第二百六十五話
冬の寒さも盛りが過ぎ、徐々に暖かな春の訪れを予感させる──そんなある日。拠点としている宿へとミッター君がやってきた。
第四迷宮での浄化緑石集めにも一区切りがつき、ぼちぼち封鎖を解除してもらってガルデへ戻ろうかと相談していた矢先の出来事だ。
ギリギリまで魔石を集めてより一層備えたい気持ちと、早めに戻って打ち合わせを綿密に行いたいという気持ちが半々。ギリギリでガルデに駆け込んで、その足で龍討伐へ……なんてことになるのは流石に避けたい。
魔石の数量については、全てうちの優秀な秘書が管理してくれている。メガネの実装が待たれるね。
「久し振りだね、元気にしてた?」
うっかりそのまま扉を開けそうになって、大慌てで着替えた。流石にピカピカ下着一丁で出迎えるわけにもいかない。普通の下着といつもの部屋着に袖を通す。
この程度の寒さなら気にならなくなっている身体になってしまっていることに加え、この下着は相変わらずフィット感が抜群過ぎて、着ていることすら忘れそうになる。明かりも慣れてしまえば気にならない。とはいえ、しばらくの間、水白金下着モードは止めておいた方がよさそうだ。《次元箱》に隠しておこう。
「はい。変わりなくやっています。この度は自分のワガママを聞き入れて頂きありがとうございました」
「いいのよ」
差し出した温かいお茶のお礼と共に、良い姿勢で律儀に頭を下げる彼氏君。こういうところは騎士らしいのだが、彼はもうその道に未練はないという。
長らく……という程でもないが、数ヶ月にも及ぶ修練を積んできたことで、彼もどことなく精悍になってきたように思える。
黒いイノシシワニ製の防具は小さな切り傷が増え、本人にもちらほら傷がついているように見えるが、大怪我を負ってはいないようだ。壮健そうで何より何より。
「それで、今日はどうしたの」
私も自分のお茶を淹れて、対面するようにして腰掛ける。もちろん魔法で作った足場にだ。うちの男の子は、この程度で驚くような柔な鍛え方をしていない。
テーブルはリリウムに使われているし、ベッドに腰掛けさせるのはデリカシーに欠ける。なので足場魔法に座るのだ。何も問題はない。
迷宮の封鎖を手配した後、リリウムとは何度か会っていたようだが、私とは一度も会うことがなく、私達が拠点としている宿へも一度もやってこなかった。
そんな彼が訪ねてきたので何か問題が起きたのかと思えば、そういうわけではないらしい。
「ガルデからメタルリザード収集の人員がやってきまして、交替することになりました。手持ちの分を輸送し終えれば手隙になりますので、何かお手伝いできることがないかと思いまして」
メタルリザード。魔法系に強い鎧トカゲ。これは砦のコーティング剤として外壁に塗布し、放出魔法に対する防御能力を底上げする目的で集めていた。
「それは、王命?」
「はい。陛下からの書状を携えていたとのことです。自分も父経由で知らされただけですので、現物を確認してはいませんが」
我々に全て任せっきりというわけではなく、ガルデからも人員を回してくれたようだ。
あのお父様が言うのであれば、騙りということもないだろう。お爺ちゃんの気遣いはありがたいのだが、ミッター君は暇になってしまったか。
「どうしようかな。私達も今は特に立て込んでいるというわけではないんだよ。第一も第二も封鎖を解除してもらったし、第四も……そろそろ必要な量は集まったと思うし」
リリウムに目をやると、少々考え込んだ後に、小さくコクリと頷いた。こいつは見た目だけは少女チックなお嬢なので、こういう日常の何気ない仕草一つ取ってしても、なんというか……良い。
いつも黒のタンクトップとスパッツのような季節感を全無視したスポーツウェア姿でいるが、たまには可愛いお洋服で着飾ってくれてもいいんだぞ。お人形に着せるような、ゴシック系のロリータ衣装とか滅茶苦茶似合いそうだ。
ちなみにこいつは普段からノーブラなのだが、この世界のクーパー靭帯は強靭なのか、はたまたドワーフの特性故か、激しく動いてもブルンブルンと荒ぶることはほとんどない。たゆんたゆんくらいなら割とある。
ドワーフの胸は強い。色々な意味が篭っている。
そんなどうでもいいことを考えながら雑談に花を咲かせている。彼も確かな冒険を繰り広げていたようだ。
それにしてもどうしたものか。ボチボチ戻るかね、ガルデに。
「迷宮に一刻程入った後は、私達も割と暇してるんだよね……そろそろ戻ろっか。やることやってる間はいいけど……のんびりしてたとバレたら拗ねそうだし」
うっかりリリウムが漏らそうものなら、リューンとソフィアと、うちの可愛いのの機嫌が大層悪化しそうだ。
フロンにも要らぬ気苦労をさせていそうだし……魔石の残量が不安だったら、また一人で集めにくればいい。
「分かりました。自分も異論ありません。すぐにでも発ちますか?」
「他の迷宮入りたかったら、もうしばらく滞在してもいいよ」
「いえ、自分は特に」
リリウムによると、彼はどうやら第六迷宮そばの宿に拠点を構えていて、実家にはあまり帰っている様子がなかったとかなんとか。
今生の別れにさせはしないが、しばらくはパイトに寄る予定もない。最後に挨拶くらいはする時間があっても、きっと良い。
私も一度しっかり挨拶をしておきたいが、それはペトラちゃんの実家と同様に、全てが終わってからにしたいと思っている。
五体満足のまましっかり生かして、完璧に仕事を終えて帰る。その後にお姉ちゃん面してご家族に挨拶。これだね。
「んー。買い物してからかな。明日……いや、明後日だ。明後日の深夜にでも出よう」
今日明日と実家でゆっくりしてもらって、日付が変わってからマラソン。これでいこう。
パイトの魔導具屋には、それなりに優秀な人造魔導具の類が揃っている。各迷宮探索の一助となるような特化品を扱う魔導具店が、エリア毎に一店二店は存在しているものなのだ。
高価すぎて常用するには向かないが、第三迷宮の闇を見通せる御札がいい例だ。あれは宝箱から余程の当たりを引かなくては、ペイできないだろうけど。
(──解析できるかな。メガネの参考資料になるかもしれないし……これは買っていこう)
武器や防具も性能はともかく、意匠は参考にできるものがあるかもしれない。安物ならガルデに置いていってもいいし、邪魔にはなるまい。
「分かりました。では、その頃また伺います」
「お父様によろしく言っておいて」
一つ苦笑を零し、ミッター君は去っていった。拠点の片付けをするにも時間は必要だ。彼は真面目で普段からしっかりしているから、うちの女衆ほど時間は食わないだろうけど。
ついでに託した言伝が、管理所の掲示板に載るのもそう遠くはないだろう。第四迷宮二十六層から先は地面がない。うっかり突撃して転落死する冒険者が減ってくれれば幸いだ。
「気を回しすぎではありません?」
残ったお茶を処理しながらまったりしていると、作業の手を止めずに、不意にリリウムが口を開いた。
何のことだとしばらく頭を悩ませたが、実家に帰る時間を作ったことだと気づいて少しばかり答えに窮する。
「そうかな。会いたくないなら無理に会わせようとも思わないけど、そうじゃないみたいだし」
成人とか、独り立ちとか、そういうのも分かる。お節介を素直に受け入れてくれたことだし、不仲というわけではあるまい。
独立したからといって、実家と縁を切らねばならないなんてこともない。たぶん。
「わたくしはあまり共感できませんわね。親というものに、あまりいい感情が残っていないというのもありますが」
実はこのお嬢、この世界では生まれてきていない。生まれる前まで遡り、生家の近くで遭遇した父親予定だった男を気絶させ、身ぐるみ剥いで全裸から脱却したとか言っていた。
廃嫡されたとは聞いているが、他にも恨み辛みが溜まっていそうだ。普段はまるで表に出さないけれど、こう見えて結構、闇が深い。
「私も、もう会えないからね。できることはしてあげたかったんだよ」
地球に残してきた家族とはもう二度と会えない。特に会いたいという感情が生まれてこないのは、薄情なんだろうか。
今では名前はおろか、顔も思い出せそうにない。両親に兄姉、それに弟がいた。ただそんな情報が残っているだけ。
もしかしたら、彼を通じてそんな欲求を満たしたかっただけ……なのかもしれない。そうだとしたら、本当に押し付けがましいだけだな。
「……余計なお世話だったかな?」
「さぁ、どうでしょうね」
雑談の一つでしかなかったのか、それっきり口を噤んでお裁縫に没頭してしまう。
私もお茶を飲むだけのマシーンと化しながら、迷宮へと向かうまでの時間、遮光服のアイデアで頭を一杯にするのであった。
手持ちの品の輸送を手配したり、最後の風石集めに精を出したり、魔導具屋を巡って研究し甲斐のありそうな物品を調達したり、武具屋を賑やかしてみたり、久し振りに出向いた朝市で噂話を聞きながら、消耗品を買い漁って果物を食べ歩いてみたり。残りの僅かばかりの時間で所用を済ませ、合流したミッター君と共にマラソンでガルデへと戻る。
北の大陸と聞けば雪塗れの豪雪地帯のようなものを想像するところだが、この辺りは大陸の南端なこともあってか、私の知る限りほとんど雪が降らない。
だがきちんと冬らしい寒さをしている。まだ春の来訪は先だ。
そんな寒さの中でも私とリリウムはいつもの私服。ミッター君は帯剣して、魔法袋を守るようにして盾を背負い、鎧もフル装備と油断なく構えている。
聞くところによると、イノシシワニが水棲生物のお陰か、皮で覆われたイカツイ黒鎧の内側はそれなりに温いのだそうだ。
それなりに重量があるはずなのだが、波もなく、一定の速度で走り続けている。成長を実感する瞬間だ。
そして今この瞬間も、彼は複数の術式を併用している。
消費できる魔力の量を増やすための『瞑想』を軸に、ドワーフの身体強化術式に索敵魔法。先頭を走りながら索敵までこなしてくれるので、私は出る幕がない。
私も索敵の魔法術式はほぼ同じものが刻まれているが、この術式は偽装のために刻んでいるようなものなので、そもそもろくすっぽ使っていない。気を抜くと消えてしまいそうな薄さを維持している。
魔力の格は私の方が高そうだけれど、これのみの単純な精度や範囲では、もしかしたら彼の方が上回っているかもしれない。
立派になった。本当に成長を実感する瞬間だ。