第三百二十九話
またしばらく月日が流れる。
健全な精神は健全な肉体に、逆もまた然りだ。本当によく言ったものだと思う。この身を蝕んでいた妄想混じりの偏執じみた不安から解き放たれた後は些事を気にかけることもなくなり、時間は飛ぶように過ぎていった。
朝起きて着替えと洗面を済ませて水を作り、南東方面から順繰りに法術師としての本業をこなしつつ、出先で一泊二泊したりしなかったり。
拠点に戻ればまた空いた大樽に大量の水を作り、時間があれば会議に顔を出したり出さなかったり。メイドさんや他の冒険者達との交流も怠ることなくこなしつつ、時間が空けばその都度水を作る。夜はご飯を食べて眠れる時にしっかり眠る。心身共に健やかで大変結構だと思う。
ここしばらくで、東側の人員を迎え入れるための『遠征』は完全に私の手を離れた。それによって、ついでに大地の清浄化をこなしながら本命の《防具》の検証と習熟に明け暮れる時間を多く取ることができたのは、この上なく幸いなこと。
上位冒険者の指揮の下、依然として死者がゼロのままここまで討伐が進んでいることも、とても誇らしく感じている。
一歩外側から、順調に進む事態の推移を見守っていた。
徐々に変化が訪れる。
やはり──というべきか、案の定と言うべきか、致し方ないことではある。離脱者ゼロとはいかなかった。
全体から見れば些細な数だが、邪神のネームバリューに負けて一人二人と穴が空き、パーティのお見合いにより解散と合併が進んでいたり、人員の取り合いによる喧嘩に発展したりと、トントン拍子に何もかも上手くいく、とはならず。
ギルドから手順を踏んで荷馬車の護衛ついでにやってきた新たな冒険者達も、やはり邪神関係の話が出ると尻込みをし、戦わずして撤退を決める……なんてことがあったりもしながら──ガルデから封印担当の魔法師が合流するまで、特筆すべき大事はなし。
この頃には、時節は冬の様相を見せるようになる。
過去を含めて北大陸で接点があり、今生では未だにない魔法士というと、ミッター君の二人の姉の姿が思い浮かぶ。赤髪の、おっとりした姉妹達。
当時は魔法学校に所属していたわけで、もしかしたらここで会えるかな……なんて、少し楽しみにしていた。
だがまぁ、そう都合よく誰それ全てが私に絡んでくるなんてことはない。封印を解くためにやってきたのは人種の中年男女が二名ずつ。四人揃えば二日程度で解けるのだと言う。
護衛として、戻ってきた王様選抜の臨時騎士団と、おまけにルナからのお船で道中一緒だった騎士達の姿が共にある。
引き続きキメラゾンビの殲滅業務や、西やガルデとの連絡要員として動いてくれるとのこと。馬車馬の如く使い倒してあげようと思う。
彼らによれば、ギルマスも顔を出したがっていたが、王都で仕事に忙殺されているらしい。やはり全員集合とはならない。
『遠征』が終了したのは、薄れつつある日本の四季感で言えば一月から二月といった、余寒の厳しい暦の上での春の頃。
いよいよ、邪神と相対する日がすぐそこまで近づいていた。
中央の拠点は常に慌ただしい。壁の一部を撤去して住居スペースが拡張され、いくつもの大きなテントがそれなりに規律よく並べられている。
龍との戦場となった決戦場跡地に第二の拠点を築く予定があったので、本来なら半数ほどはあちらへと移動を終えているはずであったのだが、あの辺りは牛が封印されている山に近いので計画は先送りされた。
石工や大工さん達は、日々大量の資材を加工することで、今か今かとその日を待ち望んでいる。もうすぐだよ。
今なお数百人近い冒険者に騎士、それに後方支援要員や食堂のおばちゃん達がスシ詰めになって生活しているが、大半は遠征で不在にしているか日中は西側の近場へ稼ぎに出かけているので、人口密度が高い時間はそれほど長くないのが幸いか。
シャワーや食堂のキャパシティが不安だったが、こちらも何とか回っている。
最後の遠征が終了した直後の今、既に限界近くになってはいるのだが。
「──水の消費が激し過ぎます」
頭を抱えたくなる。拠点にいる間中、割と水しか作っていない。水を作って東へ浄化に出かけ、あまり長居もできずに戻ってきては、待っていました! とばかりに待機していた大量の空樽に水を作ってから眠り、起きればまた水を作る。
今や私は、コミカルな杖を主力に戦う──あるいは戦わない──水系の放出魔法師として見られている節さえある。いい隠れ蓑ではあるのだが、今隠れたって仕方がない。
破棄するには忍びないからと、なんとなく「魔石の樽は捨てないでください」と指示したパイトブラック労働時代の私の指示はこの上なく的確だった。自画自賛しちゃうね。
「この数じゃ、仕方あるめぇよ」
浄化から戻って早々、シャワーもそこそこに食堂へと拉致られ、こうして存分に機能をふるっている。せめて私服に着替えたい。
水より酒を飲む量の方が多いドワーフ達をこれほど心強く感じたこともない。既に夏は過ぎ去って久しい、なのに清水の消費量が減るどころか増える一方なのは、その全てが火にかけられているからに他ならない。寒い中冷水のみで生活しろだなんて悪魔みたいなことは流石に言えない。
──にしたって、流石にこうも多いと辟易してくる。だがここを怠るとこの戦線は瓦解する。もうやだおみずつくりたくない! なんて駄々をこねれば、私は厨房でおばちゃん達にミンチにされてしまう。
「それはそうなのですが……このままでは私、邪神退治の後に北の山へ出向けなくなりますよ」
説得力がある。今この瞬間も二本の杖がフル稼働しており、空樽が文字通り山となって控えている。手が塞がっていては頭を抱えることもできない。
井戸水が未だに飲用できないのがマズイ。北の山、水源そのものが汚染されているのが致命的だ。今すぐ浄化を施しに出向いたところで、汚染成分が完全に洗い流されるのはいつになるか知れたものではない。
この一件が終わった後も、数年十数年、下手をすれば数十年や数百年に渡り、この土地は死んだままかもしれない。
表面上の水源はなんとかできても、地下深い水脈の浄化は流石に管轄外なので他を当たってもらいたいところだ。私にもできることとできないことがある。
「私やリューンにできれば変わってやれるのだが、そうもいかん。ペトラも器は狭い、仮に杖があったところで姉さんのようにはいかんだろう」
ギースとお酒を楽しんでいたフロンは、搬入される酒瓶酒樽の量が文字通り桁違いになったことを大いに喜んでいた。ヘソクリを出すまでもなかった、と。
私もお師匠さんとお酒を飲みたいのだが、今しばらくの間手が空くことはない。助けて欲しい。
私とリリウム、そしてフロンは属性が火と闇だ。水とは致命的に相性が悪く、頼みの綱のリューンちゃんも土なので、お水ちょろちょろマシーンとなるのは難しい。
フロンは氷槍を飛ばせることから分かるように、無理をすれば使えなくはないのだが──彼女までもが不在になると、本業のキメラゾンビ討伐に深刻な影響を及ぼす。ペースがガタ落ちする。
ペトラちゃんは水に対する親和性が高いのだが、普通の人種とあって地力が弱い。それに彼女も今や戦闘のエースだ、後方で隠居させるには惜しい逸材。
白大根の特大浄化蒼石や、フロンに作ってもらった水系魔石から水を生成する魔導具がないこともないのだが、この人数を前にしては焼け石に水だ。蒼石を全て吐き出したところで数日分にしかならない。これはあくまでも保険だ。
かといって節水を掲げてシャワー室を封印しようものなら汚染成分で拠点が崩壊し、女性陣がストライキを起こす。私が起こす。
「外に貯水池でも作るか、樽の数を増やすなどして繋ぐしかあるまい。それに、杖を貸し与えるわけにもいかんのだ」
幸いなことに、樽の数は日々増加の一途を辿っている。喧嘩でもして壊そうものなら、壊した連中が私に壊される。
これらは荒くれ冒険者の巣窟であるとは思えないほどに丁重に扱われ、お酒が抜けた端から浄化され、そこに命の水が詰め込まれるのだ。
「……そうなんだよねぇ」
ため息が止まらない。私はコミカルな杖でお水を生成するか弱い後方支援要員ではなく、猫杖で牛を殴り殺す予定の一級冒険者だ。
十年以上の間、私の主力であり続けた十手。不壊の存在を知った後、私は極めて堅牢なこれのことを当たり前のように不壊の品だと思い込んでいたのだが……実は違った。
私の十手は高伝導という特性を一つ持っただけの、ただの鍵だ。
よくよく考えれば、身体が不壊であったのなら死にはしないだろう。あそこまで追い込まれるわけがないのだ、私の女神様が。
武器でないことはこの際いい。気力と魔力、そして神力さえも我が身のように通るこの棒が、破損するおそれのある不安定な品であったと判明したことで、大物を前に戦闘スタイルの変更を余儀なくされた。
今はまだ、伝導をこの手で再現する目処が立っていない。
色々と作ってきた。剣やナイフはそれなりにたくさん、杖の精緻な術式配置にもすっかり慣れて、防具は主にヴァーリル時代にいくつか習作を拵えたのみだが、崩されることなく手元に残った数少ない防具の試作品は弟妹達の下で活躍している。
最近ではスコップとショベルを合わせて六本作った。内一点はギースが可愛がってくれている。
色々作ってはきたが、私の手元に不壊の特性を併せ持った得物はほぼ残っていない。不壊持ちという括りまで広げてみても、『樽』と水杖君、そして二代目『黒いの』くらいなものだ。
鍛冶に用いる鎚や、現在進行形で本領を発揮している水杖達、ギースとお揃いのショベルか、『黒いの』。私が得物とできる物品はこの辺りか。
鎚は小さすぎるし、なくなると本当に困るのでこれは絶対にナシ。ショベルは重くて扱いが難しい上に不壊ではないので、基本的にはナシ。実質的に候補は二本の杖と一振りの剣のみ。
それに代役が欲しいからと杖を貸し出したところで、名付けされた品は持ち主以外に扱われることをこの上なく嫌がる。盛大に拗ねる。水生成を身体に刻んだ上で杖に魔力を流せば水は出てくると思うのだが、不承不承にぶつくさ言いながらになるのは確定している。十全に役目をこなしてもらうのは難しいだろう。
(……どうにもこうにも、テンションが上がらない)
『黒いの』は分類上は魔剣だがサイズ的には長剣で、これは私の好みの刃渡りではない上に、それなりに大きく重く、何より重心のバランスが悪い。
二本の杖は棒なので『黒いの』よりはマシだが……打撃武器とするには長さが気に食わない。それに、邪神を殴り殺した杖から生み出された水……あまりいい気がしないのは、極々自然な感覚だと思う。
それにそもそも、『黒いの』は観戦する気満々の弟妹達にすら伏せている秘中のものだ。ここでお披露目していいものか、少し悩んでいる。
造形はアレだが、基本的には彼らの黒剣と構造に違いはない。単に使っていなかっただけ──としても、別に不自然なことはないんだけど……。
(そもそも鞘すら作ってないんだよね。どうしたもんか……布で包んで樽から取り出せば大丈夫かな)
樽からなら、「まぁサクラさんだし……」みたいな納得の仕方をしてくれるかもしれない。やはり樽はいいな、最強だ。
(メロンパンあるし……討伐そのものに不安は感じていないんだけど、悩ましいねぇ)
可能ならこれのポテンシャルも見せずにおきたいが、仮にも邪神だ。そういうわけにはいかないであろうことは覚悟している。
とりあえず重要度は十手の温存が第一、次点で可能なら《防具》を使わずに立ち回りたく思ってはいる。現実的にはメロンパンと共に『黒いの』をぶん回すことになるだろうか。
「しっかし、剣ねぇ……なんで皆好きなんだろうね、剣」
こっちの彼も持っている、あっちの彼も持っている。向こうの彼女も、合流してきた誰それも、うちのわんこ達だって。隣で半分寝ているエルフは違うけれども、リューンも使うようになって、昔はリリウムだって心得があった。
飛来した石や弓矢を叩き落とすにも、槍や細剣などの鋭い突きを弾くにも、兜や鎧や剣を壊すにも、剣より棒の方がよっぽど向いている。ちょっと小物を殺しやすいだけじゃないか、剣なんてものは。何がそんなに良いんだか。
懐に入られたらおしまいな槍に比べれば幾分かはマシではあるけれども、こんなもんが最もスタンダードな武器扱いされていることについては疑問を感じずにはいられない。お前らもっと棒使え棒。棍棒はいいぞ。
「状況を選ばんからの。洞窟なんぞでは扱いにくいこともあるが……それにしたって振り回さにゃいいだけの話よ。腐らん」
うっかり漏れた呟きにお答えを頂く。ギースも使っていたことがあるんだろうか、剣鉈とはまた使い勝手が違いそうだが。
「そういうものでしょうか」
「そういうもんよ。お前さんも振り方くらいは身体に覚えさせておくとええ、戦場では何かと役に立つぞ。いくらでも拾えるからの」
戦争に加担する気なんて更々ないのだが、この場で口にするようなことでもない。お師匠さんの言葉だ、ありがたく心に刻んでおこう。