルフはご機嫌だ。
言葉はいらない。おはよう、おはようっ。好きっ! 好き。好きっ! 好き。しゅきぃ……、はいはい。
空気や体温、水音が語りかけてくる。肩を抱く手のひらが、腰を寄せる腕が。絡められた足からも。
「あんっ、もっとぉ……」
「もうおしまい」
切り上げ時はこいつの気分次第だが、大抵は腹の虫が節度を守るよう諌めてくれる。
私はこう見えてムードを大事にする。食欲に負ける軟弱者に注ぐ愛はない。
だがまぁ、今日くらいは懇願に負けてやってもいい。ちうちうと、じうじうと。
一昔前まで……それこそ二人で行動していた頃なら別に際限なんて考えずとも良かったものだが、今は違う。
一日二日ならともかく、三日も四日も姿を隠していたら要らぬ心労をかけさせてしまう。
夜のリューンはこの上なく可愛いので、鋼の意思を持たなければいつまでもズルズルとぐちょねちょしてしまう。
宿へ出入りする場面は晒さずに、しかし街中では大っぴらに顔を見せて生活し、監視しているつもりの騎士の人達には気づかない振りをして、三日目の夜を迎える。
四日目には二人と合流して、お小言を貰いながら四人揃った姿を晒し、そこから二日間は単独行動。
掃除を終え、魔石の回収をして部屋を引き払ってしまえば、もうガルデに用はない。三十分後には船の人だ。
「ただいまーっと」
認識阻害に《転移》に《探査》まであれば、大海原に漕ぎ出た船を見つけることも、追いついて人知れずに合流することも容易い。
昔と比べれば《転移》可能な距離も伸びに伸びている。走って小休止を挟むまでもなかった。
船に追いつき、部屋を探し当て、船室に直接飛ぶ。無から突如湧いて出たところで驚きの声は上がらない。皆転移慣れしている。
机に向かっている者、ソファーで横になっている者、一心不乱に刺繍をしている者。三者三様。
「おかえりっ!」
「ただいま。こっちは適当に処理してきたよ」
旅人スタイルでゆっくり歩いて東門を出て、適当に旧街道沿いの森の中で撒いてきた。お帰りをお待ちされていたら申し訳ないが、その待ち人はもう来ない。
「おかえり。今のところ監視の目や接触を図ってくる者の姿は確認されていない」
「それは重畳だね」
「冒険者の姿も上ではほとんど見られませんわ。そもそも乗員数がかなり少ないようです」
「なるほど」
ガルデの冒険者ギルドも随分と賑わっていた。まだ道草食ってる連中が多いのかもしれない。
擬装用旅人グッズの大荷物を下し、ティーポットを取り出したところで火気厳禁ルームだったことを思い出す。
「すまんな、流石に上の部屋は目立つだろう」
固まっている姿を見たフロンに優しく笑われてしまう。確かに四人で大金貨何千枚も必要なスイートルームなんて取っていたら隠密している意味がない。
「いや、いいんだよ。これも何か手を考えないとダメだね」
ケトル的な物が欲しいが、直火でなければ良いという話でもない。となると、思いつく手段なんて限られている。
「ふむ……」
時間もある。これからはいっぱいある。一つずつ試して不便さを潰していこうじゃないか。
この船旅中、強いて私に何か仕事があるのだとすれば、それはズバリ寝ることだ。
今の私は朝寝、昼寝、早寝の全てが許されている。それらは偏に魔力と神力の回復を促すため。
ジッとしていても身体を動かしていても、術式に魔力を通してさえいなければ、魔力は自然と回復する。だが回復速度が断然違い、最も急激な回復を見せるのはリラックスした睡眠中。
魔力身体強化の必要がなく、鑑定魔法の出番もない。お水は食堂へと向かえば飲めるわけで、暇な時に魔石を変形と変質でこねくり回して遊んだりしなければ魔力は完全にフリーとなる。
神力も同じく、《結界》も《転移》も《探査》も出番がない。まだ油断はできないが、全てを《浄化》と浄化に注ぎ込める素晴らしい環境にある。
朝起きて、洗面を済ませて、ベッドに戻って、寝る。昼起きて、ご飯を食べて、お茶を飲んで、ベッドに戻って寝る。
夜は当然シャワーを浴びて、ちょっと雑談をして寝る。
合間合間に勉強をしたり、うるさくならない程度に身体を動かしたり、溜め込んでいたアイデアを形にすべく基礎研究に励んだりとしてはいるものの、基本的には家畜のそれだ。ひたすらに食っちゃ寝している。
ソファーであれこれ頭を悩ませ、行き詰まったら横になる。目が覚めた時の時間によって、食べたりシャワーを浴びたりして、また寝る。
素晴らしきぐーたらいふ。ある意味一番のご褒美だ。
────。
「最近はリューンさんより寝ている時間が長いですね、サクラは」
「そうだねぇ、可愛いねぇ」
「こうまで徹底して努められると……肌を磨いて欲しいとは言い出せんな」
三人で食事から戻った昼下がりの午後。施錠されていたからか、警戒心の欠片もない家猫のような姿で、サクラは一人ソファーに横になっていました。
テーブルには遊ばれた道具が出しっ放しで、まるで子供のよう。
コップを作ったり、魔導具の部品を作ったり、紙に走り書きをしたり、魔石に直接文字を刻んでみたりと、いくつかは子供にできることではありませんが。
「光石で食器を作るのが好きなのでしょうか」
今日はそういう気分なのか、単に在庫が有り余っているだけなのか、転がっている茶器の類は全て浄化白石で作られているご様子。普段使いにしている物も、白い物が多いように感じます。
少しずつ形の違ういくつかのポットにカップが四つ。清楚な佇まいをしている作品達は、船の客室で転がっていていい物ではありません。
好事家達に見つかってしまえば静かに暮らしてはいられないでしょう。彫金師に預ければ、それだけで大金に化けそうな物ばかり。
「陶器は昔っから好きだよね。使いもしないのに買い込んだりしてたし」
「昔の家では棚に並べていたな、可愛いものじゃないか」
出会った頃に四人で住んでいたルナの家には、広い居間の片隅に茶器専用の棚が据えられていました。
そこに世界中の食器が並べられていて──。
「そういえば、サクラはあの頃から変形術式を用いていたのですか?」
「あれは最近だよ。ヴァーリルに向かう前に私が刻んだんだ」
では、あの食器は全て買っていたのですね。……学習用でも何でもなく、とても高価な、使いもしない物を。
お茶っ葉だって最高級品から何から、まるで値段を見ていないかのように、雑多になってまとめられているのです。
昔も、今も。
(これだから法術師という人達はっ!)
「数年でこの練度というのも末恐ろしい話だな。この文字を見てみろ、筆跡まで真似ているぞ」
「……本当に器用だよね。発想も突飛だし」
これだけ稼げる技術を持ち得ていながら、商売をする気はないと伺ったことがあります。
魔石の生成加工だけではなく、鍛冶にしても同じこと。普通であればどれだけ願っても身に付けられない名門ヴァーリルの技術の真髄を用いて、戯れに円匙などを作って──。
「──先に使ってしまいましょうか」
ムカムカしてきました。サクラはきっと茶葉を入れ、お湯を注ぐ瞬間を楽しみにしながら茶器を作ったに違いありません。
そこから立ち上る香りや色味を楽しめる質であることも知っています。きっと可愛く拗ねてくれ──いや、案外全く気にせず、許すとか許さない以前の話になるかもしれませんが。
(イタズラになるかしら)
構ってくれないから、イタズラして気を引いてみようだなんて──誰が一番子供か知れたものではありませんね。
────。
お茶の香りで目が覚める。
芳しい香りだ。お気に入りのジャスミンティーっぽい優しい香りが漂っている。
この目覚めはこの上ない。お茶とエルフの香りに包まれていれば、世界から争い事は消え去ると信じられる。今後目覚ましはこれでお願いしたいところだ。
「……おはよ。私も飲みたい」
「あ、あぁ。おはよう……なぁ姉さん」
座ったまま横たえていた上半身を起こすと、珍しくソファーにいたフロンが直ぐ様お茶を淹れてくれる。他の二名の姿は見えないが、残り香から今し方まで居たことは察することができる。
まぁいないならいないでいい。私はお茶を飲みたい。
「ありがとう。どしたの」
礼を告げて受け取る。いい味だ。そしていい香りだ。温度もいい。流石ハイエルフ、お茶を任せるには最適な逸材だ。
自分で淹れるよりも美味しい気がする。いや、技術的な面だけを見ても。
「この茶具なんだが──中を抜いているのか?」
「中? ……ああ、そういうこと。そうだよ、空気を抜いてる」
何かと思って視線を向ければ、お茶は試作魔法の瓶一号君……たぶん一号君から注がれていた。
カップも真空断熱検証用の試作品。取っ手を掴まずとも火傷をしない優れ物だ。
「割れたりしなかった? 強度が少し不安だったんだけど」
「それは問題ない、良い出来だよ。──本当によく出来たものだ」
苦労しましたもの。魔法の瓶。お褒め頂けて私も嬉しい。
少女の頃にやらかして盛大にぶちまけてしまったことがある。その時に内部がどういった物なのか、という点については知見を得ていた。
ガラス、鏡、二重構造。当時は真空であるなんて知る由もなかったが、原理さえ把握できていれば、これを再現するのは容易な部類に入る。
圧縮して中の空気を抜いた魔石を膨らませて成形すれば、内部に空気が産まれる道理はない。風石に術式を刻みさえしなければ。
「これ、本当は金属でやりたかったんだよね。持ち運ぶときにどうしても破損を心配しなくちゃならないし」
タンブラー的なあれだ。ステンレス製だとか、チタン製だとか、そういうのがある。この世界での理想は真銀製だろうか。
蓋付きのしっかりとしたものを作ることができれば何かと便利だ。熱々スープを持ち歩いたり、冷たいままのジュースを出先で飲めたり。
いつまでも革の水袋というのもどうかと思うわけだ。水筒が欲しい。良いヤツが。
「中々に難題だが……できなくなくはないだろう。専用の設備が必要になりそうではあるが」
「だよねぇ」
空気を抜く。これが結構難しい。アダマンタイトならできるとか、そういう話でもない。
もちろんできなくはない。内側の型を《引き寄せ》対応の神器にして、固まった後に抜いてしまえば中身は真空に近くなる。
だがそんなものに貴重な髪の毛を費やしていい道理はない。でも欲しい。せめぎ合っている。
「そういえば、二人は?」
「……舌を火傷した。すぐ戻るだろう」
白は湯気が見えにくかった、とのこと。参考にしよう。




