第二百七十九話
ゆっくりと温まった後、溶けたエルフを背負って屋敷へと戻る。
フロンは杖を作るための魔石炉を有する工房へと顔を出しにいくとのことで、途中で別れて今は二人だ。
「寝ないでよー」
「寝ないよぉ……」
返ってくる声がトロンとしている。お風呂の時点でだいぶ怪しかったが、まだお昼を過ぎたばかりだと言うのに、今すぐにでも落ちそうな気配をかなり色濃く漂わせている。
歩かせればいいのだが、こいつは一度ひっつくと中々離れない──こういうのも、たまにはいいけれど。
「お昼ご飯どうする? 何か食べていく?」
「あー……たぶんアリシアが何か作って……そういえばチーズが欲しいとか言ってたっけ、買っていかない?」
急に覚醒したな。やっぱり食べ物で釣るのが一番だ。
「リューンが食べたいだけなんじゃないの」
「ちーがーいーまーすぅー!」
背中から飛び降り、そのまま腕を組んでくる。風呂上がりとあって大層ぬくい上に、布越しでも肌が絶妙にしっとりとしていて艶かしい。
私は周囲からの視線が気にならなくもないのだが、こいつは気にする様子が欠片もない。何というか、常に我が道を行っているのが多少羨ましくもあるね。
食べ物屋さんのことはリューンに任せ、適当に店舗を賑やかしながらよさ気な品をかき集めていく。
実は私はそれほどチーズが好きではない。日本で食べていた物は大層食べやすかったんだな……ということを強く実感する瞬間で、この世界の、あるいは本場のチーズもそうなのかもしれないが、市販されていたり食堂で出てくる物はかなり癖の強い種類が多い。
臭いがキツイならまだマシな方で、ひたすらに塩辛かったり苦かったりする。保存食、携帯食としては優れているので、いつか美味しく食べられるようになりたいと思ってはいるのだが、子供から大人への過渡期でもあるまいし、嗜好なんてそう簡単に変わりはしない。
「これと……これと……あっ、これ美味しいんだよ? これも買っていこう!」
そんな保存性に優れた物品が相手とあって、手当たり次第に抱え込むのを止める気にもなれない。あれもこれもと器用に抱き抱えて積み重ねていくのはコミカルで可愛い。
リューンちゃんは大抵の物は美味しく食べるが、未だに魚介の類には抵抗があるのか、店単位で避ける傾向がある。干物はともかくとして、そもそも海沿いの町でもなければろくすっぽ手に入らない希少品なので、リューンに食べさせていたら財布の中身が一瞬で吹き飛びそうではあるけれど。
この食いしん坊は美味しいんだよ? と口にはしても、無理に勧めたり物を口に突っ込んでくるようなことをしない。私も無理に魚を勧めたりはしない。この辺の距離間が、特に諍いもなく長くやってこれた秘訣であろうと思っている。
ちなみに未だに鮭とばは手に入りそうにない。もう十年近く探しているのに……。
買い物の途中で見つけた木工屋で新品の大樽をいくつか手に入れ、屋敷へと帰り着いたところで、小麦の甘い良い香りが漂ってくる。
玄関からでも分かる、パンでも焼いているんだろうか。
荷物もあるしと手洗いをしてから台所へと向かい、扉が開きっぱなしのそこへと足を踏み入れたところで一瞬言葉を失った。
「あ、サクラさんおかえりなさい!」
「お、おかえりなさい!」
ただいま私の妹達。今日も可愛いよ。ところでこれはなんだい?
「また……たくさん作ったね……」
どこから持ってきたのか、壁際に鎮座しているオーブンのような縦横一メートル程はありそうな大型の加熱魔導具に、椅子を足場にして置かれた私の冷凍庫君に乾燥庫君。
大きな作業机の上にはいくつもの大型のボウルに多種多様の粉袋。そして業務用かっ! と言いたくなるような、バターの塊に、お肉や野菜に果物までもがはっきりと己の存在を主張してくる。
カマドもフル稼働している。今この瞬間も、薪や炭でコトコトと煮こまれている三種のスープ。臭いが混ざって少し微妙な印象を受けるが、隣のエルフのお腹が鳴り出しているところを見るに、味には期待ができそうだ。
「あ、あの、サクラさん! これ、よかったら味見してくださいっ!」
満面の笑顔でペトラちゃんが差し出してきたのは、フィンガータイプのショートブレッドが盛り合わせになった皿。何というか、カラフルだ。
「果物と、こっちは野菜入りかな? 美味しそうだね、頂きます」
朝時間がないときに食べていた、ちょっとお高めの黄色いアレを思い出す。まだ温かで、噛み切った辺りで断面がボロボロと崩れるが、味は合格点だ。些かバターの量が多すぎる気がしないでもないが。
同じ乳製品なのに、バターはチーズと違って大層口に合う。とても美味しい。
フルーツ味とベジタブル味。お口の水分を容赦なく奪ってくるが、味気ない固パンや乾パンとは雲泥の差だ。
「すごく美味しいよ、お店でも売れそう。フルーツはきちんと干してあるのかな、甘みが増してていい感じ。野菜も……これならリューンも食べるかもね?」
果物は多種多様な味の物が雑多に混ぜ込まれていて調和していると称するほどではないが、美味しいものは美味しい。
野菜も……何か野菜嫌いの子供向けというか、無理やり練り込みました! 感が満載だが、これはこれでありだ。少なくとも私は好きだし、とても美味しいと思う。
リューンの返事は待つまでもなかった。差し出された皿にコソッと手を出して、ペトラちゃんに負けず劣らずの良い笑顔で勝手にモグモグやっている。両手に一本ずつ持つ食いしん坊スタイルは見苦しいので禁止にしよう。
「本当ですかっ!? よかった、自信作だったんですよ!」
ペトラちゃんとアリシアが手を取り合ってキャッキャと喜びを分かち合っている。華やかでとても良いね。
「これだったら保存方法を工夫すれば外にも持ち出せそうだね。冷凍しちゃってもいいかもしれないけれど……」
真空パックとかあるし、なんとかならないだろうか。そもそも食べ物がダメになるのは腐敗──細菌や微生物が繁殖したり、酸化したりといったことが要因としてあるわけで、徹底的に浄化してそういった要因を駆逐した上で、酸素と触れ合わない場所に保管しておけば──。
一人思考の泉に沈み込む。大型冷凍庫君を作ってそこで凍らせておくのももちろん手だ。だがこういった工夫は続けていかなくてはならないのだし、そのうち試してみようと思う。それだけの価値がある。
(掃除機みたいな……? でもあれどうやって吸ってるんだろう。気圧……圧力……うーん……?)
まぁ、今はいい。美味しいパンやお菓子には、美味しいお茶を添えなくてはならない。手早く支度をして、そのまま夕方までお料理少女を横目にリューンとつまみ食いを続けた。しっかり夕食も数人前食べていたこいつの胃袋は、たぶん普通ではない。
寝る段になってフロンと共にリューンにウォーターサーバーの術式を刻まれ、久し振りにベッドで、一人で眠る。
初日はソファーでうつらうつらして、二日目は気がついたらリューンの抱き枕にされていた。今日は搬入されていたベッドを使って、皆の私室から程よく離れた部屋で、一人早々に夢の中。寝付いたのが早かったためか、翌朝は未明の頃に目が覚める。
「しっかりと……馴染んではいるか。けどここで魔力通したらマズイな」
手早く部屋着に着替えて靴を履き、横着して玄関まで《転移》する。お外に出たところで門番の人を慮って裏庭に移動し、そこで術式の試運転を始めた。
二種の魔力身体強化、足場魔法、変形に変質、そして索敵と浄化に続いてついに加わった属性魔法。水生成。
これの機能は特筆することもない。回路と繋がっている任意の部分から、魔力で純水を生成するといった代物。杖を使うことで、杖から水を出すこともできる。とても分かりやすい。
適性が合っている高位の術師は、似たような術式で生み出された水の塊を高速で射出することで攻撃に用いたり、伝説には津波のような濁流を生み出すような、災害レベルの術式を行使する者もいたとか何とか。私は適性が壊滅的な上に高位でもなく、おまけに術式を刻みたてということもあって、チョロチョロと飲水を出せるだけのウォーターサーバー魔法止まりだ。
「魔力で水を生み出すのはまだ分からないでもないけど……ほんと質量保存とか、物理法則に喧嘩売ってるよね……」
指の先からチョロチョロと漏れているお水を見ながら独り言ちる。試しに飲んでみたが、水温はこの気温より温かい……二十度前後だろうか。普通に美味しいお水が延々と流れ続けている。
地面に生まれた水溜りはやがて蒸発してしまうだろうが、何故か『黒いの』で地面ごと突き刺してみても、魔力貫通のナイフで氷弾を消した時のような不可思議な消え方はしなかった。これには首を傾げることになる。
「魔力由来じゃない……? そんなこともあるのかな」
生成直後の宙に浮いている水をバシャバシャと斬り崩してみても、やはり消える気配がない。これはこういう仕様なんだろう。
この水生成とペトラちゃんの氷弾とでは何か違いがあるのかもしれない。水分の割合が六割を占めるのが人間という生物。これを常飲し続けて、斬られて水分が霧散するなんてことにでもなったら即死する。
(津波レベルの水を延々と生成し続けたら、島の一つや二つ簡単に沈みそうなんだけど……大丈夫なのかな。港町とか危なっかしくて住んでられないよね)
未だに地震とか津波とか竜巻とか、そういった自然災害とは遭遇したことがない。石を積んでセメントのようなもので固めただけの建物が散見されるし、もしかしたら地盤は動いていない……のかもしれない。
「南大陸も沈んでなかったし……今更気にしたら負けか」
適当に蒸発したり、どうにかなってるんだろう、たぶん。