第三百三十三話
「──さて」
問題はここからだ。
《探査》によれば、牛は既に消滅している。山もいくつか消滅し、近場の山は崩壊して軒並み標高が目減りしてしまった。
断末魔の叫びが届いてくれば分かりやすかったのだが、筆舌に尽くし難い爆音が轟くことは分かりきっていたのでまとめて防音で止めていた。叫び声をあげたかどうかは定かではない。
仮に聞こえてきたところで地球人であった頃ならまだしも、今更屠殺される動物の鳴き声で動く心は持ち合わせていない。食べるために殺す、安寧のために殺す。そこには何の違いもない。
それにしてもあっけなかった。サンドバックのように殴られ続け、最後はプレス機にかけられたリンゴのようにひしゃげて消滅した。あれが本当に一柱の神であったかどうかという点については大いに疑義を呈したい。
最初の亡国が大騒ぎしただけで、多少秀でていただけの牛型魔獣であった可能性の方が濃厚だ。
おそらくヤツの仕業であろう水分をたっぷり湛えた雨雲は依然として健在だが、しばらくすれば一帯を軽く濡らして、何事もなかったかのように消えていくだろう。
邪神の存在はガルデの歴史とギャラリーの記憶、そして現在進行形で生まれ出づっている大量の糧にその痕跡を残すのみだ。
(あー……きっつぅ……これあれだな、やっぱり神だな)
前言撤回、邪神はやはり神だ。瘴気持ち特有の糧と灰色の糧、それに生の神力が混ざった餌の奔流が、この身を目掛けて猛烈な勢いで押し寄せてくる。気分はスターだ、サインは順番にするから並んで欲しい。
アリシアの目があることを考慮に入れて少し高度を下げ、警戒を解いていない体で観察をしていると思わせながら……この責め苦にひたすら耐える。
浄化モードを全開にしてはいるが、これはちょっと見込みが甘かった。
私の神力を白とすれば、瘴気は黒で、その中間の灰色の存在というものがある。色彩についてはただの枠組みに過ぎないのでどうでもいいのだが、とりあえず私は時間をかけさえすればこれを浄化で白に戻して我が物とすることができる。
この邪神の神力は……これも何でもいいけど、まぁ黄色だ。とにかく色味が違う。そのままでは《浄化》や《結界》として使うには不適。
例えるなら光の魔導具に土の魔力を流し込んでいるような感じ。そのままでは規格が異なり使うことができない。
(これの消化、メチャクチャ時間かかりそうだな……もうお腹いっぱいだから残していきたいんだけど……そうもいかんのよなぁ……)
出された食事を残すのはお行儀がよろしくない。それがマナーな国もあるけれど私はそこの国の人間ではないので、倣うべきは故郷の伝統だ。
覚悟している。私は満腹のお腹を飛び越え、腸や胃、食道やお口にまでぎゅうぎゅうにこの糧を詰め込まれ、その全てを消化しきるまで延々といつまでもひたすらに食べ続けなければならない。
(最終的に規格が合致するかどうかも怪しいところなんだけど、合わなかったら魔石に吸い出してしまって──あーきたきた、辛くなってきた)
辛くなってきた。辛くなってきた。辛くなってきた。これはしんどい。だが投げ出すわけにはいかない。真の目的は牛の討伐なんぞではない、まさしくこの瞬間にあったのだから。
ここからは自分自身との戦いだ。どうか、理性が残りますように──。
────。
──言葉もない。
言っていた。確かに言っていた。大したことはないと。どうとでもなる、と。
だから……えっと……その……ね?
「──すごいですわっ! 素晴らしいですわっ! 流石はサクラですっ! 見ましたフロン? 感じましたでしょう? 身体がバラバラになりそうになってしまいそうな、とびっきりの暴威の迸りをっ!」
「うむ。次弾を装填している気配もない。討伐は成功したと見て間違いないだろう」
「……そこからなの? もうちょっと順を追って呆れようよ」
確かにすごかった。呆けすぎて口が乾いてしまった。私達だけではない、皆が皆放心して心ここにあらずだ。
──この世のものとは思えない光景だった。神話の再現、そんな言葉が相応しい。衝撃って、見えるんだね。
風景と積み上げてきた常識とを一変させたうちのサクラちゃんは、あれでか弱い法術師のつもりでいる。
どこの世界に、山をまとめていくつも吹き飛ばす浄化使いがいるというのだろう。大雑把に『いくつも』なんて括りでまとめていいものではない、山なんて。
どこの世界に、動くだけで木々をへし折り、倒れ込むだけで地形を変える、巨大な邪神に掴みかかる結界使いがいるというのだろう。
瘴気と共に迸っていたあの稲光。誰がどう見たって、あれはまともな性質のものではない。雷の再現なんて、未だかつてどの魔法師も成し得ていないとびっきりの神秘の世界のお話だ。
それを意のままに操る邪神が相手だと分かっていれば、一も二もなくこの話は断っていた。相手が悪すぎる。
あれは正しく世界の、神の御業によるもので、生身の人間がどうこうできるようなモノではない。それに向かって駆け出すのは、その……正直終わったかと思った。涙が浮かび上がる前に呆れてしまってそれどころでもなくなったけど。
本当にあの子は忙しない。いつだって心を揺さぶってくれる。
「ねぇフロン、あれってやっぱり──雷だったよね?」
他の誰にも聞こえないように細心の注意を払い、小声で友人に問いかける。当然言葉もエルフ語を使う。
「瘴気の影に隠れてはいたが、間違いないだろう。姉さんが防いでくれなければ、余波で私達は焦げて死んでいたな。見ろ、未だにそこら中が湯のように煮え立っている。地獄のような光景だ」
「……防げるものなの? あれって」
「普通は無理だ、あれはただの障壁でどうにかできる代物ではない。さしもの彼女でも、認識した瞬間には既に伝わっているモノを後出しで阻めはしまい。見える前から防いでいてくれたんだろう」
しかし……と言葉を続ける。
「あれだけの暴威を前に人はおろか、馬や荷台にすら被害がない。対応がこの上なく的確だということは……彼女は、アレの性質を熟知している可能性がある」
フロンの興奮が一層強くなったことを、肌で感じる。
「楽しみがまた一つ増えたな」
雷鳴の魔法師。雷光の勇者。御伽話では定番だ。決して手が届かないからこそ誰もが憧れ、焦がれる、絶対的な力。
昔のことは、あまり根掘り葉掘り聞いていない。文字が読めて計算ができて、学習意欲がある上に物分かりもいい。それなりの教育を受けてきたことは分かっていたけれど──。
教えてくれるだろうか。それ以前に知っているかどうかもまだ定かではないけれど、もし何か、少しでも、知っているようなら……教えて欲しい。
何でもしてあげるから! いくらでもいじわるしてくれていいから! サービスするから!
(……届くかもしれない)
ワクワクしてくる。心が踊る。じっとなんてしていられない! 雷は、雷だけは別なんだ。あれに想い焦れないエルフなんて、魔法師なんていない。断言できる。
それにあれをモノにすることができれば、こんなところで傍観しているだけの自分ともおさらばできる。サクラの力になれる! もっと一緒に戦えるっ!
──これは研究のし甲斐があるよっ!
「さて……長居は無用です、そろそろ撤退いたしましょうか。討伐は完了したものと判断して問題ないと思いますわ」
いつまでも呆けているわけにはいかない。既にこの上ないほどあっけなく、邪神は討伐された。
この戦いはきっと、語り継げまい。復活した邪神は、たった一人の一級冒険者が殴り殺してしまった。
神々しい聖剣も、大地揺るがす放出魔法もなく、身体と拳で打ち倒した。
(なんなのよ……本当に)
困った子だ。私のサクラは、いつだって普通の枠組みに収まっていてくれない。
「そうだな、今から移動を開始すれば暗くなる前に洞窟まで辿り着ける。魔法師を回収して戻るとしよう」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
制止の声があがる。
「どうしたの?」
「いや、だって、まだお姉さまが戻られていないんですよ!? 帰るだなんて……さ、探しに行かなきゃ……!」
ソフィアが荒ぶりだした。いつものことだが、いつも以上の悲壮感に包まれている様子なのが……危ない。
今にも飛び出してしまいそうだが、それを許すわけにはいかない。
「お待ちなさい。……ソフィア、貴女は何を聞いていたのですか。サクラは何度も何度も来るなと言っていたでしょう」
「でも! お怪我をなさっているかもしれません! 戻ってこられないのは、身動きが取れないからかも……邪神がまだ生きて……それに、アンナノに囲まれているのかもしれないんですよ!?」
「あの場に居たキメラや魔物が生きていられるわけがないだろう。何を見ていた」
「それに、邪神が生きていたらこんなに静かなわけがないでしょ。少し落ち着きな」
腰に下げた『黒いの』に触れてみれば、サクラが健在であることが伝わってくる。《引き寄せ》たいけど、今は邪魔をするわけにはいかない。
「ど、どうして! 心配じゃないんですか!? 冷たすぎますよ!」
「私達がサクラのためにできることは、さっさとこの領域から離脱して彼女の手をこれ以上煩わせないことだ。当て所なく探しに出向いて邪魔をすることでは断じて無い。あまり聞き分けのないことを言うな」
探しにこられてもサクラは喜ばない。その逆で、今回ばかりは私が出向いても怒られ……いや、殺されるかもしれない。あれは本気の目だった。あれだけ念押しをされたのは初めてかもしれない。
「まぁまぁ、フロン……ソフィアはほら、付き合いも短いから……分かってないのは仕方がないんだよ」
「関係も浅いのです。理解が及ばないのも致し方ないことでしょう」
普段は優しいし、大抵のことは許してくれるが、一線を越えてくる相手には一切容赦を介在させない。それがサクラだ。
「なっ……!」
「それに、アンタこの瘴気の中動けないでしょ。今私達が息を吸っていられるのは、サクラがこの辺りを浄化してくれたからなんだよ」
私でもキツイ。フロンも難しい。リリウムは平気な顔をしていたけれど──こいつは普通じゃない。普通は無理だ、すぐに死ぬ。
浄化された道を外れるだけで、もがき苦しんで死ぬというのに……迎えに行くだなんて、自殺志願者の妄言だね。
「はぁ……もう勝手にしろ。死にに行きたければ好きにすればいい。私は止めん」
「……もし死なずに辿り着けたとしても、その場で殺されるだけだと思うよ」
「そんなことないですっ! お、お姉さまは……私のこと……!」
「サクラは来るなと言ったのです。言いつけを破れば仕置をされるのは当然でしょう」
「あれだけ何度も念押しされて、どうして自分だけは何をやっても許されると思っているの? 根拠が分からないよ、私には」
「ソフィア、もう止しなよ! どうしちゃったの!?」
「でもぉ……!」
「いつまでも子供みたいに拗ねるのは止めろ。無理を言って仕事に付いてきて、大した貢献もできず、神器の件で負担をかけ、その上たった一つの言いつけまでをも破るつもりか? 付き合いきれんぞ、俺は」
「ううぅぅ……」
「瘴気に当てられておるのかもしれんの。早いとこ戻って浄化の世話になった方がええ」
帯同している法術士はいない。全員拠点に置いてきている。彼らに万が一が起こることは認められない、って。
「仕方ない……リューン、朝が来たらリリウムとその娘を連れて先に戻っていろ。夜も見張れ、天幕からも拠点から出すな」
今宵はここでもう一泊しなくてはいけない。幸いなことにテントも出しっぱなしだ、朝一から移動を開始すれば、二箇所くらいは回れるだろうか。
「それはいいけど、これだけの人数をペトラ一人に運ばせるの? キツイんじゃない?」
必死に首肯を繰り返しているが、フロンはあえてそれを無視する。
「いきなり足場を崩してどこぞに駆けられても困る。任せられるか。今のそいつは信用ならん」
随分と怒っている。無理からぬことか。私だって今のソフィアに足場を、命を預けるのは怖い。
「……それがいいでしょう。ソフィア、フロンさんの仰る通り、戻って大人しくしていろ」
「みっちゃんまでそんなこと言うの……?」
「俺はサクラさんにこの作戦の指揮を任されている。必要だと判断したまでだ」
「そんな……」
「ふんじばってしまえば、わたくし一人でも運べなくはありませんが」
「いえ、監視の目を潜って抜け出すかもしれません。申し訳ありませんが、お二人に……」
「了解いたしました。では、そのように」
────。
「ああああぁぁぁっ!!」
不快感が苛立ちを煽りに煽り、もう何度激昂したのか記憶にない。
「もうっ! もうっ! もうっ! 牛かよっ! いつになったら終わるん……だよっ!!」
煮えたぎった大地の熱も、降り注ぐ雨の熱も、蒸発して舞い上がる蒸気の熱も、全てが疎ましい。
ただでさえお腹いっぱいなのに、肺に入ってくる空気までもが重々しい。しかも湿気にまで瘴気が混じっている、どれだけ不快感を煽れば気が済むんだ。
地団駄を踏もうにも大地は未だに熱々で、落ち着いて腰を据えられる場所はお空にしかない。その足場を思い切り蹴りつければ容易くひしゃげ、割れた後に再展開をする羽目になる。
当たり散らさなければやっていられない。仲間やギャラリーには来るなと厳命してあるし、魔物や生物は落星の衝撃波で根こそぎ全て吹き飛ばした。一帯はまさしく死の荒野であり、対象となる何かは存在していないのだが。
干渉してくる全てが疎ましい。手負いの獣は、きっとこういう気持ちなんだろう。
足場魔法だけが、行所のない感情を受け止めてくれる。
遠距離から押し潰してしまったためか、糧はある程度近づかなければ積極的に寄ってきてくれなくなってしまった。必然的に、灼熱のクレーターの直上でこの責め苦に耐え続ける必要がある。
あっちこっちを走り回り、散ったご飯を消失する前にかき集めていた際にはまだ平常心を保っていられたことは、不幸中の幸いだった。今なら放棄していたかもしれない。
(ああぁぁぁぁぁ……こんな黄ばんだ神力、捨て置ければ……っ!)
退治した後、おそらく夜を三度は迎えているが……未だに身体にまとわりつく牛の神力の処理が終わっていない。
遅々として──というほど滞っているわけではない。むしろ順調過ぎるほど、糧の吸収も消化も進んでいる。
だが。
「多すぎんだ、よっ! ……どこの世界に自分より大きな餌を丸飲みにする生物がいるんだ……ふざけないでよ……」
喜ばしいことではある。これは間違いなく大幅なレベルアップであり、神格が肥えることはありとあらゆる面で有利に働く。分かっている。分かってはいるが、膨大すぎる。
あの牛は、あまり認めたくはないけれども──私の女神様より遥かに高位の神格の持ち主だ。過去形になるけれども。
ヤツの神力が万全だったなら、ああまで一方的にボコることができたかどうかは、正直自信がない。
《防具》と同じように、封印中は枯れ果てていた神力がまるで回復していなかったんだろう。それでいてあのタフネス、私に攻撃を通す電力、電圧。半端ではなかった。
白大根製の戦闘服を焼け焦げさせ穴を開けられるということは、あのビリビリが名付けされた神器レベル──切断力強化術式に魔力を通した二代目『黒いの』や、リリウムの裁縫道具レベルの脅威であったということだ。
──電気がウィークポイントだったという線については、追って検証が必要だが。
「絶対に問い詰めてやる……ガルデ王め、知ってて隠していたんならタダじゃおかないぞ……」
メロンパンなし、加護なしであれと相対する羽目になっていたらと考えると本当にゾッとする。《結界》を常時展開していれば敗北することはなかったかもしれないが、討伐は失敗に終わった可能性の方が高い。十手では攻撃力が明らかに足りていなかった。
──そもそも認めてはいなかったであろうが──少なくとも帯同していたギャラリーはまとめて見捨てていた。そうしなければ確実に私が死んでいる。
「半分……まだ終わってないよなぁ……クソっ!」
魔食獣の糧は数分で吸いきった。あれがこれまでの最長記録だ。それがいきなり三日四日、それでいて半分にも満たないというのは、一足飛びなんてレベルじゃない。もうちょっとこう、順を追って欲しい。
その上これだけ食べているのにお腹はペコペコだ。だが今お腹に固形物を入れると絶対に吐き出す。激昂する気持ちを抑えられない以上、こんなことで余計な体力を無為に消耗するのは避けねばならない。水と塩だけで凌ぐしかない。
疲労と空腹と睡眠不足と魔力操作、それに感情の起伏に振り回されてヘトヘトだ。しかもまだ折り返していない。泣きたくなる。
全てを取り込んだ後には漂白作業も残っているのだ。勘弁して欲しい。許して欲しい。
「せめて椅子じゃなくて、地面で寝たいなぁ……ハンモックでも作っておけばよかった」
叶わぬ願いだ。上は大雨、下は大火事。お風呂にも入りたいが、拠点にはシャワーしかない。
(一度ヘイムで……いや、ガルデの打たせ湯、浴びたいなぁ……)
お風呂が恋しい。もう長いこと湯船に浸かっていない。強がらずにヘイムの砦で浸かっておけばよかった。
「はぁ……」
心を動かすと疲れる。無にするんだ。消化器官だけを動かすだけの存在になるんだ。