第二百七十七話
お城を出てすぐ、グルっと迂回して北の階層を目指す。
ここの兵士や衛兵は優れているのか、数時間で忘れるようなオツムをしていないのか、単に物珍しくて印象に残っているだけなのか、中枢に程近い場所限定なのかは分からないが、今のところ一度通った内門は大体顔パスで抜けることができている。夏の頃に王様に見せたっきり、私のギルド証は光を浴びていないかもしれない。
これはとにかく楽でいい。楽でいいが、顔を覚えられていること、住居が割れていることに一抹の不安を覚えないでもない。楽でいいけど、気は休まらないというか……どう表現したものか、この微妙な乙女心を。
徹夜明けで会議に参加したこともあって、微妙な眠気が今この時も絶え間なく存在感を増してきている。屋敷を出てからはずっと《結界》を控えさせてはいるので滅多なことは起こらないが、これが続くと問題であることは重々承知しているし、そもそも解決にはなっていない。
(ソファーじゃ眠れない! ──なんて繊細なハートはしてないんだけどなぁ)
私はそれなりに寝付きがいい。寝所で本を読んだり明かりを見つめたりということがなくなって久しいこともあるが、寝ようと思えば割とすぐに意識は落ちる。一人でも、二人でいる時でも。
だが、昨夜はダメだった。遠足前夜の少年少女でもない。何か重大な悩みに思い煩っているわけでもない。身体が疲れていないわけでも、睡眠を欲していないわけでも、地獄の迷宮七時間耐久に慣れきって一時間寝れば十分な身体に変化したというわけでもない。
ないない尽くしだが、強いて言えば……何か重大な悩みに思い煩っていたのかもしれない。端的に言えば不安だったのだ。この大都市で、王都ガルデで、住処が割れて、今この瞬間も有象無象が屋敷に押し寄せているという現状に。
まさに一抹の不安だ。手抜かりなく対峙すれば、私がその辺の暗殺者風情に害されるわけがない。不意打って私の意識を刈り落とせるのは現状フロンくらいなものだ。
──封印術。世の中にはなんと傍迷惑なことか、こんな魔法がある。
これ自体はそれなりに認知されてはいるが、それほど一般的な魔法ではない。
魔物の行動を一瞬止めて、その隙に……とか、倒せない強大な魔物をとりあえず無力化して解決を先送りにするとか、そういった感じの使い方をする。
ある意味リューンの束縛魔法のようなものだが、縛られたところで《転移》で抜けられ、やろうと思えば腕力で引き千切ることも、魔力破壊の得物で切り崩すことも可能な肉体のみに作用するこれとは違い、封印術は意識や精神に直接作用する。
こういった系統の魔法は、混乱させて自滅を促すだとか、魅了して……あるいは強く縛って魔物を手下のように操るだとか、部下を狂戦士に仕立てるだとか、割と碌でもないものが多い。
そしてこういった魔法に対するカウンターの手段を、私は現状持ち得ていない。フロンがまた私を封印しようとすれば、万全の状態で対峙しても、私は直ぐ様意識を刈られて眠り姫と化す。姫じゃないけど。
(ガラスの靴でお城に出向いてみたり、魔女に眠らされてみたり……メルヘンだねぇ)
そしてその辺の暗殺者風情がこれを用いて私を狙ってくれば──。
(死ぬよねぇ……死ぬね。間違いなく死ぬ。人災の可能性が万に一つもなければ、後でいいと思っていたんだけど──)
なんてったってハイエルフ、フロンは魔法師としてはかなり高位だ。そして高位の魔法師なら、私を有無を言わさずに無力化できる。杖がなくともできていたわけで、高位の術師でなくとも杖を持てば、私を無力化できるかもしれない。それは大層マズイ。
彼女だから封印できたと、他の魔法師にそんなことができるわけないと、楽観して油断していい立場ではない。私に託された、たった一つの願い事。備えなければならない。遂げるためにも、安眠のためにも。
暗視に遠見にウォーターサーバーに、仕事を押し付けてしまって大変心苦しいと反省しきりではあるのだが……用意してもらおう。アンチマジック──封印対策の抗魔の道具を。
あれだけ大見得切ったのだ。龍と戦う前に封印されて首チョンパされましただなんて、笑い話にもならない。
飽きもせずに束の間の我が家の門前に壁を作って行く手を阻んでいる野次馬を前にして、一つ溜息と共に決意した。
「ただーい……ま──?」
律儀に門前の列に並び、門番の人に一つ労いの言葉を掛けた後に、玄関に滑り込んで扉を背にして息をつく。
ここでようやっと張り詰めていた気持ちが緩み、《結界》を解除してフラフラとエルフ工房へ足を向けた。
何やらワイワイと賑わっている当家リビングには、私以外の全員が集合しており──。
「あっ、サクラおかえりっ!」
天使がいた。
「ど、どどど、どうしたのそれ!? 出来たの!?」
天使はメガネを掛けていた。もう何年ぶりになるのかを考えるのは止す。私のエルフの懐かしのメガネ姿だ。可愛い。
「あー、これはその……まだ模型。形状とね、術式の配置とを考えててね」
何やら残念そうな苦笑いでそのような言い訳を口に乗せているが、そんなことはいい。模型とか配置とかはいいんだ。可愛い。
私はメガネフェチだったんだろうか……そんなことないとは思うんだけど。やたら可愛く見える。否、見えるだけではない。可愛いのだ。
似合う? とでも言いたげに、指の先でフレームを支える仕草にキュンっとくる。
「可愛い」
思わず口に出る。馴染みのあるハーフフレームのアンダーリムタイプ。鼻パッドも付いているが、模型と言うだけあってか、アームが折れ曲がったりはしないようだ。それでいてレンズに当たるものが見当たらなく、全体は馴染み深い浄化白石の白色をしている。
「ほ、ほんと? 可愛い?」
「可愛い。凄く可愛いよ。超可愛い。大好き」
語彙が消失する。これまで幾度となく、『あぁ、メガネがあればなぁ』、『メガネをかけていれば完璧なのになぁ』などと夢想していたが、ついにこの時がやってきた。
学者にはメガネだ。秘書にもメガネだ。先生にもメガネだし、生徒にもメガネ。
「おおぉぉ……サクラがデレた……。こんな、こんな簡単なことで……」
そして私のエルフのメガネは究極に近い。スライムのようにプルプルと震えているのも、これまた可愛さに拍車を掛けている。滲み出ている感情は、喜悦だろうか。
「懐かしいねぇ、凄く良いよ。よく似合ってるし本当に可愛い。ねっ、もっとよく見せて?」
自己主張が激しくなってきた眠気にはしばらく黙っていてもらおう。今はそれどころではない。懐かしの黒ワンピと白メガネ、それとリューンの組み合わせは間違いなく最強の一角だ。魅了の魔法でも掛けられたかのように、他の物が目に入らない。少なくともこの世界には八人居る。
「あ、穴が空くまで見ればいいよ! むしろ穴を開けてっ!」
ムフン、とドヤ顔で、次々にリクエスト通りのポーズを取るリューンが可愛すぎるのだ。あらあらうふふの構えもメガネがあることで、その属性や攻撃力を大幅に変化させるようだ。
私の頭もだいぶ限界が近いような気がするね。やっぱり抗魔の道具は必要だ。
「期待をさせてしまって悪いんだが、未だ実用には程遠い」
意識が戻った時、私はベッドで抱き枕にされていた。
あの後もしばらくエルフ工房でじゃれ合っていたが、急に意識が落ちて倒れ込んだらしい。
少し皆が慌てたが、単に眠っているだけと気づいてしばらくはソファーの住人となっていた。だが夜になっても起きないのでお持ち帰りされたとのこと。イタズラされたかどうかはリューンのみぞ知る。
翌朝になって製作者のフロン先生による講義が始まり、それを今傾聴している。眠気もすっかり消え去って頭はスッキリしている。リューンちゃん効果かもしれない。
「光と闇の術式はやっぱり難しい?」
「難しい。だがやり甲斐もある。今までは専門ではなかったことに加えて、大して必要性も感じていなかったので手を付けていなかったが──ああまで喜ばれるとな」
苦笑混じりにそんなことを言うエルフ先生。確かにここ最近で一番嬉しかったかもしれない。完成した暁には……私は自分を抑えられるだろうか。
「フロン、これはやっぱり一刻も早く完成を目指すべきだよ! これ着けてるとサクラが三倍くらい優しいんだよ!」
珍しく寝起きが良く、今もメガネ模型を装備してふんすふんすしている、やる気が漲っているいるリューンには悪いのだが……先に手を付けて欲しい物品がですね、色々とあってですね……。
「水生成の術式は既に仕上がっている。後は姉さん自身に刻んで、転写用の魔石に仕込んだそれをも確認すれば済む。魔物除けに関しても確認するのみだ、これも大して時間はかからん。抗魔に関しては……そうだな、使い切り前提の高機能品ということであれば、さして時間も掛からない。三日もあれば仕上がるよ」
「マジか……フロン先生半端ないな」
私の希望に対する回答を次々に述べてくれるエルフ先生。本当に仕事の早さが半端ではない。そしてそんなフロンでも難儀するのが夜目と遠目、暗視と、遠視──だと少し意味合いが変わるな。望遠機能の構築。
これは今しばらく時間が必要だ。今回の仕事で特に必要な物品というわけでもないし、後回しにしてもらおう。
「前にも言っただろう、こういうのは私の専門だと。リューンと一緒にしてくれるな」
何やら吠えているエルフを無視してエルフ先生との打ち合わせを続ける。魔石炉を有する工房とも既に話がついており、私の都合に合わせて場所を空けてくれるとのこと。惚れそうだ。
順序良く仕事を片付ける必要がある。私は術式が馴染むのが遅いので、ウォーターサーバーの術式を刻むのは寝る前。今日は今すぐにでも魔物除けの魔導具とそれに使用する術式とをチェックしてもらって、それの性能試験をミッター君にお願いしよう。
「それが終わった後に杖の型を作って……でいいかな」
「問題なかろう。工房は何日借りればいい? 長くとも四日くらいまでであれば融通を効かせてくれるとのことだが」
「四日も? それは……凄いね」
「今や大口の客でもあるし、報酬もかなり弾んでいるからな。それに事が事だ。断れんだろう」
杖を一本作るだけなら一日あれば十分だ。早朝から夜遅くまで篭もれば二本作れるかもしれない。
後はショベルだ。スコップが欲しい。地面をサクサクと掘り進めることができる、究極の切れ味を誇る逸品を作るのだ。数があれば建築作業もきっと捗る。
「四日とも借りようかな。骨をそのまま放置しておくわけにもいかないしね」
「では、四日で話をつけてこよう。明日からでいいな?」
フロンは話が早くて本当に助かる。これからの五日間でおおよその準備を終えて、後は魔物除けの魔導具をひたすら量産すれば、計画を進めることができる。
決行の日もそう遠くはない。




