第三百三十六話
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「んっんー、ふふっふーん」
今日もゴキゲンな朝がやってきた。日光を感じられない《次元箱》の中から外へと意識を向け、朝が来ていることを確認した後に支度を始める。
最近の趣味は盆栽に体操、そして山登りと放火に滑落だ。
まずは寝間着にしていた適当な古着を脱ぎ捨て、軽く汚れを落とした後に、リリウムスタイルの黒いタンクトップとハーフスパッツに着替えて部屋の四隅を見て回る。
「おー、今日も拡がってるねぇ」
私の神格は瘴気や瘴気持ちに加え、神力を直接吸収することでも育つことが確定している。育つということは、拡張されるということ。今日も一メートル近く広がっている、私の可愛い《次元箱》。
寝る前に樽を積み上げて、ついでに木板を挟んでギュウギュウにしていたはずの天井も、四隅と同程度の隙間が空いている。
「分かってはいたけど……楽しいね」
昨日も、一昨日も確認した。何なら朝確認して寝る前にも確認している。それでも楽しくてならない。
「どこまで大きくなるかな……」
迷宮の宝箱から手に入れた最初の次元箱が二十畳ほどの広さに高さが三メートルほどの空間で、これが没収された後に女神様が夜なべして作ってくれた《次元箱》は当初四畳ほどの広さしか持ち得ていなかったが、これが神格と一緒に成長する立方体形のお部屋であることはすぐに判明した。
高さがあると全然違う。普通の生活をしている現代人の感覚なら、八畳のお部屋の高さが三メートル半もあったら広くて驚く。夏の電気代を思って契約を躊躇いかねない顧客も出てきそうだ。
仮にそれくらいならあったとしても、二十畳の部屋の高さが六メートル弱もあればそれは普通の部屋とは言い難いし、百掛ける百メートル四方のお部屋の高さを百メートルに設定して建築を始めれば、それは大富豪のお遊びかただのアホの所業だと思う。
私のお部屋はまさにそのアホな仕様なわけだが、そんなことまるで気にならない。何せタダだ。気温も一定に保たれていてエアコンの必要もない。エコだ。
「三百メートルくらいまで……育つかなぁ」
日々牛の神力を消化して我が物とすることでお部屋の拡張はこれまでと比較すれば大いに捗っており、現状で既に大体の物は収納が可能なサイズになっている。大きな船とかお城なんかは怪しいが、ちょっとした一軒家くらいなら庭ごと丸呑みにできる。
不壊化していると思われる神域の崖を持ち帰りたいので、あれを丸呑みにできるサイズまで《次元箱》を育てることが当面の目標だ。
だけどもまぁ……正直怪しい。《箱》のサイズに限界があるような感じはしないのだが、神格の成長が止まってしまえば当然そこまでなわけで。こっちが際限なく成長し続けるとは考えにくい。
崖の表面が欲しいから神様を狩りに行きますだなんて物言いは私でも正気を疑う。別に崖の用途が決まっているわけでもなし、消化が落ち着くまでは様子を見て、いざとなったら諦める判断も必要だろう。
ただ欲しいだけ、手元に置いておきたいだけ、あれはそういう類の物。
盆栽を終えたら体操を始める。少し暴れる程度は問題ない程度まで《次元箱》は大きくなっているのが嬉しい。外の天気を気にすることなく一定の環境で行えることは、継続する上での何よりの強みだ。
「近当てのおっちゃんが人種サイズだったらなぁ……あんまり参考にならないのがね、残念なわけですよ」
やっぱり武道を習いに出掛けるべきか。空手の道場みたいなところがあればいいのだけれども。
今は言っても仕方がないので、右腕を反時計回りに、左腕を時計回りに、内に捻り込むようにして素振りを繰り返す。
《防具》なしで実際に打ち付ければ指が一瞬で死ぬので、手のひらを使った掌底や、体捌きや足運び、それにハイキックを始めとした蹴り技の練習も怠ることなくこなし、身体が温まった頃に外の空気を吸いに出掛ける。
そこに山があるから登るんだ! だなんて登山家達は言う。実際にそこにある山で遊んでみれば、彼らの言い分も分からなくはなくなった。実際これほど便利な修練場もない。
地面の固さもまちまち、踏み込んで伝わる力もそれぞれ。同じ道は一つとして存在しておらず、ただ走り、登って降りるだけでも勉強になることは多い。
私は足場魔法の一定した強度を下地に戦うことが前提となっているが、この世界には魔力貫通や魔力破壊のような、その前提を崩してくる傍迷惑な効果がある。
地面がぬかるんでいて戦えません! なんて泣き言を漏らした後に待っている未来は、死だ。私は死にたくないので、こういった環境でも動けるように、今になって基礎トレーニングからやり直している。
ボクサーの人が走りながらシャドーをしている光景を思い出し、見様見真似ではあるが、これが血肉になるように、山の天辺に向けて時折素振りを混ぜながら駆け上がる。
魔力身体強化は全て切り、今は膂力の補助は全力の気力のみ。他二種のメルヘンパワーは体内の清浄化に回しているが、それでも数千メートル駆け上がるくらいなんてことない。
カーリの山岳、あるいは山脈地帯の浄化はほぼ完了しているが、その外縁部のみ、未だに荒れ果ててグズグズになった荒野が広がっている。ドーナツに形を例えれば、可食部の内側までほぼ完了している。
山に阻まれて内側を見通すことは難しいであろうが、場所によっては、この山々や麓の森の目と鼻の先に砦があったりするわけだ。
昨夜までは魔界や異界のような様体をしていたのに、朝が来たら綺麗さっぱり森と瘴気が消えていた──なんてことになれば、そんな砦の兵士さん達を介して私の力の底が四方八方に漏れてしまうおそれがある。
露見を避けるため、まだ汚染されまくっていると及び腰になっていて欲しい。なのでこればかりは毎日ゆっくりこつこつと、普通に焼き払って普通に浄化して、普通にお掃除していますアピールをする必要があると考えた。
一日の大半をこうして残ったキメラやアンナノ狩り、スコップやショベルを使った木の根を掘り起こしての焼却作業、そして環境の浄化作業に費やし、暗くなる前には魔物除けの結界石の位置を調整して、それが終われば姿を消す。
……その前に、滑落をしなければならない。獅子は我が身を千尋の谷に突き落とす──なんて格言もある。
「あー痛い……めっちゃ痛い……打ち身の鈍痛は堪えるね……」
服を脱ぎ、加護を無力化するために《防具》を《次元箱》に収納した後、意を決して山頂から全裸で適当にゴロゴロと転がり落ちる。
耐えかねると《次元箱》に逃げ、落ち着いたらまた残りを転がる。それを麓まで続ける。
これを毎日のように繰り返せば、育つわけだ、生力が。
(別に気が触れたわけじゃなくてですね……服がダメになっちゃうし……それにこれが効果的だったら、取り入れられるわけですよ……)
リリウム式修練法のバージョンアップは不可欠だ。溶岩氷海地帯の耐久に長距離マラソン、これで鍛えられるのは主に暑さ寒さに対する耐性とスタミナだ。
山を転がったところで別にカミソリ負けしない強靭なお肌を手に入れられる……というわけではないと思うのだが、少なくとも痛みを受けながらも動かんとする気合と覚悟みたいなものは得られている……ような気がする。
加護なしでオークに棍棒で頭を殴られれば、私だって死ぬ。だがこれを続ければ、ゴブリンの後頭部スマッシュには耐えられるようになるかもしれないし、そうなればオーク、オーガと段階を踏んでぶん殴られても意識を落とさずに済むようになる──かもしれない。
これは大事なことだ。鍛えられるなら鍛えておいた方がいい。メロンパン頼みになるのも危険だし、どうせタダなのだし。
いくらお金がかからないとはいえ明るい間は色々な意味で怖くてやりたくなくなるので、深淵が見えてきてから転がり落ちるのがコツだ。
生力は肉や骨の強靭さ、そして自然治癒力とも密接に関係しているので、今の私なら致命的な大怪我を負うことはなく、多少怪我をしたところで放っておけば朝には治っている。
だが痛いものは痛い。裂傷はともかく、打撲による鈍痛で泣きそうになりながらその辺に放っていたボロを纏って何とか寝落ち──する前に明日の楽しみを仕込み、目が覚めれば盆栽で一日の活力を補給して、また同じことを繰り返す。
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……一年が経った。
一年! 一年っ! もう一年だよ! サクラがっ! 姿をっ! 消してっ! いちねんーっ!
……本当にあの子私のことが好きなんだろうか……なんでこう、何の連絡もなしに、一年も姿を消していられるんだろう。
いや、全く連絡がないわけではない。彼女は稀に中央の拠点へと戻っており、そこで食料の補給を受けている。
そのついでに、手紙でやり取りはしているんだ。だから息災であることも、一所懸命仕事をしていることも理解している。
だが業務連絡以上の何かが返ってくることはない。元気にしています。怪我に気をつけて。いつもここまで。会いたいですの一言もなしっ! もうっ!
「定期的に戻っていないのは……待ち構えていないで仕事しろってことなんだよねぇ……分かってるんだけどさぁ……」
「その通りだ。分かっているのなら手を動かせ、このままでは本当に姉さんの方が先に浄化を終えることになりかねんぞ」
「分かってるんだけどさぁ! いくらなんでもあんまりだと思わないっ!?」
「思わん。さっさと帰りたいという気持ちが一番強いのは彼女だろう。そのために懸命に働くことの何があんまりなんだ」
言い返せない。フロンはクールだ。いつだって一本芯が通っていてブレない。
カーリの最東端から北にかけての清浄化が完了したと報告を受けたのはいつの頃だったか。北端の浄化が完了しつつあるとの報せはいつ届いたのだったか。
寒さが過ぎ去り、雨季が訪れ、また暑さが厳しくなり、また寒さが訪れ、山から吹く風に時折清々しさが混ざるようになったのも、全てあの子の頑張りによるもの。
「分かっちゃいるけど、理屈じゃないんだよぉ……」
「口ではなく手を動かせ、魔石の数にも限度があるんだぞ」
「分かってるよぉ……もぉ……」
今日は珍しく外に出ずに、屋内で書類仕事に没頭している。サクラが残していった大量の魔石も、当然使えば数が減る。
──ある日誰かが気がついた。湯水のように使っていれば、いずれ足りなくなるのでは──と。
そして調査の結果判明した、頭の痛くなる現実に直面している。
「結界石は配置を変更することで対応できるが、やはり浄化赤石の減りが激しい。どうしたものか……このままだと百日そこらで枯渇する。破綻する前に魔石か魔法師のいずれかを補充せねばマズイぞ」
サクラの魔石はその全てが樽入りだ。酒瓶のように、外側から中身の量を推し量るのが難しい。
というか、うちの資材は大抵が樽に入っている。あっちを見ても樽。こっちを見ても樽。干し肉も、折れた剣や槍も、飲用水も、雨水も、全てが樽に入っていて、樽に腰掛け樽に食事を並べていたり、樽に抱きついて眠っている連中さえいる。どこのテントにも樽が山となっている。
そんな樽樽樽の空間にずっといれば、魔石樽の山が目減りしていることにも……気づきませんでした、はい。
「くすねてるのがいるよねぇ、間違いなく……はぁ……サクラにバレたら殺されるってのに……」
焼却魔導具の動力源たるサクラの浄化赤石と浄化緑石は、なくなり次第担当者に申告することで新たに新品が支給される。
ちょい残りを懐に入れて申告されても、気づけない。使い切りましたと言われれば、文官はそれを信じるしかないためだ。
西と中央との街道が無事通り、人の行き来が活発になったことで色々と捗るようになったのは確かだが、ここにきて問題が頻出している。
仕事をサボったり干し肉や酒瓶をちょろまかしたり、なんてのは可愛いものだ。味を占めて繰り返している個人か、あるいは気が緩んだ者が大勢いるのか。
とにかく、手を出してはならない領域に足を踏み入れた者達がいる。
倉庫の警備も厳重とは程遠い。常に騎士が交代で見張っている赤石の樽の山はともかく、警備の緩い緑石と橙石の結界石は盗ろうと思えば盗れる。手慣れていれば樽ごとでも。
「横流しほど大規模なものではないが、現状を見るにそれも時間の問題だな……。それにこの人数だ、一人一つでも大層な数になる。常態化することは避けなくてはならない」
浄化緑石は売れば結構なお金になるし、浄化赤石は薪にも武器にもお金にもなる。
そして何より──サクラ印の結界石。その未稼働品は容易く大金に化ける。
少なくともこれまではなかった……と思う。消費のペースが激増したのは、間違いなく街道が通った後のこと。
「やっぱり残量が減った物と引き換えにした方がよかったんじゃないの? 小さくなってもサクラならまとめて再利用できるわけだし……結界石も一つ一つ管理してさ。警備ももっと厳重にしないと……緑石のペースもほら、明らかにおかしいよ」
明らかに樽ごといかれているような減り方をしている風石の在庫に目をやれば……あああぁぁぁぁもぉぉぉぉ……。
フロンも顔色が悪い。早急に対策を講じなければ魔導具が火炎を旋風できなくなる。そんな未来がくっきりと見えている。
頭が痛くなる。胃がキリキリと痛み出す。そして恐怖に背筋が凍る。──サクラは、本当に容赦がない。
「……一度姉さんを呼び戻すか。管理を徹底しなかったのは私達に非がある。誠意を持って説明すれば……理解してくれるとは思うが……」
今世界で最も会いたく、同時に一二を争うほど会いたくない。私だけは見逃してもらえないだろうか。リリウムは好きにしていいから!
「……何人死ぬかなぁ。賭けない?」
「止めておく。私達が生き残る保証がないからな」
フロンも顔色が悪い。話を聞いていた事務の担当者も表情が凍りついている。冷房要らずだ、流石サクラだね。
「はぁ……泣きたい。泣いて謝れば許してくれないかな?」
「お前が泣いていても意外性がないだろう……鬱陶しいから一人で泣いていろ。私はギリギリまで足掻いてから祈る」