第二百八十二話
この星の大気層、そのどの程度の高度まで空気が存在し、龍が活動できるかなんてことを私が知るはずもない。
結界石で地上から一・五キロメートル程カバーできるとはいえ、流石にその上をも軽く飛び立っていける。
そもそもカーリの山々が平気で標高三千メートルだの五千メートルだの、もしかしたらもっとあるかもしれない。多少薄くはなるが、その山頂辺りまで空気はある。
そこから更に一・五キロメートルくらいなら、まぁ悠々と逃れられる。龍とはそういう生き物だ。
実際にこれの性能試験に赴いてくれたソフィアだからこそ思い至ったのだろう。これを使っての龍の誘導は難しいと。
着眼点は素晴らしい。もちろん他と同様に追い立てて済まそうとは考えていない。だが、この手は秘しておきたいのだ。何とかごまかせないだろうか。
「どうって……普通に。首根っこ掴んで引っ張ってくるんだよ」
「ひぅっ!」
同じソファーのすぐ隣に座っているリューン。その更に隣に腰掛けているアリシアの襟首を後ろから引っ掴み、そのまま上に放り投げてお膝の上に召喚する。
「ねっ?」
後ろから抱き締め、ねーっ? っとアリシアに可愛く同意を求めても、返ってくるのは引きつった困惑顔ばかり。それでも何とか笑顔を作ろうと頑張ってくれているのがいじらしくて……いいね。
これをリューンでやると可愛い同意は返ってくるが、服が伸びてダメになる。軽量なアリシア相手だからこそ成せる技だ。
「ねっ? って……お、お姉さま……」
「そんなことだろうと思いましたわ……きちんとエスコートしてあげてくださいね」
対照的な二人の言葉が重なる。うちの使徒は沈着冷静で頼りになるね。
「そ、そんなことって! アンデッドドラゴンの、ロ、ロードなんですよ!? そんな、首根っこって……」
対照的なのは聖女ちゃん。珍しくおめめぐるぐるでキャンキャンと騒いでいる。色々な表情を見ることができて私は嬉しい。
「ソフィアはサクラのことをまだ分かっていないようですね。いいですか、彼女は第一級冒険者、魔食獣すらをも真っ向から殴り殺す理外の存在なのですよ。首に縄をかけようが足を引きずってこようが同じこと、サクラができると言えば、できるのです。討議すべきはその後のこと、如何様にして討伐するかでしょう」
言うだけ言って、優雅にお茶を飲み出した。こいつはこういう細かい所作の一つ一つが優雅で美しい。お酒を飲んでる時とはまるで違う。
そんなことより、ヨイショするのか馬鹿にするのか、はっきりして欲しいのだが。
さておき、会議が進むにつれていくつか作戦に変更点が加えられた。
まず、配置する結界石は三重にする。一つ目は外周に固定、二つ目を一つ目の効果範囲ギリギリに設置し、三つ目を二つ目の──として、二つ目と三つ目を交互に進めていけば、より安全に魔物の押し出しが可能になるのでは、という話になった。
ある程度距離を稼げなければ、浄化はともかく森を焼き払う際に問題が出てくる。浄化橙石さえあれば結界石を一つ作るのに必要な時間は秒単位だ、特に問題はない。
かつて手作業でリューンがカリカリやっていた頃に比べれば、物凄く進歩したものだと思う。
次に、この作戦の指揮はミッター君に執ってもらうことになった。素人の私より騎士学校卒の彼の方が向いているということもあるが、私は拠点に居ないことも多いので、指揮者はドッシリ中心で構えていた方がよかろうとのことで。
ペトラちゃんやフロンを筆頭に、任せきりにはならないよう全員に補助はお願いしている。お城や騎士団、それに冒険者との連携もあることだし、全てに顔が利くガルデ組が前に居た方がやりやすかろう。
もちろん後ろに私が居ることは強くアピールしておく。火の粉は振りかかる前に消した方がいい。
火系魔法師がそれなりにいるので、火玉を撃ち上げる数で緊急の連絡ができないかとかなんとか、そんな戦術面の話も進みながら、最後に私は龍の討伐任務から正式に外された。
翌日、元からお城との連絡係を務めていたペトラちゃんと指揮を担うミッター君とが王城に出掛け、ソフィアとアリシアが冒険者ギルドまでお使いに出る。
リューンはエルフ工房で引き続き火炎放射器の製作ノルマをこなし、フロンはその監視をしながら細々とした物品製作の続き。
時間ができたので私はリリウムを引き連れて、ちょっと北までお散歩に出掛ける。
まずは強度を最高まで引き上げた《結界》の中で作戦会議だ。
「じゃんじゃじゃーん!」
「はぁ……なんて可愛らしい……」
《次元箱》から取り出し眼前に掲げた私の杖。にゃんにゃんっ、っと左右に振れば可愛さもひとしおだ。
ようやっと試すことができる。『樽』の運用テストを始めよう。水杖二号君のことも忘れてないよ。
「うちの『樽』は世界一可愛いからねぇ」
「えぇ、えぇ……これは世界一ですわ……。それで、水を出すだけならこのような場所まで来ずとも、お庭でもよかったのでは」
場所は件の山々のとある地点。眼下には黒スライムと共に可愛くない生き物が蠢いている。キメラとかいう奴だ。
その辺の生き物から腕だけを引きちぎって身体に貼り付けたような、ゲジっぽい生物達がビタビタと這い回っているのは、ずっと眺めていると精神を病みそう。珍しく群れているので繊細なハートがゴリゴリとやられる。『樽』だけが癒しだね。
「屋敷を吹き飛ばすことになったらマズイし、ちょっと試したいこともあってだね」
いくら術式で効果が六倍以上に引き上げられているとはいえ、術者が私だ。普通に魔力を通したところでそう奇天烈なことになりはしない。
「試したいこと、ですか」
「うん、水って《浄化》が通るんだよ」
「──なるほど」
なるほどだ。上手くいけば、お掃除が大層捗るかもしれない。
私の鍛冶製品は現状、いくつかの要素が重ならなければ、どれだけ手間をかけようと絶対に神器化しない。
そのために必要な要素の一つに、《浄化》を篭めに篭めてコポコポ言うようになった過浄化冷却水の存在がある。
これは普通に井戸から汲んできた水に《浄化》を篭め続けることで製作するのだが、初めてヴァーリルでこれを発見した時に比べ、今では遥かに短時間で水樽の水をコポコポ言わせることが可能になっている。神力の成長によるものだろう。
まずは普通に魔力を通してみる。手からではなく、垂直に立てた杖の先端、ちょうど『樽』の頭上から真上に水飛沫が迸り……やがて重力に負けて落ちていく。
水杖二号君も同様だ。フロンのように杖を両手持ちにして、ドバドバと水を無駄遣いする。かつての私に見られたら全力で殴られかねない暴挙だ。
「水量は十分だね、大樽一つ分の水を作るのに……片方だけでも五十秒はかからないかな」
しかし、二刀流で三十秒切るというのは中々なんじゃなかろうか。五十秒でも素手の六倍なんてレベルではないように思うのだけれども……フロンが何かやっていそうだな、これ。
それはともかくと、そのままクルッと回して樽の頭を地面に向ければ、結構な勢いで水が黒スライムの下へと降り注ぐ。ちょっとした打たせ湯くらいの勢いだ。
だが間違っても攻撃には使えない。ドバドバと流れ落ちる水流に突っ込んだリリウムの手はびくともしないのだから。
「割と温かいのですね。熱くもなく冷たくもなく──飲めるのですよね?」
「私はお腹を壊さなかったけど、『樽』経由だとどうだろうね。飲んでみようか」
魔力を絞って水の勢いを抑え、リリウムのお手々に水を溜める。そこに顔を突っ込んだ。
「……猫じゃないんですから。あ、いえ、猫でしたわね。いやいや、そうではなくって……」
世の中には蛇口から器用に水を飲む猫もいるのに、私は顔を突っ込んでいる。猫は凄いね。
「まぁ、飲めるか。少し多目に飲んで体調の変化を見てみよう」
しばらく水を飲み合ってお腹をタプタプにしてみたが、まだこんなことは序の口だ。照明のスイッチを入れて明かりが点くかどうかをテストしているに過ぎない。
「さぁて、『樽』が聖なる猫となれるかどうかだけど──」
引き続き水を垂れ流しながら、両手に持ったそれぞれの杖に《浄化》を篭めていく。かつて『黒いの』や他の道具でも散々確認した例に漏れず、杖本体に神力は通らない。例外はリューンの三代目『黒いの』だけ。
力づくでゴリ押せば通るというものでもない。ないのだが……何やら『樽』から放たれた水を浴びている黒スライムが、ビクンビクンと怪しい挙動を取るようになった。どう見ても苦しんでいる。
「できますわ! やれますわ! 『樽』にならなれますわっ!」
リリウムが樽になったら……いや、やめておこう。
しばらく試行錯誤を重ねた結果、一つだけはっきりした。これはガラスペンと同じ現象だ。
杖本体に《浄化》は通らない。杖に流している魔力を経由しても神力は通らず、浄化水とはならない。だが、杖に《浄化》を纏わせて、それを放射されている水に吸わせるようにして流せば──水は弱いながらも浄化水になる。
ペンに溝の数が関係しているように、杖には表面積が大いに関係していそうだ。センスの悪い成金みたいなゴッテゴテの装飾にまみれた杖を作り、その表面に《浄化》を這わせ続ければ、より強力な──あるいは、ヴァーリルに居た頃の私でも今の『樽』と同様の浄化水を生成することができそう。
表面に被せているにも関わらず、普通の造形をしている水樽二号君の放水に《浄化》がほとんど吸われていかないのは謎だが……装飾の出来が何か関係しているんだろうか。そんなことはないと思うんだけど──。
「でも……だめだぁ……すっごい疲れる……」
適性を恨む。確かに私は水属性とは相性が最悪だ。最初にリューンと出会った頃からそれは知っていたし、今では自分の適性も、それが割と珍しいものであるということも承知している。
最悪でも術式を刻めば発現させるくらいはできるし、こうして神力を組み込んで応用することもできる。だがこれは付け焼き刃、女神様のズルに過ぎない。普通の人にはできないことを無理やりこなしている。身体と魂の二方向からのしかかる負担は半端なものではなかった。
肉体的な疲労とも、魔力が枯渇寸前まで追い込まれた時の倦怠感とも違う、第三の辛み。どう称したものか……私は適当な語彙を持ち合わせていない。
「ただ水を流すだけならば、どうなのです?」
「それは問題ない。けど水生成に魔力を通しながら、神力を使うのがキツすぎる。やり過ぎると破裂するかも」
飲用水を確保するという点だけをみれば、二本とも合格だ。『樽』が聖なる猫の称号を頂けなかったことと、お掃除の手間が減ることがなかったのは残念だが──そういつもいつも成功したりはしない。この経験はいつか活きるであろうし、失敗と切り捨てるのはもったいない。
(これが伸びるまではお預けだなぁ。それまでに知見を深めておかないと)
五年辺りが目処になるだろう。次は二、三セットまとめて使ってみたいところではある。十五年は待ちきれる気がしないけど。




